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今日はお天気
昨夜、忘れ物を取りに予定外で千葉へ又Uターンしたおかげで
朝陽を拝むことが出来ました。
眠れなくて、早く起きだしました。、
母と、一昨日きいた賛美歌を歌いました。
クリスチャンの人には「しずけき」
きよしこの夜です
静けき真夜中 貧し馬や
神のひとり子は み母の胸に
眠りたもう 安らかに
天(あめ)のみ使いの
天のみ使いの うた声ひびく
星かげさやかな 牧場(まきば)の空に
グローオリア イン エク シェル シス デオ
今日は熊谷の酉の市、パールハーバーの日
ジョンレノンが倒れた日
そして漱石忌と母が言ってます
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たつおの部屋
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前に作ってあった「たつおの部屋」の書庫。
ずっと気になっていたので、大晦日に、使ってみます。
たつお。父の俳号。
晩年にかじった程度ですが、韓国語と共にまじめにやってました。
凝り性の父の残した写真・俳句・原稿。母がだいぶ捨てちゃいました。
整理するのは、私の役目のひとつ。
変人で、道楽者で、母を悲しませた父なのに、今では母の生きるよすがです。
とっかかりとして、
「名茂書乃事 古谷忠行」 少し打ちはじめます。
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1999,8月書き始める
一、出生
昭和三年三月二日(1928年)。朝鮮平壌府本町三十番地で生まる。父・喜代蔵、母イセヨの二男。上に姉三人。長兄は幼児に死亡していたので、事実上の長男ということで、当時の風潮としては、大いに祝福されたようである。
ご承知のように、朝鮮は1910年、日本に併合され、着々と植民地化が進んでいた時代である。平壌府(府は内地の市に相当)はソウル(当時京城府)の次に位置する第二の都会であった。人口十八万、西北朝鮮の要地として軍隊(旅団・聯隊)が駐屯し、裁判所、道庁(日本の県庁)があり、また学問の中心でもあった。また、前漢の武帝の時代に朝鮮は征服され、「楽浪郡」が設置されて、当時の首邑であった。従って、ソウルなどよりずっと古い二千年以上の古都であると、当地の人たちは自慢していた。平壌の市街は城門、城壁跡のある古い町と植民地(日本の)としての新しい町が併立していたわけである。古い町が市街の北半分、新しい町が南半分を占め、もちろん私達日本人は南半分の位置に住んでいた。それで北半分は箕林?里(里は大字(あざ)の町)、○○洞(小字)と表示され、南半分の私達の町は、内地同様に、本町、大和町、桜町などと称していた。当時の日本人の人口は三万人と云われ、従って朝鮮人が十五万人、市内にいたわけである。
さて、私の生まれた本町は、日本人町のほゞ中央で私宅から市内電車の通りまで二〜三分の便利な土地柄で「三中井」「丁子屋」など、デパートも同一町内であった。平壌駅までは市内電車が通じていたが、歩いても二十分足らずであったと思う。
私の名前「忠行 ただゆき」はいかにも古風で軍国主義の象徴のようであるが、祖父が「サムライ」らしい名前をつけろといった結果だそうである。当時としては止むを得なかったが、小学・中学を通して、級友から「チュウコウ」と呼ばれつづけたのには辟易した。「忠孝」とネズミの双方に関連する。
私の家は、父の仕事の関係で自宅・貸家とコの字型に続いて建てられ真中が庭(広場)となっていた。
祖父・父と鉄道建設に従事し、跡に建築をやっていたので手前味噌で家を建てたのであろう。
もっと打ちたいが、時間切れ。はじめて聞くことばかりです。寡黙な父。会話のない家庭で、父に悉く反抗した私と妹。悔やまれます。老いた母のためにも夏までにまとめてお墓参りに持って行くぞっ。戦争に翻弄され、晩年は北朝鮮にも行き、革命を信じた父。私は混乱のまっただ中にいますが、今の世は、あまりに嘘ばっかりだ。次代に伝えたいことが、こんな身近にあったなんて。お父さん、ごめんなさい。まだ間に合うよね、ママ。
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