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出発

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先日、無事母を送り出しました(笑)。入退院を繰り返しながらも多くの力に支えられた三年間の在宅介護生活が終了です。  それにしても、母の最期は本当に見事としか言いようがありませんでした。 お別れの時間が来る約三時間前に病院に到着した僕は、ずっとお世話になった担当医師から様態について説明を受けました。或いは「持ち直してくれるかな?」と云う気持ちと「この日か」と云う諦めの思い半々。入退院が続き弱りながらも、前日までは特に変わった様子はありませんでしたから...。 今まで何時もそうしてきたように顔を拭いてやり、額にそっと手を当てながら腹部を、の字にマッサージし続けました。及ばずながら仏法を学ぶ身なので、静かに御題目を唱えながらです。それまでの日々の疲れもあって、うとうとしかけた時に、担当の看護師さんが来られて。「間もなくです」と告げられました。(母の身体には余計なものは一切つけず心拍数、脈拍状況のみが無線でモニターできるようになされていました) 愚息として出来ることは、お別れの御題目を愛する母の耳元で上げることだけ、...そして母は眠るように静かに旅立ちました。その姿は本当に美しく、神々しささえ感じられました。  その後は一通りの流れがあって、病院関係者に見送られ、生前予約しておいた葬儀社の安置場所で僕自ら枕經を上げ最後の一夜を共にしました。悲しみは一切起こりません。信じられないような満ち足りた静かな時間。お陰で二時間熟睡しました(笑)  お別れに僕は息子として、一舞台人として母にメイクを施しました。日常やっていたことですが今生ではこれが最後。「お別れには紅を引いてね」ずっと以前にそんなことを言ってたっけ(笑)  葬儀はごく身内で法華一乗会の同士葬と云う形で行いました。日頃、尊敬して止まない江見壽昭法師に導師をお願いし、僕は喪主と脇士の二役をさせていただきました。ごく親しかった親戚、信仰の同士も駆けつけてくれた小さな、そして喜びに満ち溢れた御葬式でした。母の新たな門出です。僕も及ばずながらも法華経を学ばせて戴いている在家僧として、一芸能者として、迫田久美子の愚息として新たな歩みを進めます。  寂しくないと言えば嘘になります。折に触れて母を思い涙することでしょう。でも、少なくとも母を失った悲しみはありません。否、寧ろ、法華経の行者として送り出すことができたのを心から有難く思います。  そしてまた、これまた及ばずとも一芸能者として認めて下さる皆様の存在を心底感謝申し上げます(お葬式の翌日から普通に活動させて貰っていますから)。  在宅介護...決して楽ではありませんでした。...でも、すごく楽しかった。多くの方々に愛され身守られた母は最大の果報者です。機会があれば母の思い出をまた綴りたく思います。 母との生活を支えて下さった皆様に心から感謝申し上げます。   南無妙法蓮華経

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不肖の身なれども

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日中はまだ厳しい残暑が続いていますが、日暮れが早くなり、秋の虫も鳴き始めました。 この二ヵ月間は本当に慌ただしい日々が続き、少しバテ気味(笑)  ではまず、日蓮聖人が愛弟子である四絛金吾に宛てた御手紙からの引用です。「賢人は八風と申して八つの風におかされぬを賢人と申すなり。利と衰と毀と譽と稱と譏と苦と樂となり。おお心(むね)は、利あるによろこばず、衰うるになげかぬ等の事なり。此の八風におかされぬ人を天守らせ給う。」思えば私たちの日常は喜怒哀楽の連続です。物事の善し悪しに囚われ、落ち着きと云うものが全くない(笑)良いことがあれば上機嫌になり、少しでも悪いことが起これば腹を立てたり、徒に嘆いたり...ワタクシもご多分に漏れずで...ああ、情けない(笑)  「衆生は常に苦惱し、盲冥にして導師なし。苦盡の道を識らず、解脱を求むる事を知らずして、長夜に悪趣を増し、諸天衆を減損す。冥きより冥きに入り、永く佛の名を聞かず。(法華経譬喩品)」  経文(特に法華経)や日蓮聖人の御遺文には私達が学ばなくてはいけないことが多く記されてあります。否、寧ろ、その一語一句が現代の我々の為に遺されていると云っても決して過言ではありません。事実、この二ヶ月間は、不肖の身なれども僅かながら学んできた法華経と日蓮聖人の御書を身読(体現)する日々でした。「末代に於いて眞實の善知識有り、所謂、法華涅槃是なり。...人を以って知識と爲すは常の習なり、然りと雖も、末代に於いては眞の知識無し、法を以って知識と爲すに多くの證有り、...經巻を以って善知識と爲すなり。(守護国家論)」  6月の終わりに母が再入院し、今回初めて主治医の先生から「敢えて手術も選択肢に...」とお言葉を戴きました。度重なる入院でも母の年齢や体力を考慮し、それまでは決して口にされることはありませんでしたから、余程のことです。最近では高齢者の手術も珍しくありませんが、それに纏わるトラブルも結構あるそうです。母がお世話になっているK病院はとても慎重で手術内容やそれに伴うリスク等、懇切丁寧に説明して下さいました。それでも凡夫の悲しさ故か(笑)駄目な息子として一週間以上悩みました。当初は静かに見送る覚悟でしたが、手術を決断したのは、ある不思議を通してです。只、その全てを書き記すと既成宗教にありがちな安っぽい作り話になりかねませんので敢えてしません(笑)それに奇跡を目の当たりにするような感動的な秘話もありません(笑) でも、責任をもって言える事は法華経と日蓮聖人の御妙判に記されてあることは決して間違いないと云う事です。但し、寸分の疑念があっても、それを感じ取ることは出来ませんし、「宗教は阿片だ」の「信じる者は皆救われる」など酔っ払いの戯言を口にする輩は論外です。  「既に年五十に及びぬ、餘命いくばくならず。いたずらに曠野にすてん身を同じくば一乗法華の方になげ、雪山童子、薬王菩薩の跡をおい、仙豫有徳の名を後代に留めて法華、涅槃經に説き入れまいらせんと願うところなり。」(金吾殿御返事)

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はじまりの樹

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梅雨入りしました。 雨上がりの緑は一段と深みを増し、街中では子育て中の燕が颯爽と飛び回っています。...ああ、世の中の喧騒を余所に季節は当たり前の時を刻んでいます。今年は春の極端な寒暖差に始まり、今の蒸し暑さは本当に堪えます。思えば近年は自然界でもいろいろとおかしなことになってきて...不肖の身なれども仏典を繙く度にそのあたりが大変気懸りです。日本は、世界は一体何処に向かっているのでしょうか? 
母の入退院が続いており、仕事やプライベート(...んなもんあったっけ?)との兼ね合いが少しタイヘン。五十路を迎えようか、と云う歳になると流石に三十代までのような訳にはいきません。時々ガタも来るし...当たり前か(笑) 
閑話休題、
先日、数年前からお世話させて戴いているNPO法人に所属するリコーダーグループの正式名称を決めました。「名は体を表す」の喩えではありませんが、発足してからの時間を考えると今まで名前が無かったことの方が不自然かも知れませんね。僕のミニコンサート付きの(笑)ワークショップとしてスタートした月一回の催しが、十人以上のリコーダーアンサンブルに発展するなんて考えも及びませんでした。つくづく縁とは不思議なものだと感じ入ります。 それで、名称は「(リコーダーアンサンブル・)はじまりの樹(き)」に決定。また、小編成の時は「トゥック・プック」と云うキュートなグループ名で活動致します。命名は何れもお弟子さんです。他にも候補が上ったので、AK()?みたく総選挙をやりたかったのですが(笑)最終的に僕に一任されたので、個人的な好みで決めました。どちらも音楽団体っぽくないでしょ?...そこがいい(笑)特に前者は僕だけでなく参加者の思い、そしてそれらを取り巻く環境、全てが集約されているように感じられます。

「凡そ一樹の陰に宿り、一河の流れをくむ事だにも多少の縁とこそ云いぬるに、ましていわんや、親となり子となるおや。」(十王讃歎抄)

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漸く春の訪れを実感できるようになってきましたが、天気の移り変わりが激しく、この時期特有の雨はせっかく咲き始めた桜には花散らしの雨となったようです。近所の桜並木も葉桜状態ですが、桜吹雪も加わって結構美しいものです。 
特に趣味のない僕にとって(笑)、この時期道端で出会える花々(彼、彼女たち)は心の慰めです。
そう云えば、楽器のコンディションも春モードに入ったかな...何しろ木ですから、地に根をおろしていた頃の記憶はあるのかもしれませんね(笑)
僕が笛を吹き始めてから25年経ちました...ってイキナリですが(笑)...今年めでたく五十路に突入しますので、それまでの人生の半分は笛に費やしてきたと云うことになります。
四半世紀飽きもせず同じことをやり続けていると、それを通じて様々なことが見えてきます。尤もまだまだ発展途上の此の身...大したことはありませんが...
縁あって、今、リコーダーアンサンブルのお手伝いをさせて頂いております。二十数年ぶりです(笑) 普段はソロで好き勝手なことばかりやっているので良い足枷になります。自身を見詰め直す意味でもこう云った機会は大切にしたいものです。在り来たりの言葉で恐縮ですが、娑婆世界に在る限りは一生勉強ですね(笑)。

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気が付けば、もう桜の時期。不相変の不順な天候に泣かされながらも4月を迎えました。
昨年の秋から母の入退院が続き、今回は本当に久しぶりの投稿です(笑)。
「拙きは凡夫の倣い」の喩えではありませんが、私たち人間は日常の喧騒の中にあって、物事の本質や大切なことをつい見落としてしまいがちです。そして、何か大きな問題に直面するとそれまでの、ごく当たり前であった日々がひどく愛おしくさえ思えてきます。
仏教では人間の執着心を著(じゃく)とも表現し、その呪縛から離れることを権大乗までの教えでは所謂「悟り」と言いますが、そこはそれ、凡夫の悲しさ...そう簡単には行かない。自分自身を振り返って思うに、普段私達を取り巻く問題の大半はこの「著」から起こっているのではないでしょうか?! 例えばおにぎり一つを心から美味しいと感じることもあるが、もっと旨いものが食べたいと思うこともある。人間の欲望にはキリがないし、実に様々。

「佛の説きたもう苦諦は眞實にして異なることなし。若し衆生あって、苦の本を知らず、深く苦の因に著して、暫くも捨つる能わざる、是等を爲っての故に、方便して道を説きたもう。諸の苦の所因は、貪慾これ本なり。若し貪慾を滅すれば、依止する所なし。」(法華経譬喩品)

思えば文明という美酒は人間の五慾を満たすために進歩、発展してきたのかも知れません。文化芸術も云うに及ばずですが...。
人として、少欲知足の精神は常に心の隅に留めておかなければいけませんね(笑)

「我れ深く汝等を敬う、敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて當に作佛することを得べし」(法華経不輕菩薩品)

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