サムライ左近法務事務所の事件簿。

考古学崩れの自称「法律家」です。信州上田にて行政書士事務所を開業しています。

全体表示

[ リスト ]

秦氏と呼ばれた渡来人

イメージ 1
 
日本に渡ってきた人々の中で
--------------------
古代の渡来人勢力を代表するのが
秦氏と漢氏である。

この両氏は『古事記』『日本書紀』によると
共に応神朝に集団で移住したと伝えられる。
しかしながら四世紀末か五世紀初頭に当たる応神天皇
の実在性が疑問に付されるばかりではなく
日本書紀には、応神天皇と雄略天皇に
渡来人記事・外交記事など類似・共通するものが
多いところから、元来一つの内容の話を
二つに振り分けて記述したと見る
説が有力である。
従って倭王武とされる雄略天皇の時期を
考えるできであろう。

秦氏は秦の始皇帝の子孫の弓月君が
「百二十県の百姓」を率いて応神朝に来たと言う。
この渡来時期については前述のとおり
五世紀後半の雄略朝のころと考えられているが
確証はない。

秦氏の祖である弓月君は渡来後、
先ず大和の津間の掖上の地を与えられたと
言うが、それはのちに秦氏が大和朝廷に関与した
頃にできた話であり、本拠地は山背(京都府)に
あったと考えられる。

秦氏はその地に灌漑施設を設けて土地を拓き
農業・養蚕・機織を行って繁栄した。

秦氏が遠く秦の始皇帝に祖をもつとの伝承は
ハダの名の漢字表記が秦であることから
着想・形成されたものであって
歴史的な根拠はない。
またハダが朝鮮語で意味するパタ(ワダ)から生じ
海のかなたより来た人という見解は
早くからあるが確証はない。

秦氏が大和朝廷の財政の一翼を担う
地位に就いた理由は
従来の畿内各地の豪族と違った
遠隔地交易による新たな富の蓄積であった。
それは例えば山背の「葛野の大堰」造営に
窺われるような大規模な開発を主導した
ことにも求められる。

このようにして秦氏は山背を一大勢力圏として
欽明朝の政治を支え、
加えて西日本各地に新羅・加羅系渡来人を
「秦の民」秦人・秦人部として集団的に
組織し「九十二部一万八千六百七十人」
若しくは秦人の「戸数七千五十三戸」などと
称されるまでに大きな成長を遂げるのである。


相続・告訴告発・離婚・内容証明
会社設立・在留資格・成年後見

行政書士 青木法務事務所HP
http://www.aoki-houmu.com/


閉じる コメント(5)

顔アイコン

難しい話ですね

勾玉をどうやって作ったのだろう。あの穴をどうやって作ったのだろうと 疑問がつきません

2011/6/20(月) 午後 10:08 [ 夢花 ]

顔アイコン

夢花さん

こんにちは。
いつもご訪問及びコメント有難うございます。
勾玉の作り方ですが
特殊な工具を使って穴を開けます。
そのあと、研磨して形を整えます。
写真のような勾玉に仕上げるには
それなりの技術が必要でした。
また勾玉を作る専門集団もいました。

2011/6/23(木) 午後 5:31 [ sak**491* ]

顔アイコン

渡来人がもたらしたその他の文化

4世紀頃の朝鮮半島情勢が不安定で、多くの人が日本に逃げてくる。(壱岐の遺跡は4世紀が空白になっている。)

・弓月君(ゆみつきのきみ)が伝えたもの 養蚕や機織り 農業や鍛冶、製陶、建築

・6から7世紀 学問がもたらされる

・513年 百済から五経博士(儒教の5つの教典である書経、易経、詩経、春秋、礼記「らいき」に精通した人)の段揚爾「だんように」が儒教を伝える

・554年 易学、暦学、医学が伝えられる
・593年四天王寺は百済出身の大工さんがつくりました。
・高句麗の曇徴「どんちょう」が紙、絵の具、墨を伝える

文化の発祥はインドや南シナです。

4世紀以降は、日本に入ってくるような朝鮮の文化はほとんどありません。
百済が滅んでからは朝鮮からは、儒教も受入れられなかった。

大陸文化を乗せた船は朝鮮半島で水を補給した。

江戸時代の朝鮮通信使は酒を飲んだ漢詩を多く残しており、朝鮮通信使が終わった後に、食料を供出させられた民衆の一揆が頻発した。

2012/6/9(土) 午後 7:32 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]

顔アイコン

日本は1970年代後半のインドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)からの難民大量流出をきっかけに難民との関わりを急速に深め、1981年に難民条約に加入しました。
ベトナム・ラオス・カンボジアの人々を中心としたインドシナ難民の受け入れ事業は、2005年度をもって終了しましたが、これまでに受け入れたインドシナ難民の数は11,319人にものぼりました。
また、1982年に難民認定制度が導入されてから2008年末までの間に、508人の条約難民を受け入れました。さらに、平成22年度からは、第三国定住の枠組みによって、3年間で約90人のミャンマー難民を受け入れる予定です。

日本政府はアジア福祉教育財団にインドシナ難民や条約難民の人々の暮らしをサポートするように事業を委託しています。具体的には、定住促進施設として設置された「RHQ支援センター」において、日本語教室を開いたり、就職等各種相談への対応を通じた支援を実施しています。

2012/8/14(火) 午後 0:50 [ 環境歴史観光防災カメラマン ]

顔アイコン

中国の三国時代の前後に起きた中国大陸の人口の激減は、後の時代に大きな影響を与えた。

当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、悪天候や疫病などにより、中国大陸の人口は大きくその数を減らしている。

例えば、後漢末の桓帝の157年に5648万を数えた人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である。

数値が減った理由として、上述の要因の他に、屯田民は地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかった、流民が戦乱を避けて流浪中に豪族の私民になり戸籍を外れた、など統計漏れが増えた可能性も指摘されている。

しかしそれでも、大陸の統一が崩れてから再統一がなるまでに、それ以前の中国史上の前例である秦末(楚漢の攻防)や前漢末(赤眉・緑林の乱)とは比較できないほど時間を要していることや、この時代の少し後に大陸周辺異民族の大規模な集団移住(五胡十六国)が起きていることから、やはり、数値は額面どおりではないにしても、相当程度の人口減少と人口希薄地帯の登場が起こった、とする見方もある。

2012/10/21(日) 午前 11:45 [ 底質汚染 ]


.
sak**491*
sak**491*
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新の画像つき記事一覧

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事