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20歳で科挙に首席で合格し、
科挙=「科試」「郷試」「会試」「殿試」
4段階の試験に合格すると富と権力が約束された高級官僚
合格率は1/1000ともいわれるほど、難関
南宋がモンゴル軍に滅ぼされた後も
どんなにすばらしい条件を出そうとも
元に仕えることを拒み続け
3年の獄中生活ののちに処刑された政治家で
異民族に最後まで屈しなかった「民族の英雄」
殺しつくし、奪いつくしのモンゴルが
彼を処刑した後、祠を建てたというのだから・・・
文天祥が獄中で書いた正気のうた(せいきのうた)
藤田東湖が文天祥にならって正気の歌をつくり、
幕末の勤皇志士たちにも愛唱された。
命をどう使うかで人の命の大切さが決まる。
文天祥の命は処刑されても彼の志は尚も生き続けている。
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南宋がモンゴルに滅ぼされた後、東アジアの文明の中心が大陸から日本列島に移したと思います。
2010/1/3(日) 午前 1:31 [ 親日支那人 ]
敵からも称えられるのが英雄というものなのでしょうね。
「せいきのうた」は興味深い詩です。保存してみました
話は変わりますが、元寇の先触れにモンゴル人の英雄がいます。その名は杜世忠
2010/1/4(月) 午後 4:29 [ IB ]
確かに、元寇の目的は南宋の残党を日本に追い出す(移民)目的があったらしく、日本側も南宋人だけを捕虜として助け、九州に住まわせています。
2010/1/4(月) 午後 4:34 [ IB ]
文永の役で攻めてきたあとの蒙古の正使である杜世忠は
先触れといえるのかどうか、また英雄と言えるかどうか疑問ですね。
日本は降伏するだろうとして侮ってやってきただけではないですか。
蒙古は南宋と戦っていたから、南宋人を助けたといえば、一瞬そうかともおもいますが、はて、攻めてきた蒙古軍を当時南宋人と朝鮮人と蒙古人との区別がついただろうか。
日本人を残虐に殺し、またも攻めてきた蒙古軍の捕虜を
南宋人だからと助けてたというのは疑問に思います。
2010/1/5(火) 午後 0:03
蒙古、女真、朝鮮人の軍隊が高麗の港から軍船で襲来。それに遅れて、南宋の民兵が宋の船で合流している。それぞれ言葉や態度も違う
容易に区別は付いたと思います。
2010/1/6(水) 午後 2:37 [ IB ]