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年も変わり、節分も過ぎて、ほぼ6ヶ月ご無沙汰をしておりました。浦島太郎が竜宮城へ行ってきたような気分ですが、どっちが竜宮城だかわかりませんが、たいへん申し訳ございませんでした。これから、また少しずつでも挑戦してまいります。
さて、大熊信行は1893年2月18日、山形県米沢市に生れ、1977年6月20日、満84歳で劇症肝炎のために米沢市で亡くなっています。きのうが、生誕120年目の記念日ということになります。経済学者としては、小樽高商や創価大学など多くの大学で教鞭をとり、現在の産業連関表や国民経済計算の基礎理論である資源配分理論の世界的な権威であり、また石川啄木、土岐哀果の影響をうけ作歌をはじめ、歌誌「香円」(まるめら)を創刊、口語自由律短歌で歌人としてもすぐれた作品を残されています。
1927年「社会思想家としてのラスキンとモリス」で、ラスキン、モリスの社会思想をはじめて本格的にわが国に紹介しています。
いま、「芸術経済学」(1974年、潮出版社)という本を四苦八苦しながら読ませてもらっているところですが、その発想のユニークさ、先見性には驚かされるばかりであります。本物は、時が経てば経つほど輝きを増す、というような月並みな表現では申し訳ないくらいです。
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平成24年8月16日(木)午後2時、なごりを惜しむように霧雨の煙る小樽港第3号ふ頭14番バース(札幌側)から、独立行政法人航海訓練所練習船、帆船「日本丸」2世が出港していきました。
小樽市市制90周年を記念して、8月11日(土)に入港して、この五日間多くの市民が船内見学などに訪れました。
今日は、あいにくの小雨まじりの出港となりましたが、潮太鼓が勇壮に打ち鳴らされる中、接岸ロープがすべてはずされ、二隻のタグボートと離接岸時に主に使用するエンジンが回りはじめるなか、練習生が整列し三本のマストの網の目に素足の足をかけて、よじのぼり出しました。日頃の訓練の賜物というのでしょうか、見ている方が恐ろしいような高いところを、きびきびと少しも危なげなく登っていきます。
見る見るうちに50メートルのマストの先端まで登り、さらにマストの横に伸びた腕の部分に整列、その時点では、足元はロープ1本で、その上に立って、片手で帽子を取って一斉に、出港のあいさつをしてくれました。
「登墻礼」、誠に勇壮な、まさにシーマンシップここにあり、ということを実感した瞬間でした。
始まる前にご挨拶させていただいた国立小樽海上技術学校の奥田校長先生によると、このマストの高さは、東京湾のベイブリッジの下をくぐれるぎりぎりの高さに設計されているとのこと。
別れを惜しむように、「日本丸」2世は、霧の中を静かに出港していきました。これからの航海の安全と訓練が無事に修了されますことを心からお祈りします。ボン、ボヤージュ!
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2012年6月24日、吉永小百合主演の映画「華の乱」の原作者、永畑道子さん(81歳)がなくなった。1930年、9月27日生まれ。熊本日日新聞記者、女子美術大学教授、熊本近代文学館館長などを歴任された。
1982年、「炎の女−−大正女性生活史」など明治・大正・昭和の女性史の草分け的存在。1985年には、「夢のかけ橋−−晶子と武郎有情」で、與謝野晶子と有島武郎の交流を描いて話題となった。大正デモクラシーといわれる時代を、真摯に見つめた労作は、決して忘れられることはない。ご冥福を!
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「社会思想家としてのラスキンとモリス」、「マルクスのロビンソン物語」などのユニークな著作で知られる大熊信行が、1893年2月18日、山形県米沢市で生まれて、明日で119年目を迎える。ということは、来年は、生誕120年ということ。
小樽商大も昨年、創立100年。大正10年から12年まで、わずか3年、その間に小樽高等商業学校教授として、若き大熊信行は、小林多喜二、伊藤整の二人を教え、それぞれに大きな思想的、文学的感化を与えている。
私も今から約40年前、学生時代に、小野二郎の「ウイリアム・モリス」(中公新書)で、高く評価されているのをみて調べだして以来の長いお付き合いになる。近いうちに、いままで考えてきたことをまとめて見ようかなどと、夢のようなことを、そこはかとなく思う今日この頃。
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昨日、2月9日(木)午前、北海道立近代美術館で開催されている創立60周年記念、北海道銀行コレクションで、ひさしぶりに木田金次郎と対面してきました。この展覧会は、道銀の創立60周年を記念して、有名な初代頭取、島本融をはじめ、歴代のトップが、企業の社会的貢献、フィランソロピーの一環として収集した美術品をよりすぐった展覧会となっています。
木田作品は、1954年作の「りんご」をはじめ初期から晩年まで油彩13点、デッサン10点が展示され、さすがという見ごたえのある展示となっています。なかでも、積丹の漁港や菜の花畑の油彩は、圧巻でした。
奇しくも、いまから遡ること93年前の、大正8年(1919年)2月9日と10日の両日、東京麹町区下六番町にあった有島生馬のアトリエで、前年9月、「生まれ出づる悩み」を発表した有島武郎は、木田金次郎の習作(鉛筆画?)35点からなる展覧会を催し、前日までの大雪もすっきり上がった天候も幸いして、130人の来場を見る大盛況で、売約も100円(現在の10万円ほど)にのぼったという記録があります。
木田の上京をおもいとどまらせた有島は、一人の前途有望な芸術家の進むべき道に大きなコミットメントをもった高揚感と責任感に、自身奮い立つ思いだったのかもしれません。
「生まれ出づる悩み」は、木田と有島の火花の散るような魂の邂逅を表現した稀有な文学作品として、永遠に古くならない魅力を持ち続けていると思います。
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