ユニバーサルデザインのまちづくり

人権・平和・自治について思いをつづります

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  仮定の話をします。
表題のような問いかけをして、
返ってきた答えが「そりゃあ障がい者のためにつくるものでしょう。障がいのない人が障がいのある人に理解を示し思いやりをもって接することが大切、まず啓発ですよ。」と答えられたら・・・?
あなたは素直に「そうだね。その通り」と感じますか?
それとも「なんだよ。その上から目線」と憤りますか?
こんな問いかけ自体、ナンセンスと思う方もいるでしょうか。
 
私は、「障がい者計画が障がい者のためにある。障がいを理解し、障がい者に思いやりをもって接することを啓発する」とされているなら、そこに差別の視線を感じます。
障がいがあってやっかいなことやトラブルや不便なことが山ほどあります。障がいのためにできないこともあります。でも、一番つらいのは、障がいがあるからという理由であきらめさせられること、あるいはそれがその人にとっての幸せと別の誰かに決めつけられること。自分で選び取ることすら認められないことです。
あえて言わせてもらえば「障がいのない人」からの「思いやり」と「理解」は、必要ない。ほしいのは一緒に考え一緒に悩んで共に歩んでくれる仲間であり、障がいを理由にいかなるチャンスからも排除されない選択の自由だと。
 
 「障がい者権利条約」が日本でなかなか批准できない状況です。その背景はいろいろありますが、特に「障がい者は障がい者らしく生き、周りの人たちは障がいそして障がいをもつ人たちに思いやりを持って接し、理解することが大切だ」という暗黙の道徳観があるように思えます。
 
 それは特に「教育」の中で生き続ける「特殊教育の考え方」に連なっています。「障がい」を理由に、はじめから分けておいて「交流」教育を通して「思いやり」や「理解」を教えようとする「偽善」は障がいのある人とない人を区別し、やがて選別し、そして差別していくことを子どもたちの心にじわじわと植え付けているとしか思えません。
 
「障がい者計画」は、障がいのない人が障がいのある人とともに生きるために何が必要なのかをともに考えるための計画であってほしいと思います。その前提として「障がいを理由にあらゆる場において分けないこと」−ここが計画の方向性を決めるターニングポイントと思います。
 
 私はこれまで、市の審議会、懇話会、あるいは○○計画推進会議など数多く傍聴をしてきました。その中でいつも疑問を感じていることは参加している委員自身が自分の役割を全く理解していないことでした。本来自分たちが策定主体であるにも関わらず、行政が提案した内容に対して「善きに計らえ」とお墨付きを与えるかもしくは「ご意見を申し上げる」だけの会になっています。
「答申は行政がつくるのではなく、参加している委員が作るもの」という立場を理解しない発言が多いわけです。
そして、この状況を市も市民も気づかないのか気づいていてもお互いにそれをよしとしているのか黙認していることです。
本来は「市はこの計画策定において○○を重点に施策展開すべきだから私はこの文言を答申に入れたい」とか「これまでの計画で○○ができていないので、この次は××ように新たに変更すべきだと書き込みたい」という具合にそれぞれの立場から委員同士が議論し策定していく筋のものなのです。
ところが、今まで行政は、その答申の案文すら行政側が策定してきたのです。
おかしなことに自ら作った答申(市民からは若干のお小言か修正提案をもらって)を持って自らに今度の計画はこう作るべきです提言するという状況です。
その根本原因は「偽市民参加」であたかも市民の意見で作りましたと形だけで行政計画を作ってきたことにあるのだと思います。
 
「市民参加」という言葉がはやりですが、本当の「市民参加」とは多様な意見を持つ多様な立場の市民が時には全く的外れなことも含めてごちゃごちゃと話し合うことが必要ですから時間もエネルギーも膨大にかかるわけです。だから、形だけで「後はこっちでいいようにやりますから」ということをつまり「にせ市民参加」をずっと行政はしてきました。もちろん佐倉市に限らずの話ですが。
 

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