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永禄三年十月二十八日(J1560年11月15日) 琉球王・尚元に三男が誕生 琉球国第二尚氏第五代国王・尚元(43)に十月二十八日、三男となる男子が誕生した。母は眞鍋樽金・前東之按司(年齢不詳)、童名・眞三郎金と名づけられた。 尚元王にはすでに庶長子の尚康伯・久米具志川王子朝通(年齢不詳)と嫡男・阿応理屋惠王子(あおりやえ・2)と二人の男児がいる。 尚元王は父・尚清王が天文二十四年(嘉靖三十四・1555)崩御すると王子たちの王位継承争いに勝利して翌年に即位、明王からの冊封はまだ受けていない。
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国際
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平戸城 永禄二年十二月二十五日(J1560年1月22日) 「倭寇」王直が処刑される 明国徽州歙県出身の海商で明国が海禁政策を布く中、筑前博多などで交易を繰り返していた王直(本名王鋥、号を五峯・年齢不詳)が帰国した明国で捕らえられ十二月二十五日、処刑された。 天文九年(1540)に初めて日本に入り、肥前五島を拠点に活動し、その後天文十一年(1542)海商らを庇護していた松浦党の松浦隆信(31)の重臣・籠手田安昌に招かれて平戸勝尾山に住んだ。 南蛮ポルトガル人の交易も王直が仲介したとされ、王直の船で種子島に鉄砲を伝えたともいわれているが真偽のほどは不明。 弘治二年(明国嘉靖三十五年・1556)王直と同郷である胡宗憲(年齢不詳)が浙直巡撫に就任し、「倭寇」の盟主で王直の腹心だった徐銓の甥・徐海を破る手柄を挙げた。 さらに弘治三年(嘉靖三十六・1557)王直を懐柔してこれを逮捕、胡宗憲自身は王直の助命と海禁政策の緩和を嘆願したとされるが、明国官僚の命令により処刑となった。 明国や高麗沿岸で海賊行為を行い、南北朝の頃から活発となった「倭寇」は当初日本人が中心であったが、後に高麗人が加わるようになり、近年は七割方が明国人おされ、明国はその取締りを強化している。
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永禄二年六月六日(J1559年7月10日) フランス国王・アンリ二世が崩御 西欧の王国・フランス国王のアンリ二世が西暦七月十日、急死した(享年満四十歳)。六月三十日、娘のエリザベートとスペイン王・フェリペ二世の婚約記念の祝宴における馬上槍試合で対戦相手のモンゴムリ伯に偶発的に右目を突かれ、懸命の治療が続けられたが回復はならなかった。 フランス王国はスペイン王国の北西に位置し、西暦843年(承和十年)フランク王国が皇帝のカロリング家ルートヴィヒ一世の三人の遺児により分割統治され、ヴェルダン条約により西・中・東の三つに分裂し、西フランク王国が成立した。 西暦987年(永延元年)ルイ五世が満二十歳で夭折してカロリング家は断絶、選挙により姻戚関係にあるカペー家のユーグ・カペーが即位し、以後フランス王国と呼ばれた。 そのカペー家も1328年(嘉暦三年)に断絶して、庶流のヴァロア家がこれを継承し、現在に至っている。 長年にわたり南欧のイタリアをめぐってスペイン国王のハプスブルク家と戦ってきたが、次第にスペインが有利となり、先頃カトー・カンブレジ条約を結んでフランスはイタリアでの権益を放棄し、フェリペ二世とエリザベートの婚姻が定められた。 替わって王太子(満15)がフランソワ二世として即位した。
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