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永禄五年一月二十二日(J1562年2月25日) 北原兼孝が伊東氏に誘殺される 北原氏十一代・北原久兼の次男で、日向眞幸院の飯野城主・北原兼孝が一月二十二日、旧臣の平良兼賢(年齢不詳)、伊東氏家臣・長倉祐政(年齢不詳)により飯野城から誘き出されて殺害された。 永禄元年(1558)甥の北原氏十三代・兼守が死去すると、その遺言により兼守の娘を兼孝の息子(名前・年齢不詳)に娶らせて家督を継がせるはずだったが、その娘が早世してしまった。 兼孝が熱心な真宗派で、北原家中で禅宗派と対立していたことから、兼守の正室・麻生の父である伊東氏十一代・伊東義祐(51)が介入し、北原氏庶流の馬関田右衛門佐(諱・年齢不詳)に麻生を再嫁させ後継に推した。 これに反対する家臣らは兼孝を推したが、永禄二年(1559)義祐に都於郡城に呼び出された反対派はその帰途に粛清され、北原氏は事実上伊東氏に乗っ取られた。
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九州
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永禄四年十二月十八日(J1562年1月22日) 神代勝利が山内に復帰 今年の九月十三日、肥前国川上峡における戦いで龍造寺隆信(33)に敗れて居城山内の三瀬城を追われて長男・長良(25)とともに松浦郡さらに彼杵郡波佐見まで逃れ、三城城主・大村純忠(29)の保護を受けていた神代勝利(51)が山内に留まっていた山内衆・中村壱岐守の手引きにより山内に復帰し、隆信の代官を討ち取り、僅か三ヶ月で山内衆の頭領に返り咲いた。
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永禄四年十一月九日(J1561年12月15日) 大友義鎮が出家 門司城攻略を諦め十一月五日夜から撤退を開始した大友勢は門司浜から沼の江・大里・赤迫を経て貫山を越えて大部分は日田に辿り着いた。 だが田原親宏(年齢不詳)ら一部の者たちは貫山から分かれて黒田原・国分寺原から簑島を通って国東に向かった。 これを毛利勢の杉隆哉(年齢不詳)・乃美宗勝(35)・能島の村上武吉(39)・因島の村上吉充(年齢不詳)や来島勢といった毛利水軍の数百人の伏撃を受け、竹田津則康(年齢不詳)・吉弘統清(年齢不詳)・一万田源介(年齢不詳)・宗像重正(年齢不詳)・大庭作介(年齢不詳)といった名のある武将が討死するなど多数の犠牲を出した。 十一月九日には重傷を負っていた田北鑑生(年齢不詳)も傷がもとで死去した。家督は弟の鑑重(年齢不詳)が跡を継いだ。 これを受けて大友氏当主の大友義鎮(32)は出家を決意し、休庵宗麟と号した。しかし嫡男の長壽丸はまだ四歳であり、引き続き実権は保持する。
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永禄四年十一月五日(J1561年12月11日) 大友勢が門司城から撤退 今年七月から毛利方の手に渡っていた門司城を包囲していた田原親宏(年齢不詳)らの大友勢が十一月五日夜、包囲を解いて豊後へ向けて撤退を開始した。 毛利勢の三本松城主・吉見正頼(49)らがこれを追撃している。大友勢の撤退は志賀鑑隆(年齢不詳)が守る香春岳城が九月に毛利勢に攻略され、食糧などの補給が困難となったからと見られる。
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永禄四年十月二十六日(J1561年12月2日) 大友勢が再度の門司城総攻撃 豊前門司城奪還を目指す田原親宏(年齢不詳)らの大友勢は十月二十六日、再度の門司城への総攻撃を仕掛けた。 和布刈神社の裏手から門司山麓に迫った大友勢は田原隊の他、臼杵鑑速(42)・戸次鑑連(49)、斎藤鎮實(年齢不詳)、吉弘鑑理(43)といった大陣容で攻めた。 臼杵や田原らの鉄砲隊数百と戸次の弓箭隊八百が連携して毛利勢の小早川隆景(29)隊に猛攻をかけ、小早川隊に大きな損害を与えた。 しかし、小早川隊も反撃し、城を落とすことは出来ないまま日没となり、大友勢は大里まで引き上げ、門司城攻略は失敗に終わった。
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