誇りある日本

歴史の忘却は民族の衰退になる

南京事件

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日中和平

松井大将といえば南京攻略戦の大将だが

この松井大将は大の中国好きな人物で
蒋介石が日本に留学していたとき
親に身の回りの世話や相談相手をしていた

「日本なくしては中国なし
  中国なくしては日本なし!」

という日中和平の運動家の仲間だった。

毛沢東は蒋介石の国民党には勝てないので
日本軍と戦わせて国民党軍を弱らせる作戦に出て

蒋介石は共産党に捕まって脅されて
国民党軍と日本軍とが戦うことを承諾してしまった。

そして蒋介石はその後日本を裏切り
日本は毛沢東の謀略にはまり国民党軍との戦いに
引きずり込まれてとうとう日本は首都南京戦にまで突入

松井大将はかっての仲間と戦うことになって
このときどのような気持ちであっただろう・・・・

壁をよじ登る


さーて日本軍の南京攻略のうちの
ヒェー!というような話をひとつ^_^;

南京城にある19の城門のうちの中華門では
城壁の上から銃眼が並び日本軍に狙いをすませている
城門の外には川が流れていて橋をつくり渡ろうとしても
攻撃されてことごとく破壊

城壁は大砲で攻撃しても穴も崩れもしない頑丈!
そうしたときに小船が上流から流れてきて
12月の寒流なのに裸で飛び込み手に入れて

川幅30メートルの川をその小船で渡る作戦が立てられ
旗竿を櫂の代わりにして2名が立ったままで漕ぐ
もちろん機関銃の猛射を受けて水面は激しく叩かれ
そのなかをなんと6名全員が無事に渡りきった!

さてここから城壁まで50メートル
城壁をよじ登るための重いはしごを担いで
機関銃掃射のなかを走る、走る

城壁にたどりつくや、はしごを立てかけて2人が登る
だがはしごは城壁の上まで届かない
あと5メートル
手と足とでレンガの城壁をよじ登り、
とうとう城壁に躍り出た!

先に敵中横断三百里を書いたがあの日本兵の運の強さも
すさまじかったが、この城壁をよじ登る兵もすごい!

一番乗りは熊本第六師団の安東軍曹、二番目は中津留伍長

督戦隊


「督戦隊」

 中国軍には戦闘に際し兵士を先頭に立たせて
 後退する兵士がいると、
 背後から射殺するという組織

南京の下関門にはパニックになって逃げる中国兵と
阻止しようとする兵との銃撃戦が行われて
大量数の死体があり、
そこを占領しそれを片付ける日本兵はなかなか
片付かず2日になってもまだ処理できず・・

これをニューヨークタイムズの記者がみて
日本軍の仕業だとカン違いしたらしい。

この惨劇は中国軍第八七師二六一旅長が
中国軍のした経緯を述べている。

日本軍が南京に入る前から市内には多数の死体があり
 
 中国軍は南京周辺を焼き払い、焼け出された市民が
 難民として城内に流入、食糧難が加速し一部では暴動
 
 中国軍は治安維持のために手当たり次第銃殺

 中国兵による略奪、日本軍入城前の数日間は中国兵による
 侵犯、市民の着物欲しさに殺人まで


日本軍高官の虐殺の認識
 松井石根司令官
 「お恥ずかしい限りです」

  松井氏は安全委員会からの送付された被害届けの報告を読んで
  その後、軍法会議で掠奪や強盗の罪を犯した日本兵10数名を
  処罰!これを反省した言葉で大虐殺は認めてはいない

 石井外務相東亜局長
  大きな社会問題だ

  石井氏は上海からの現地報告と安全区委員会からの被害届けから
  で、裏づけもとらず嘆いたが大量虐殺ではない。


 岡村 第11軍司令官
  聴取すれば市民に対する大暴行があったのは事実である

  岡村氏は当事南京戦に参加していなく
  安全委員会からの被害届けを報告されたもので判断

9日に飛行機で投降勧告文を投下したが
中国軍はこれを無視 

正式な降伏がなければ日本軍は戦うしかない

そして中国兵は民間人に化けてゲリラ活動を

13にち〜16日にかけて
日本軍は南京城の内外で便衣兵の掃討作戦を実施

安全区委員会は「中国兵はいない」としたが
大量の武器弾薬を保持し敗残兵7千名
その後も2千名発見
 
そして民間人を装った便衣兵で反抗した者は処刑されたが
捕虜約1万人、半数は上海に送られ残りは汪兆銘の軍に編入

    
              「再審 南京大虐殺」より一部抜粋

南京事件

「数十万の虐殺を見た者なし」

南京陥落直後

 「南京市内、光華門」
  陥落後の南京市内には両軍の戦死体が残っているだけ
  数十万の死体など見た者はナシ

  路上には敗走する中国兵の脱ぎ捨てた軍服・兵器が
  おびただしく散乱しており便衣に着替えたこと明瞭

  市民の姿は見えないことからして安全区に遁入

 「下関」
  若干の戦死体、
  死体は見なかったの二通りの証言

南京占領後、
 日本軍は約4千の捕虜を収容し、
 半数を上海に送り、半数を南京で収容
 彼らを労役に使用し、のちに放免

 武器をかかえて安全区に潜伏していた敗残兵は処断はありうる、
 これが市民の虐殺として誇大喧伝にとおもわれる。

 安全区は憲兵の哨戒が厳重で許可なく入れなかった。

 市内は軍規・風紀違反や不法行為に対する取り締まりは極めて峻厳
 にも関わらず若干の軍規違反・不法行為が発生
 さらに松井司令官から軍規の粛清を厳達

 南京市民は日本軍を恐れることなく、報酬を受けて労務に従事し
 自治会の結成に協力、昭和13年の治安維持会発会式には
 数万の市民が集まり歓呼した。

死体を一人運搬し始末するのに4人くらいはかかる
東京裁判によると2万人を2,3日で殺したとすれば
単純に8万人は必要であるがそれを2、3日で
記者団たちの目にもふれないで、それができるかどうか

誰も目撃者がいないというのをどうやって反論するのか

先にも書いたが外国記者は直接見たものはいない!

南京事件について書くと長くなるので避けたかったが^_^;
ここまで書き始めて、やはり疲れるので
いずれまた書けるようになったら長編で書いて見ます。
いまはまだめんどうだというほどの体力しかないので
それにしても本気でやったと一生懸命訴えるのが
日本人であれば例え本当のことであってもアホだ!




 


 
 
 

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南京攻略までの経緯

南京攻略に至るまでの経緯

1931年9月 満州事変

1932年3月 満州建国

   |     日華交戦がたびたび

1933年5月 日華停戦協定

   |     4年間、戦闘なしの平和

1937年7月 盧溝橋事件(7日)

         日中両軍が衝突
        4日後に現地で停戦協定

        この停戦協定を中国は守らず

        通州事件が発生(29日)

1937年8月(9日)

        日本側は平和解決を求めて
        満州事変以降の日本の在華権益をすべて
        白紙に返すという和平案を上海で行うが  
     
        当日上海で日本人2人が中国軍に惨殺され平和交渉はボツ

        (13日)

        さらに中国国民政府は日本人居留民のいる上海へ
        軍隊を終結させて海軍陸戦隊本部を攻撃

        上海には陸軍がいなく海軍陸戦隊もわずかしかいなく

 日本は「不拡大・局地解決」の方針であったが
        
        上海派遣軍の編成を下命、派遣し、不拡大を放棄することに

 蒋介石の上海へ日本軍を引き込む作戦が成功!

   中国軍が敗退し、一部が南京に向けて退却を始め

 この間にも日本は早期停戦を望みドイツに和平交渉の仲介を依頼

  11月14・15日
   国民政府の作戦会議では南京で戦うことの反対者が多数であったが
   蒋介石のあくまでも南京を固守し防衛するという意志で決定
  11月15日
   蒋介石は首都を南京から重慶に遷すことを決定
  11月16日 〜21日までに
   政府要人は車に満載した家財道具とともに先を争って脱出

 蒋介石は「堅壁清野作戦」
  南京城外の中国人の財産・家屋を徹底的に破壊・焼却することを命令

盧溝橋事件以来
日本を戦争に引き込みたいがためにやっていたと思える経緯である
そのための盧溝橋、通州、上海事件等であろう。
蒋介石は南京で防衛するといい張りながら、わずか1日で捨てて逃げるくらいなら
初めから南京で戦闘をすべきでない!愚かな統率者というべきか
しかしこれも作戦であったのか??

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