ただ若き日を惜しめ ...... (緑十字機 決死の飛行)

「緑十字機の記録」は「緑十字機 決死の飛行」に改称しました。

緑十字機 決死の飛行

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[ 太平洋戦争最後の空中戦 ]
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坂井三郎と淵田美津雄
太平洋戦史に詳しい方であれば、この二人の名前を知らない人はないだろう。
二人とも太平洋戦争を生き残り、「緑十字機決死の飛行」で書き表した、終戦からマッカーサー厚木着までの混乱に関係する。
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[ 坂井三郎 ]
最も有名な、日本海軍の零戦エースパイロット。
坂井は、緑十字機1番機が横須賀を離陸し、木更津へ移動した8月18日、横須賀航空隊にいた。
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「緑十字機決死の飛行」 P49
八月十八日午後一時、偵察のために関東を飛行していた米軍のB−32爆撃機二機を、横須賀航空隊の零戦十四機と紫電改三機が攻撃し、米軍兵士が一名死亡した。
この攻撃をマッカーサーが組織的な攻撃とみなせば、徹底的な報復を受ける。日本は、戦闘再開まで紙一重の危うさの中にあった。
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この時、迎撃に向かった零戦パイロットの一人が坂井三郎であった。
零戦の性能では、速度が速く高高度を飛行するB−32を捕捉することは困難であったが、紫電改(雷電との説もあり)ほか数機が追い付き銃撃を加えた。
それは、太平洋戦争最後の空中戦であった。
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この時の様子は、秦邦彦著「八月十五日の空」でも取り上げられている。
https://www.savag.net/the-last-air-battle-of/
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[ 淵田美津雄 ]
淵田中佐は真珠湾を奇襲攻撃した飛行隊長で、有名な「トラ・トラ・トラ」を発信した人物である。
彼は反乱を起こした厚木基地の小園大佐と親しい間柄であり、説得するために厚木に向かったとされる。
小園大佐の拘束に関する証言は諸説あり、真偽は定かではない。
田中整一著「淵田美津雄自叙伝」にそのときの経緯がかかれている。
基本的な情報である日付にずれ(私の調査では、小園少佐の拘束は8月21日朝であるが、24日朝としている)があるものの、読み物としては興味ある内容である。
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「緑十字機決死の飛行」は、一次資料に基づくノンフィクションに拘っており、また緑十字機の逸話の本筋と外れているために、上記の証言は、細部まで引用しなかった。

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凄腕の操縦士「須藤傳」
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昭和20年8月19日、降伏軍使を乗せた緑十字機は反乱軍の厚木航空隊の戦闘機に攻撃される危険があった。
離陸の前、須藤大尉は飛行責任者の寺井中佐と、もし厚木航空隊の戦闘機に遭遇した場合、どの様にして避退するかについて意見交換していた。
不時着した緑十字機一番機の機長は、飛行時間17000時間の凄腕機長、須藤傳であった。
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「須藤傳の回想録より」
驚きましたことは、厚木空の戦闘機が我々二機を撃墜に来るとのことでした。
無防備の二機がこれに遭遇した場合、どうして避退するかということですが、私が七五五空で南洋に居り、米軍のタラワ、マキン上陸作戦のとき、単機で敵機動部隊を索敵中、敵戦闘機三機の攻撃を受け避退した経験がありますので、その時と同様海面すれすれに太陽に向かってジグザグ運動をしながら避退すれば何とか脱出が可能ではないかと話しましたところ、君の技術を信頼していると申されましたことを記憶しています。
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この回想録を読んだとき、ふと「永遠の0」のあるシーンを思い出した。
景浦一飛(俺)が宮部飛曹長(奴)に模擬空戦を挑み、おもわず実弾を発射してしまうエピソードである。
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百田尚樹著 「永遠の0」 講談社文庫 P478 より
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「空中で飛行機が消えた。あれは魔法のような技だ」
そしてこう付け加えた。
「もう海軍航空隊に、この技を使える者はほとんど生き残っていないだろう」
この日、宮部が見せた技がそれだった。まさに神業だった。
飛行機にそんな動きが出来るなどということが信じられなかった。
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しかし、それ以上に驚いたのが、その後のことだった。
俺の照準器は奴の機体をはっきり捉えていた。
しかし俺の機銃弾はそれを外した。
これもすぐに理由がわかった。俺の機が滑っていたのだ。
この説明をするのは難しいが、要するに奴はまっすぐに飛んでいなかったのだ。
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俺たちが飛行機乗りになって最初に学ぶのがまっすぐに飛ぶということだ。
初めて飛行機を操る者はたいてい機体をどちらかに斜めにして飛ぶ。
これを「滑っている」という。
訓練生はまずこれを徹底的に直される。
これが飛行機乗りの基本中の基本と言っていい。
機体が滑っていては戦闘機は機銃を敵機に当てることは出来ない。
さらに言えば、爆撃機の爆弾は絶対に命中しないし、雷撃機の魚雷も当らない。
だからまっすぐに飛ぶことを徹底的に叩き込まれる。
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ところが奴は、俺の前に飛び出した時、機体を滑らせていたのだ。
俺は本能的に奴を追う。しかし、奴の機体をまっすぐに追う形を取ると、俺の機も知らずに滑っていることになるのだ。
わかるか、俺は奴の機体の真後ろにつけている。
二機の零戦が縦に並んで飛んでいる。 しかし、実はその二機は並行して滑っていたのだ。
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俺はその状態で撃った。当然弾は大きく逸れていく。
奴は俺の前に不用意に出たわけではなかったのだ・・・・・俺を試したのだ。
なぜ奴が真珠湾から今日まで生き延びてきたかがわかった。
こんな技を持った奴が米軍のパイロットに墜とされる訳がない。まさに阿修羅のような戦闘機乗りだ。
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緑十字機として使用された一式陸上攻撃機は、双発の攻撃機で機体は大きく重い。
高速の戦闘機に比べ、最高速度は100km/hも遅い。
タラワで須藤機を攻撃したのは、航空母艦を発艦したグラマン戦闘機と考えられる。
一式陸上攻撃機は、航続距離を伸ばすために、翼の中に燃料タンクがあり、発火しやすい。
別称「ワンショットライター」、つまり一回で火が着くライターと呼ばれている。
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この重い機体が、グラマン戦闘機3機に攻撃されたら、生き残る可能性は限りなく低い。
須藤はまず太陽に向かって飛行することにより眩しさを利用した。
青い瞳の欧米パイロットは、黒い瞳の日本人に比べ眩しさに弱い。
さらに、須藤は海面すれすれに飛行することにより、下からの攻撃を防ぎ、同時に海面に激突する恐れがある上空からの急降下攻撃を防ぎ、攻撃される方向を後方からに限定した。
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そして、須藤大尉はこの機体を滑らして(ジグザグ運動して)、機銃掃射から逃げ切ったものと考えられる。
「永遠の0」は小説の世界だが、須藤大尉の話は実話である。
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重い機体を意のままに操ることが出来る須藤機長が、宮部飛曹長よりも凄腕だと思う由縁である。

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4月9日の静岡新聞朝刊に、7日に開催された「緑十字機の不時着を語り継ぐ会」主催の、
当地ソング「月の鮫島海岸」のお披露目会の記事が掲載されました。
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取材頂いたのは、磐田支局に着任間もない静岡新聞の山本雅子記者でした。
とても若くて素敵な方でしたので、新人の方と感じましたが、頂いた名刺に「磐田支局長」とあり、びっくり。
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これまでいろいろと記事を書いていたのは、男性の支局長さんでしたが、初めての女性の支局長さんだと思います。
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緑十字機の記事を、いっぱい書いて頂けるように頑張ります。
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記事は「県内ワイド」ニュースとして、西部版ではなく全県版で大きく取り上げてくれました。
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山本新磐田支局長の、今後のご活躍をお祈りします。

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4月7日(日)、緑十字機のご当地ソング、【月の鮫島海岸】の、 お披露目会が行われました。
150名近い方が入場され、満員御礼の大盛況でした。
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緑語会が製作した展示物が、ますます充実し驚きました。
著書、「緑十字機決死の飛行」に登場した、全ての飛行機が揃いました。
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須藤大尉が、鮫島集落から必死の思いで掛けた電話を受けた、袖浦郵便局がペーパークラフトで再現され、内部の詳細展示もありました。

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講談「緑十字機の墜落」

講談師 神田鯉風
平成31年3月3日 磐田市「藤田亭」

鯉風先生43分間の熱演をご覧下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=YNNiHvE7hSg&fbclid=IwAR2GbMlZIgpthz6umXhOk_KhMxb0H4VO3Fphr3-nTRn4j4jK0v-VE78GxSY

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