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私が憤りを感じはじめたのは、「知識」を振りかざして人を醜く罵倒する人たちの存在でした。
「知識ファシズム」とというか、「情報ハラスメント」と言うか。
それでいて、そのような行いをする人々の知識や認識というのは酷く歪んでいて、よくよく調べてみたら全く現状にそぐわないものばかりだった。ということがしばしばあったのです。
なんか腑に落ちないが、自分が無知であったがばかりに、その場で何も言えなくなってしまった悔しさから私はどうなってるのか正しく自分なりに知る術を持とうと考えました。
そのようなことを考え行動し始めて10年近くになりますが、まだ知らないことは多いです。
最近持ってる「知識」は増えても、「智慧」が足りてないような気がしてきました。
自分自身が知識ファシズムの権化のように、知らず知らずのようになってきていたことに気付きました。
知識がなくても、智慧があればおぼろげながら真実に辿りつく事は出来る。
ですが、ある程度開いていなければやはり心もとないものです。とはいえ全ての人にまっとう出来るだけの時間も気力もないと言うことはある。そこで諦めさせては、何も変わらない。それなりの方法を見つけてそれぞれが出来ることをやっていく。このことが重要なのではないかと最初まだ私が知識が乏しい頃考えていたことでした。
仏教に例えるなら、「南無阿弥陀仏」と唱えただけで悟りが開ける。
仏に帰依します。
と、表明しただけで、道は開ける。
まさにそう言うことです。
ただ、その道が正しい道なのかは常時自分で見極める必要がいつもあると私は考えてきました。
お題目を唱えてるだけで悦に入ってしまうのはやはり違うと思う。
ただ、同じ道を選んでいるのだから、厳しく攻撃したりはせずに、共に歩んでいけるようなそんな関わりが持てたらいいという原点を見失わないようにしたいと思う今日このごろです。
共に良い方向に歩いていけますように。
<合掌>
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