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ここのところ、いろいろございまして、暇ではないですが、どうしても書いておきたい内容がありましたので、書かせていただきます。
さて、今回のお題は、「架線下DC」。といっても、「架線下DCとは何ぞや」という方もいらっしゃるかと思います。架線下DCとは、上の写真のように電化区間を走るディーゼルカーのことです。電化区間において張られている架線という電線の下を走るDC(ディーゼルカーの略)ということでこのように呼ばれています。
様々な事情により、電化区間でありながらディーゼルカーが運用されている区間や路線は全国的にあり、上の写真の羽越線の一部区間のように電化区間でありながら、すべての普通列車をディーゼルカーで運転している区間もあります。
では、本題。私個人としての架線下DCの魅力についてお話ししたいと思います。
まず、私自身の経歴となりますが、小学生〜20歳までJR九州の筑肥線(筑肥東線。以下、単に筑肥線と言います。)の沿線に住んでいました。筑肥線の事情に詳しい方であれば、もうお分かりかとは思いますが、筑肥線にディーゼルカーが乗り入れるというのは年に数回あるとはいえ、そのほとんどは線路設備等の点検を目的とした試験車両かビール列車のような団体臨時列車に限られます。そのため、地元の路線でディーゼルカーに乗るというのはかなりハードルの高い話です(団体列車はその多くがビール列車であるため、未成年であればなおさら)いつしか、私にとって、ディーゼルカーという乗り物はある意味「特別な乗り物」のような存在になりました。ですので、私にとってディーゼルカーに乗るというのは非日常的な体験だと感じています。
そして、架線下DCはどこの電化区間でも運行されているわけではなく、運行されている路線でもその割合はまちまちです。肥薩おれんじ鉄道のようにすべての旅客列車をディーゼルカーで運行し、電気運転は貨物列車と事業用車両のみという路線もあれば、奥羽本線の一部区間のように1日に上下各1本ずつのみディーゼルカーで運行する路線もあります。定期列車ではディーゼルカーの運行はなくても臨時列車であれば比較的頻繁にディーゼルカーの運行が行われている路線もあります。
また、ディーゼルカーは電車とは性能が異なります。中には、電車と比べて走行性のが劣る車両もあります。そうした事情で電車とは違うダイヤが組まれ、同じ区間であっても電車と比べてゆっくり走ることもあります。例えば、平成29年3月のダイヤ改正で廃止となった筑豊本線の6528D列車であれば、電車では90km/h程度で走る区間を65km/h程度で走行していました。現在、この6528Dに近い時刻で走る6662M列車と比較すると、直方ー折尾間では6528Dでは25分かかっていたのに対して6662Mは20分で走破します。いずれの列車もこの区間で通過駅はなく途中駅での長く停車することもありません。
また、音の面でも動力源の違いから電車とは違ったものになります。これは、ハイブリッド車両であってもエンジンが動作した場合にはエンジン音がしますので、かならずしも電車とは違うものだと感じています。
しかし、ディーゼルカーは「特別な乗り物」ではありません。例えば、豪華列車や観光列車のように特別料金や特別な切符がなければ乗れないかといえばそうではありません。当然ながら、普通列車であれば普通乗車券のみで乗れますし、定期列車であれば基本的には毎日運転されています。それは、架線下DCでも同じで電化区間においてディーゼルカーで運行される定期普通列車もと当然あります。 少々、わかり難い文章になってしまったかもしれませんが、要約すると私個人の意見として架線下DCには以下の4つの要素があると思います。
・ディーゼルカーという私にとって「特別な乗り物」である車両が使用されている
・架線下DCはどこの電化区間でもどのような時間帯でも乗れるわけではない
・同じ区間を走る電車と比較した場合、電車とは違った乗り心地となる
・しかし、ディーゼルカーは特別な切符を買わずとも乗れる至って普通の車両である。
よって、私にとっても、一般的に考えても「特別な要素」を持ちつつも、車両は至って「普通」のディーゼルカーであり、この「特別な要素」と「普通の要素」この2つがベストミックスされているのが架線下DCではないかと思います。
では、そのような架線下DCをどうやって見分ければいいのかというと多くの場合、時刻表を見ればわかります。
市販の時刻表であれば、列車番号が記載されているものが多いと思います。JRにおいてディーゼルカーを使用する列車の場合。その多くで列車番号の末尾のアルファベットが「D」になっています。(例:831D)
ですので、一部の例外はありますが、電化区間において列車番号の末尾に「D」が付く列車を探せば多くの場合乗ることができます。
最後にですが、なぜ、あえて「ディーゼルカーは私にとって特別な存在の車両だ」と言ったかというと、週末に羽越線で架線下DC乗り倒しの旅(乗りまくったというより乗り倒したといったほうが正しいぐらいのレベルでかつてないぐらい架線下DCに乗りました。)をしたときに「ディーゼルカーは私にとっては特別な存在の車両」だと感じたからです。そして、電化区間でディーゼルカーに乗るというのも貴重な体験だなと感じたからです。
しかしながら、そもそも私が乗っていたディーゼルカー(キハ40系)は普通列車に使用される一般的な車両であるし、羽越線沿線の地域の方にとってはいつも乗っているやはり普通の車両であり、ディーゼルカーが電化区間である羽越線を走っているというのも日常の光景であるからです。
そうした特別な要素をもちながらも日常的な至って普通の要素を持つところが架線下DCの魅力なのだと感じたという次第です。
ちなみに、この旅行の本題はEL日本海庄内号の乗車だったはずですが、いつの間にやら気動車(ディーゼルカー)乗り倒しの旅に化け(別に予定通りの計画で行動したので計画変更は一切なかったんですけど)結局乗った列車の総合計は電車列車本4本、客車列車2本(EL日本海庄内号の往復)、気動車列車が17本という結果に。乗った区間駅の構内も含めて非電化区間には1mmたりとも足を踏み入れてないのにどうしてこうなったのやら…
結果的には、社会人になってからの旅行では一番充実した内容だったと感じているので良いですが。
まぁ、後日、ディーゼルカーのエンジン音を4時間28分ぐらいノーカットで楽しめる誰得な音源をUPしようと思っていますので、楽しみにしておいてくださいな。
さて、それでは、このへんで。
チョーどーでもいいクッソ長ったらしいお話しにおつきあいいただきありがとうございました。
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鉄道の話題
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去る9月8日。仙山線が全線交流電化50周年を迎えた。これを記念し、山形→仙台でED75牽引による記念列車が運行された。ご存知の方も多いかとは思うが、仙山線は交流電化試験が行われた路線であり、日本で初めて交流電化による営業運転が行われた路線である。
今回は主に仙山線の歴史や交流電化の歴史についてお話ししたい。
まずは、仙山線の歴史についてである。仙山線は元々、仙台ー作並間の仙山東線と山寺ー羽前千歳間(羽前千歳ー山形間は奥羽本線に乗り入れ。以下、便宜的に山寺ー山形間と表記)の仙山西線に分かれていた。昭和12年に作並ー山寺間が開通し、両線と合わせて仙山線となった。
作並ー山寺間では、宮城県と山形県の県境に長さおよそ5kmの仙山トンネルが設けられたことから、蒸気機関車での運行は不可能であり、当初から直流で電化され、電気機関車による運行が行われていた。また、奥新川ー山寺間は駅間が長く、途中に列車交換設備を設けることとなったが、平坦な場所が仙山トンネル内にしかなかったため、同トンネル内に面白山信号場が、同トンネルの山形側に面白山信号場信号扱所と面白山高原仮乗降場(現 面白山高原駅)が設けられた。
この時に設けられたのが、奥新川ー面白山高原信号場にある奥新川変電所で
ある。電力会社から受電した交流3300Vを直流1500Vに変換し、仙山線の架線へとき電(架線に電気を供給すること)していた。後に、山寺ー山形間も直流電化され、直流電化区間作並ー山形間に拡大されました。この時に、後に交流用の変電所に改修され、現在も稼働している羽前千歳変電所が設けられた。
現在の奥新川変電所跡。変電機器の一部や建屋の骨組みなどが残されている。
建屋は平成20年まで廃墟となりつつも残っていた。
よく見ると、断路器の操作機構と思われるものも残されている。
一方で、昭和20年代の後半ごろになると国鉄は鉄道の近代化や高速化のため、様々な試験や技術開発を行っていた。
その一つが鉄道の交流電化である。従来においては、日本の鉄道は直流電化のみであった。これは、直流直巻モーターの特性が電気鉄道車両の求める特性に合致しており、直流電化であれば、車両の構造をより簡単なものでできたためであると考えられる。しかしながら、直流は電圧を容易に変えることができないため、車両まで高電圧で送電し、車両側で変圧することによって、送電ロスを減らしたり、変電所間隔を長くするということができなかった。交流電化においては、変圧器によって容易に電圧を変えることができる交流のメリットを活かし、車両まで高電圧で送電して、車両で変圧することができる。車両に変圧器などを積むために車両の製造価格が高くなるというデメリットはあるが、列車本数の少ない路線においては、変電所をより簡単なものとし、数も減らせることから地上設備側の建設費を削減することができると考えられた。
また、新幹線のような高速鉄道においては、大電力を安定して供給する必要があり、それには、交流電化である必要があったためでもある。
国鉄は、仙山線を試験路線として選び、まず、陸前落合ー熊ヶ根間を交流電化し、北仙台変電所からき電することで交流電気機関車の試運転を開始した。その後、交流電化区間は、熊ヶ根ー作並間、北仙台ー陸前落合間、仙台ー北仙台間と拡大され、仙台ー作並間が交流で電化された。
作並駅では、架線電源を交流・直流切換えれるようにした構造とした地上切換え方式を採用し、交流電気機関車から直流電気機関車への付け替えを行うこととした。
交流電化試験は順調に進み、昭和32年からは仙台ー作並間にて日本初の交流電化による営業運転を行うようになった。また、同時に、交流電車や交直流電車の走行試験も行った。
交流電化試験では、様々なタイプの試験車両が製作されたが、最終的には、交流を車両の変圧器で降圧した後、整流して直流に変換し、直流モーターで走行する仕組みが採用された。
制御方式などの違いはあるものの、交流電気車において、車内で変圧・整流し、直流モーターで走行するという仕組みは平成14年に製造が終了したJR九州の787系電車に至るまで多くの交流電気車において採用された。
国鉄は仙山線の交流電試験成功を受け、地下鉄との直通運転を行っている筑肥線や私鉄時代にすでに電化されており、他の電化路線から独立している仙石線のような例外もあるが、九州、北陸、東北、北海道における各線の電化では交流電化を採用することとし、新幹線においても交流電化とすることとした。
これを受けて、既に、交流電化区間となっていた仙台ー作並間の仙山線と交流電化が予定されていた奥羽本線に挟まれていた仙山線の直流電化区間についても、交流電化することとした。
昭和43年9月8日、作並ー山形間が直流から交流に切換えられ、仙山線は全線交流電化となった。この時、一部のトンネルにおいては断面が非常に狭く、必要な絶縁離隔(トンネルの壁などと絶縁するために必要な距離。直流時代は1500Vであったが、交流では20000Vで電化されたため、絶縁離隔を大きくとる必要があった)を確保するために、剛体架線を採用した。
交流電化区間で剛体架線を採用したのは仙山線が唯一である。(ただし、普通鉄道に限る)
トンネル前後の数十mの区間においても、剛体架線が採用されているが、トンネルの入り口時代が山奥にあるため、交流電気車が剛体架線区間を走る姿を撮影するのは非常に困難であると考えられる。
今回、仙山線全線交流電化50周年記念のイベント列車に乗車したわけだが、個人的な意見としては、こういう言い方をしては失礼かもしれないが、他の路線における電化○○周年とは意味合いの違う記念行事であったように思える。交流電化路線に選ばれた路線に残っていた既存の直流電化路線が交流に切換えられ、仙山線全線が交流電化されたというのは、仙山線における所要時間の短縮や車両運用の効率化のみならず、交流電化に関わる技術が確立され、それが他の路線においても展開されるための大きな一歩になったのではないかと思う。それから50年経ったというのは鉄道の歴史から見ても大きな節目ではないかと思う。このような日に片道だけとはいえ、仙山線に滅多に入線しない客車列車が特別運行されたことは私個人としては非常にうれしいことである。
さて、次回は、特別列車を牽引したED75形700番台交流電気機関車についての説明に触れつつ、記念列車の乗車記を書きたいと思う。ま、ぶっちゃけ、次回更新いつかわかんないけどね。(9月中に更新できるかびみょー)
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写真の電車はクハ485−703。今日はこの電車に関する話題。
この電車は直流電車である181系のグリーン車として製造され、上越新幹線の開通により、485系のグリーン車へと改造された。
それまで国鉄では10両、13両・・・と言った長い編成の列車を1本運転するという形態であったが、昭和60年代ごろから4両や6両と言った短い編成の列車を何本も運転するという形態に変わり列車増発が行われるようになった。
不足する先頭車は当時の財政状況化新造ではなく、改造により賄われた。
この電車もその流れにより、先頭車へと改造された。
JRになり、485系よりも走行性能も向上し、より快適な新型車両が登場するとこの電車は特急電車としての役目を終えた。
しかし、この電車は廃車とはならず、お座敷電車へと改造された。
大口の団体需要を見越して登場したお座敷電車であったがやがて大口の団体需要よりも家族旅行のような小口需要が増えてくると需要に見合わなくなってきた。
そこで、この電車はリゾートやまどりへと改造され、現在の姿となり、主に快速電車として運用されるようになった。
その時代に合わせ、何度も改造され、姿、形を変えてきたこの電車。
先日、原型の485系は引退してしまったが、この電車はあとどのくらい走り続けるのだろうか。 |
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さて、先週の485系国鉄色ラストランから1週間が経ちました。
私個人としては、最後に485系国鉄色に乗れて良かったというのが率直な感想であり、最後の走行線区が仙山線であったのは最後を締めくくるうえではある意味ふさわしい路線であったのではないかと思いました。
ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、国鉄で初めて交流電化された路線は仙山線でした。当時、日本における鉄道の電化は直流のみでしたが、列車本数が少ない地方線区においては交流で電化し、変圧器で容易に電圧を変えられるという交流の特性を活かして、高電圧で送電して送電ロスを少なくし、変電所の数を減らすことによって、より低コストで電化できるのではないかと考えられました。
また、新幹線のような高速鉄道においては大電力を必要とすることから直流での電化は技術的に不可能とされ、国鉄は仙山線において交流電化試験を行うこととしました。 仙山線は急勾配が存在し、駅間距離も試験に適していたことから交流電化試験路線として採用され、当初、陸前落合ー熊ヶ根間を交流2万ボルトで電化し、交流電気機関車を用いて各種試験を行いました。 その後、北仙台ー陸前落合間(現在の国見ー葛岡間)のトンネルの絶縁離隔が確保できたことから北仙台駅まで試験区間を延長し、昭和32年には仙台駅まで電化区間を延伸すると同時に日本初の交流電化による営業運転を開始して、仙山線における交流電化試験は成功に終わりました。 仙山線で試験された技術は、九州、北陸、東北地方の各線区の電化や新幹線の開発に生かされ、今日に至っております。 さて、仙山線から始まった交流電化ですが、直流電化区間において特急電車が走りはじめ、交流電化区間も徐々に延伸されてくると、交流電化の地方都市と、直流電化の大都市とを直通運転する特急電車を望む声が出てきました。
この要望に応えるために登場したのが485系電車の前身ともいえる481系電車・483系電車です。481系電車は交流60Hzと直流に483系電車は交流50Hzと直流に対応した形式で、当時は50Hz/60Hz兼用の変圧器が開発途中であったため、それぞれに対応した形式とされました。 その後、50Hz/60Hz兼用の変圧器が開発され、直流と交流50Hz/60Hzの3電源に対応した485系電車が製造されるようになり、485系電車は昭和54年までの製造打ち切りまでに派生形式を含め1500両近くが製造され、気tがは北海道旭川から南は九州西鹿児島(現在の鹿児島中央)まで、全国各地の電化区間で活躍しました。
にちりん、雷鳥、白鳥、いなほ、北越、はくたか、はつかり、ひたち、やまばと、あいづ、つばさ、つがる(津軽)、かもしかなどの特急列車に充当され、JR化後においては宴、華などのお座敷電車やリゾートやまどりやジパングなどのイベント車両に改造された車両もあります。 先週、オリジナル型の485系電車は運転を終了しましたが、新潟ー糸魚川間の毎日運転の臨時快速列車ではリニューアルされた485系3000番台が充当され、リゾートやまどりやジパング、宴、華と言った車両も臨時列車などで運転されています。
つか、この文章、すごく仙山線の説明が長くなった・・・・
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