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昭和6年4月。浜口首相は職務を続行できないと判断して総辞職。
テロ・暗殺による政権交代は報復合戦を避けるために同政党から、が「憲政の常道」
西園寺公望は同じ民政党の若槻礼次郎を次期首相に奏薦。こうして始まった第二次若槻政権だったが、このタイミングで満州事変が勃発する。 首謀者は板垣征四郎と石原莞爾。 内閣・陸軍省・参謀本部はもちろん関東軍の幕僚たちでさえ計画は知らされていなかった。 事変発生の3時間後に第一報が本国に入電。 「暴戻なる支那軍が満鉄線を破壊し、我が守備隊と衝突せり」 これを受けての臨時閣議では、関東軍の謀略を疑っていた幣原外相が会議をリード。 「事態の不拡大方針」 が閣議決定されると、若槻首相は即時に昭和天皇に上奏。 陸軍省より関東軍に方針が訓電されると、本庄関東軍司令官は行動停止命令を出すのだった。 翌々日。 焦った板垣・石原が本庄関東軍司令官を強引に説得。 関東軍は中央の 「不拡大方針」 に背き吉林省を占領する。 同日。吉林侵攻に対応する閣議の議題は 「朝鮮軍による増援」 の可否であったが、
南陸相・若槻首相を除く全閣僚が反対する。 「増援を送っては国際連盟で問題となってしまうぞ!」
ところが、議論のさなか。とんでもない報告が飛び込んできたのだった
「朝鮮軍1万が越境っ!満州へ侵入しましたっ!」
急変する状況に具体的な対応策が出されないまま散会。 翌日の閣議で、若槻首相は朝鮮軍越境の事後承認を議題とするのだった。 「すでに出動せる以上、致し方なきにあらずや」 他の閣僚も、既成事実に対し賛成とも反対とも言えぬまま、政治的に追認してしまう。
若槻首相が上奏。昭和天皇は正式派兵の閣議決定を裁可。 これら一連の出来事により、政党内閣は威信を失墜させてしまったのだった。
当時の新聞に掲載された市民の声。
「幣原があかんよって支那人になめられるんや。」
「向ふから仕掛けたんやよって満州全体、いや支那全体占領したらええ。」
「とも角、いままで培って来た満州のことです。捨てて堪りますか」
「これで景気がよくなりますと何よりです」
続く
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