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不本意ながら満州事変を追認してしまった若槻内閣。
「関東軍の暴走を止めねばっ!」
政友会との「大連立」を画策するが、幣原外相と井上蔵相がこれに猛反発。 閣内不一致となり若槻内閣は総辞職に追い込まれてしまうのだった。 西園寺公望は 「憲政の常道」 に従って、政友会の犬養毅を次期首相に奏薦。 犬養政権が誕生すると、人事面で重要な事件が起きるのだった
「陸相には荒木貞夫を任命するっ」
大正時代から陸軍の中枢ポストを独占していたのは、宇垣一成が率いる 「宇垣派」 であった。 「宇垣派」 は政党内閣に対して協力的であり、宮中勢力とも良好な関係にあったのだが、 若い中堅エリート将校はそんな 「宇垣派」 に反発しその打倒を目的とした 「一夕会」 を結成。 一夕会の御輿は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の3人であった。 反・宇垣派の一夕会は密かに政友会に接近すると工作を開始。 リーダー格である 「永田鉄山」 による根回しが功を奏し 「荒木陸相」 が誕生したのであった。 荒木陸相は報復人事を展開。 「宇垣派」 を全ての中枢ポストから一掃すると自分の友達だけで上層部を固めるのだった。 あまりにも露骨すぎたため 「まるで平清盛みたいだ」 と呼ばれたほどという。 こうして 「宇垣派」 に代わって 「荒木派」 が陸軍を支配。 荒木派は後の 「皇道派」 となる。 荒木陸相の人事は 「反・宇垣」から「皇道派の拡大」に発展する。 筆頭リーダー格の「永田鉄山」を干して 、2番手の「小畑敏四郎」を抜擢。
さらに盟友の 「真崎甚三郎」 を参謀次長に任命。 参謀総長に皇族の「閑院宮」を擁立することで参謀本部の実権は次長の真崎が握るのだった。
「宮様のお手は煩わせません。どうぞ何もしないで座ってて下さい」 飛ぶ鳥を落とす勢いの皇道派は 「改革派」 イメージを演出。 現場指揮の部隊長である青年将校(隊付将校)たちの支持を取り付けることに成功するのだった。 「荒木陸相ならば、この閉塞感を打開してくれるだろう」 こうして隆盛を誇った皇道派であったが、露骨な人事と過激な青年将校に対する反発も大きく 彼らは、やがて永田鉄山をリーダーとして結束を固めていくこととなる。 陸軍は派閥争いを激化させていたが、犬養毅の政権運営は順調であった。
緊縮財政の原因である 「金解禁」 を停止すると、蔵相に切り札・高橋是清を登用。
高橋得意のインフレ誘導で景気回復を演出し、その勢いで総選挙も大勝したのである。
そんな中。昭和7年5月15日。海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が首相官邸を襲撃。
犬養首相は3発の銃弾を受け、出血多量によって死亡してしまうのだった。
「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから、、、、」
続く
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