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昭和7年12月6日。リットン報告書を審議する 「連盟総会」 が開幕。
日本の全権代表は 「松岡洋右」斉藤内閣の外相 「内田康哉」 の方針は、強制力のない 「非難勧告」 までは容認。
常任理事国として居座り続けながら、時間を稼ぎやり過ごすというものであった。
内田は明治・大正・昭和の全てで外相を経験したベテランであったため、政府は彼に一任する。
総会が始まると、案の定 「中小国」 が一斉に日本を非難。
松岡は 「十字架上の日本」 演説で反論を試みると各国の絶賛の拍手で会場は渦巻いた。 「こ、これはっ!イケるかもしれないぞっ」
松岡の演説に感銘を受けたイギリスは非難勧告が回避されるように妥協案を提示してくれたのだった。
松岡はさっそく本国に打電。 「イギリスが妥協案を提示してくれました。これで行きましょう」 しかし、内田外相は当初の予定に拘った。 「イギリスの妥協案を拒絶せよ」 こうして、イギリスの提案を断った直後。想定外の事態が発生する。
陸軍が熱河省にいる中国軍を叩く 「熱河作戦」 を要請し、斉藤内閣がこれを閣議決定。
昭和天皇もこの閣議決定を裁可する。 熱河省は満州国の一部であり、いわば国内の掃討戦という認識であった。 しかし内田外相は閣議決定した後から気付く。 「熱河作戦は中国に対する新たな戦争・・・と見なされないだろうか?」 連盟規約では、紛争調停中に新たな戦争を起こした国には 「経済制裁」 が科せられるのである。
「しまったっ!首相っ、中止!中止を願いますっ!」
非難勧告と経済制裁では全く別物。
斉藤首相は昭和天皇に 「熱河作戦」 の裁可取り消しを求めるのだった。 話を聞いた昭和天皇も裁可の取り消しを考えたが、西園寺を始めとする宮中勢力が猛反対。 「綸言汗の如し。一度下した裁可を取り消せば天皇の威信に関わる」 こうして 「熱河作戦」 は発動。 ニュースはたちまち各国代表の知るところとなり、空気は一変したのだった。 内田外相はジュネーブの松岡に指令を出す。
「どうせ経済制裁だ。連盟が対日非難勧告を可決したら、席を蹴って脱退して来い」
松岡は混乱する。 「本国は何を考えてるのか、、、どうすれば良いのだっ」 昭和8年2月24日。「対日非難勧告」 が可決。 賛成42、反対1、棄権1 すぐに松岡は議長に発言を求めて登壇。 「日本は連盟の提唱には従えません。さようなら」 松岡は演壇から降りると自席に戻らず、 まだ通訳が終わってない各国代表団を残し、日本代表団たちと一緒に退場してしまうのだった。 脱退回避に失敗した松岡は失意の中帰国。 「連盟に残ることに失敗したことをおわびいたします。」
ところが、連盟離脱を支持していたメディアは英雄的に彼を迎えたのだった
「我が代表堂々と退場す」 「連盟よさらば!遂に協力の方途なし無し」
マスコミの誘導で世論も松岡を褒め称え始めると、彼自身の発言も変化していく
「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切。いまこそ日本精神の発揚が必要です」
続く
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