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去る9月8日。仙山線が全線交流電化50周年を迎えた。これを記念し、山形→仙台でED75牽引による記念列車が運行された。ご存知の方も多いかとは思うが、仙山線は交流電化試験が行われた路線であり、日本で初めて交流電化による営業運転が行われた路線である。
今回は主に仙山線の歴史や交流電化の歴史についてお話ししたい。
まずは、仙山線の歴史についてである。仙山線は元々、仙台ー作並間の仙山東線と山寺ー羽前千歳間(羽前千歳ー山形間は奥羽本線に乗り入れ。以下、便宜的に山寺ー山形間と表記)の仙山西線に分かれていた。昭和12年に作並ー山寺間が開通し、両線と合わせて仙山線となった。
作並ー山寺間では、宮城県と山形県の県境に長さおよそ5kmの仙山トンネルが設けられたことから、蒸気機関車での運行は不可能であり、当初から直流で電化され、電気機関車による運行が行われていた。また、奥新川ー山寺間は駅間が長く、途中に列車交換設備を設けることとなったが、平坦な場所が仙山トンネル内にしかなかったため、同トンネル内に面白山信号場が、同トンネルの山形側に面白山信号場信号扱所と面白山高原仮乗降場(現 面白山高原駅)が設けられた。
この時に設けられたのが、奥新川ー面白山高原信号場にある奥新川変電所で
ある。電力会社から受電した交流3300Vを直流1500Vに変換し、仙山線の架線へとき電(架線に電気を供給すること)していた。後に、山寺ー山形間も直流電化され、直流電化区間作並ー山形間に拡大されました。この時に、後に交流用の変電所に改修され、現在も稼働している羽前千歳変電所が設けられた。
現在の奥新川変電所跡。変電機器の一部や建屋の骨組みなどが残されている。
建屋は平成20年まで廃墟となりつつも残っていた。
よく見ると、断路器の操作機構と思われるものも残されている。
一方で、昭和20年代の後半ごろになると国鉄は鉄道の近代化や高速化のため、様々な試験や技術開発を行っていた。
その一つが鉄道の交流電化である。従来においては、日本の鉄道は直流電化のみであった。これは、直流直巻モーターの特性が電気鉄道車両の求める特性に合致しており、直流電化であれば、車両の構造をより簡単なものでできたためであると考えられる。しかしながら、直流は電圧を容易に変えることができないため、車両まで高電圧で送電し、車両側で変圧することによって、送電ロスを減らしたり、変電所間隔を長くするということができなかった。交流電化においては、変圧器によって容易に電圧を変えることができる交流のメリットを活かし、車両まで高電圧で送電して、車両で変圧することができる。車両に変圧器などを積むために車両の製造価格が高くなるというデメリットはあるが、列車本数の少ない路線においては、変電所をより簡単なものとし、数も減らせることから地上設備側の建設費を削減することができると考えられた。
また、新幹線のような高速鉄道においては、大電力を安定して供給する必要があり、それには、交流電化である必要があったためでもある。
国鉄は、仙山線を試験路線として選び、まず、陸前落合ー熊ヶ根間を交流電化し、北仙台変電所からき電することで交流電気機関車の試運転を開始した。その後、交流電化区間は、熊ヶ根ー作並間、北仙台ー陸前落合間、仙台ー北仙台間と拡大され、仙台ー作並間が交流で電化された。
作並駅では、架線電源を交流・直流切換えれるようにした構造とした地上切換え方式を採用し、交流電気機関車から直流電気機関車への付け替えを行うこととした。
交流電化試験は順調に進み、昭和32年からは仙台ー作並間にて日本初の交流電化による営業運転を行うようになった。また、同時に、交流電車や交直流電車の走行試験も行った。
交流電化試験では、様々なタイプの試験車両が製作されたが、最終的には、交流を車両の変圧器で降圧した後、整流して直流に変換し、直流モーターで走行する仕組みが採用された。
制御方式などの違いはあるものの、交流電気車において、車内で変圧・整流し、直流モーターで走行するという仕組みは平成14年に製造が終了したJR九州の787系電車に至るまで多くの交流電気車において採用された。
国鉄は仙山線の交流電試験成功を受け、地下鉄との直通運転を行っている筑肥線や私鉄時代にすでに電化されており、他の電化路線から独立している仙石線のような例外もあるが、九州、北陸、東北、北海道における各線の電化では交流電化を採用することとし、新幹線においても交流電化とすることとした。
これを受けて、既に、交流電化区間となっていた仙台ー作並間の仙山線と交流電化が予定されていた奥羽本線に挟まれていた仙山線の直流電化区間についても、交流電化することとした。
昭和43年9月8日、作並ー山形間が直流から交流に切換えられ、仙山線は全線交流電化となった。この時、一部のトンネルにおいては断面が非常に狭く、必要な絶縁離隔(トンネルの壁などと絶縁するために必要な距離。直流時代は1500Vであったが、交流では20000Vで電化されたため、絶縁離隔を大きくとる必要があった)を確保するために、剛体架線を採用した。
交流電化区間で剛体架線を採用したのは仙山線が唯一である。(ただし、普通鉄道に限る)
トンネル前後の数十mの区間においても、剛体架線が採用されているが、トンネルの入り口時代が山奥にあるため、交流電気車が剛体架線区間を走る姿を撮影するのは非常に困難であると考えられる。
今回、仙山線全線交流電化50周年記念のイベント列車に乗車したわけだが、個人的な意見としては、こういう言い方をしては失礼かもしれないが、他の路線における電化○○周年とは意味合いの違う記念行事であったように思える。交流電化路線に選ばれた路線に残っていた既存の直流電化路線が交流に切換えられ、仙山線全線が交流電化されたというのは、仙山線における所要時間の短縮や車両運用の効率化のみならず、交流電化に関わる技術が確立され、それが他の路線においても展開されるための大きな一歩になったのではないかと思う。それから50年経ったというのは鉄道の歴史から見ても大きな節目ではないかと思う。このような日に片道だけとはいえ、仙山線に滅多に入線しない客車列車が特別運行されたことは私個人としては非常にうれしいことである。
さて、次回は、特別列車を牽引したED75形700番台交流電気機関車についての説明に触れつつ、記念列車の乗車記を書きたいと思う。ま、ぶっちゃけ、次回更新いつかわかんないけどね。(9月中に更新できるかびみょー)
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