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昭和3年満州易幟の後 昭和4年の日本政府は内閣も変わり対支外交を刷新して ・日本は「共存共栄」を求める ・侵略政策を排斥する ・シナの国民的宿望に友好的な協力 ・中和公平なる調和を求める ・日本が生存と繁栄にとって正当な権益を保持 ということで日支関税協定締結の調印をするに至る(昭和5年) 間島暴動においても シナとの対立を深めることは満蒙権益をも損なうと判断して 現地の日本人の安全を無視した政策までをも実行したのだが ニコニコ外交をすればするほど中国は居丈高になり 専ら日本が非難の対象にされ暴動は悪化し 特に満州の排日は激しく満鉄のみならず日本の在満権益一掃を! 旅順、大連の租借地回収と満鉄回収、鉄道守備兵撤退が怒号 シナは善意に答えるなどという国ではない、 甘い顔をすればするほど逆に居丈高になる国だ 今度の福田政権もよく似ている政策のようだが・・・・
満州易幟のあと 満州は公然と赤化された国民党の勢力が激増! 中国共産党の満州拡充工作が進み反日朝鮮人とも提携し 満州における朝鮮の共産は解体し中共満州委員会に加盟 そして朝鮮人党員(約4千余人)からなる 全満暴動委員会が結成され武装蜂起計画が準備 昭和5年5月に間島暴動が発生 発電所、通信、交通機関などを破壊 領事館、親日朝鮮人の家屋が襲撃 朝鮮人が暴行を受けたことから 巡察中の日本警官が中国軍隊から一斉射撃 日本側は応援警官を派遣し満鮮の国境両側においてシナ軍と対立 前年に日本は民政党の浜口雄幸内閣の日中友好的政策に変わり 現地の状態を無視した 満州における応援警官を引き上げるという方針が決定され その後の満州における反日事件は 武器弾薬などはソ連から搬入されて暗殺、襲撃、テロの続発 これらの暴動は抑えられなくなる事態に 排日宣伝はますます強化され排日運動は激化
蒋介石の北伐の目標は北京にいる張作霖 北京から満州への波及を恐れた日本は 張作霖に満州へ撤退するよう勧告をしたが 日本が蒋介石を援助して満州帰還を勧めると不満を 南軍が北京に迫るに及んで 特別列車で奉天へ引き上げる途中 関東軍の一部将校に爆殺されたという。(昭和3年6月4日) 実際にはわずかに枕木を爆破するという小さな爆破 というがどのようにして死に至ったのか?? 当事日本の総理はこれを伝え聞いて シナは蒋介石、満州は張作霖に統治させて 満州における日本の権益を守ろうと考えていたのが 「我が事終れリ」と天を仰いで長嘆息をしたと云われている。 しかし奉天軍閥による排日を見ていた現地の軍人にとっては その首領の張作霖を倒すしか満州居留民保護と権益を守れない! と考えて張作霖を爆殺計画実行 この5日後に国民革命軍は北京に入城し、中国は南北統一成る。 張作霖が殺され日本を恨む息子の張学良が満州の支配者になるや 満州の旗をいきなり国民党の旗に替えて満州に一斉に掲揚 赤旗まで混じっていたとか云われている12月の「満州易幟」 張学良はオヤジと違ってもうソ連の共産主義に染まっていて 張作霖が死ななくても排日であるこういう同じことが起きたのではないだろうか ちなみに張作霖は満州の馬賊の親玉だあ! 強盗団の親玉というべきか(ーー;)
済南事件のあった3ヵ月後に 日本は「不戦条約」という国際条約を結んだ。 いわゆるパリ不戦条約とも呼ばれ 国際紛争解決の手段としての「戦争を放棄する宣言」 「国際紛争解決のために戦争に訴えることをしないで 平和的に解決する!」 調印国は、 日米英仏伊独等で、国連加盟していなかったソ連までも加盟 これは素晴らしい世界平和の条約といえるのだが 英米仏によって「自衛戦争は除外される」を保持することが主張されて 「自衛権の行使に関する決定と裁定は各当事国の権利に属する」 戦争は侵略であろうと自衛であると述べれば戦争はできるという条約 さっそくこの不戦条約を破ったのはソ連 不戦条約の翌年に満州に侵入し張学良を撃退し東支鉄道を奪還 満州侵攻は「自衛行動」である、として第三国の干渉を拒絶! 満州事変以降の日本の政策のみを侵略として 不戦条約違反を適用するのはいかがなものか 国際条約などいいかげんなものではないかと思われる。
中国山東省(昭和3.5.28) 済南事件において シナ兵が居留民にしたことは 「手足を縛し手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え 滅多切り、婦女はすべて陰部に棒が突き刺され 或る者は焼かれ半ば骸骨、腹部内臓全部露出 陰茎切り落とし、顔面上部切り落とし、耳を切り落とし 眼球まったくなし、唇から臍までの切傷より小腸露出 焼き残りの白足袋で日本人婦人とわかるようなひどさ」 シナ人は被害にあわず日本人家屋のみ掠奪 掠奪と同時に一斉に銃撃 手榴弾を持っていた ことからして日本人のみを攻撃目標としていた ・事件の真相が明瞭になるや国内においても「やっつけろ!」 ・参謀本部も、国威を保ち、将来を保証せるには 事実上の威力を示すしか途なし! 日本人への惨殺陵辱は軍も民も同じく憤激の極み! そして南軍に対して通告 ・一切の排日的宣伝の厳禁 ・日本軍に抗争した軍隊の武装解除 ・暴虐行為に関係ある高級武官の処刑 等々を要求したが、拒否されたために 日本軍はシナ軍の立てこもる済南城にある司令部と城壁を砲撃 攻撃に際し民衆を傷つけないようにしたかは攻撃跡をみればわかる とまでいわれたほど慎重な正確な攻撃であったという。 しかし安全地帯と避難路を指定したためにシナ軍(2万)は 夜陰にまぎれて城外へ脱出(東部日本兵600) 済南事件のおり、 シナは日本軍による外交官虐殺事件という歪曲捏造の話をまたしても吹聴
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小川菜摘
シルク
浅香あき恵