ユニバーサルデザインのまちづくり

人権・平和・自治について思いをつづります

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 弱いもの(世の中から排除され使い捨てられる若者)がより弱いもの(人に服従するために作られた無抵抗のロボット)を踏みつけ傷つけ破壊する。
その弱い若者に対してより弱いロボットたちが暴力をもってしかえしをする。しかも、「私憤」をもつ人間の復讐に利用され、そそのかされて暴力という手段を使う。
 しかし、主人公「アトム」とロボットを愛する人間はその仕返しを「愛」と「許し」と「自己犠牲」で止める。弱い若者は許され、より弱いロボットたちは、これで善しと納得する?
「憎しみ」や「怒り」ではなく、「愛」と「許し」で・・・。涙・・・。
 
 なんか違うなあ。
暴力で問題解決はできない。力と力のぶつかり合いでは憎しみを増すだけ。それはその通りだと思うけど・・・。それをテーマにしたかったのだろうか?
 
だとしたら、弱いものが弱いものを踏みつけにする設定から入るのだけはやめてほしかった。弱いものが差別され踏みつけられたとき怒りを持って立ち上がることは当然の権利だから。確かに暴力という手段は憎しみの連鎖を引き起こすが、怒りは正当であり、憎しみもまた当然の感情。憎しみや怒りもまた、同じ人の心の中にある感情だ。「愛」があるから「憎しみ」も生まれる。闘うことを「愛」や「許し」で止めてはいけない。闘うこともまた必然だ。
 
肝心なのは、本当に闘うべき相手がどこにあるのかではないのか?
しかし、ここでは全く伏せられている。また、なぜ、弱いものがより弱いものを踏みつけにするのか、その意味も曖昧なままだ。
 
「愛」が「憎しみ」にうち勝つという設定で「いい話だったね」で終わらせてほしくないなあと感じた次第。これじゃあ、踏みつけにされているものたちは全く救われない。
どんなに現実は厳しくても、何が変わらなくても「心に太陽、唇に歌を、希望を持って生きよう」では、何とも救いがないではないか?
どうも、素直に感動できないなあ。
  仮定の話をします。
表題のような問いかけをして、
返ってきた答えが「そりゃあ障がい者のためにつくるものでしょう。障がいのない人が障がいのある人に理解を示し思いやりをもって接することが大切、まず啓発ですよ。」と答えられたら・・・?
あなたは素直に「そうだね。その通り」と感じますか?
それとも「なんだよ。その上から目線」と憤りますか?
こんな問いかけ自体、ナンセンスと思う方もいるでしょうか。
 
私は、「障がい者計画が障がい者のためにある。障がいを理解し、障がい者に思いやりをもって接することを啓発する」とされているなら、そこに差別の視線を感じます。
障がいがあってやっかいなことやトラブルや不便なことが山ほどあります。障がいのためにできないこともあります。でも、一番つらいのは、障がいがあるからという理由であきらめさせられること、あるいはそれがその人にとっての幸せと別の誰かに決めつけられること。自分で選び取ることすら認められないことです。
あえて言わせてもらえば「障がいのない人」からの「思いやり」と「理解」は、必要ない。ほしいのは一緒に考え一緒に悩んで共に歩んでくれる仲間であり、障がいを理由にいかなるチャンスからも排除されない選択の自由だと。
 
 「障がい者権利条約」が日本でなかなか批准できない状況です。その背景はいろいろありますが、特に「障がい者は障がい者らしく生き、周りの人たちは障がいそして障がいをもつ人たちに思いやりを持って接し、理解することが大切だ」という暗黙の道徳観があるように思えます。
 
 それは特に「教育」の中で生き続ける「特殊教育の考え方」に連なっています。「障がい」を理由に、はじめから分けておいて「交流」教育を通して「思いやり」や「理解」を教えようとする「偽善」は障がいのある人とない人を区別し、やがて選別し、そして差別していくことを子どもたちの心にじわじわと植え付けているとしか思えません。
 
「障がい者計画」は、障がいのない人が障がいのある人とともに生きるために何が必要なのかをともに考えるための計画であってほしいと思います。その前提として「障がいを理由にあらゆる場において分けないこと」−ここが計画の方向性を決めるターニングポイントと思います。
 
 私はこれまで、市の審議会、懇話会、あるいは○○計画推進会議など数多く傍聴をしてきました。その中でいつも疑問を感じていることは参加している委員自身が自分の役割を全く理解していないことでした。本来自分たちが策定主体であるにも関わらず、行政が提案した内容に対して「善きに計らえ」とお墨付きを与えるかもしくは「ご意見を申し上げる」だけの会になっています。
「答申は行政がつくるのではなく、参加している委員が作るもの」という立場を理解しない発言が多いわけです。
そして、この状況を市も市民も気づかないのか気づいていてもお互いにそれをよしとしているのか黙認していることです。
本来は「市はこの計画策定において○○を重点に施策展開すべきだから私はこの文言を答申に入れたい」とか「これまでの計画で○○ができていないので、この次は××ように新たに変更すべきだと書き込みたい」という具合にそれぞれの立場から委員同士が議論し策定していく筋のものなのです。
ところが、今まで行政は、その答申の案文すら行政側が策定してきたのです。
おかしなことに自ら作った答申(市民からは若干のお小言か修正提案をもらって)を持って自らに今度の計画はこう作るべきです提言するという状況です。
その根本原因は「偽市民参加」であたかも市民の意見で作りましたと形だけで行政計画を作ってきたことにあるのだと思います。
 
「市民参加」という言葉がはやりですが、本当の「市民参加」とは多様な意見を持つ多様な立場の市民が時には全く的外れなことも含めてごちゃごちゃと話し合うことが必要ですから時間もエネルギーも膨大にかかるわけです。だから、形だけで「後はこっちでいいようにやりますから」ということをつまり「にせ市民参加」をずっと行政はしてきました。もちろん佐倉市に限らずの話ですが。
 
  17日午後、音楽ホールで開かれたタウンミーティングに参加した。計画の策定や内容についての説明が1時間、その後市長はじめ策定に関わる主なメンバーによるシンポジウムと質疑応答2時間の計3時間行われた。こういう会はいつも終わり近くなると意見が白熱して時間が足りなくなるが、今回も同じパターン。だいたい、はじめの説明が長すぎる。
見れば分かる内容を朗読調で話す時間がもったいない。しかも、毎回ほとんど変わり映えのしない目標やスローガンが書かれている。聞いていると数分で眠くなる。
 
市民が本当に聞きたいと思うのは、きれいにまとめられた文言の羅列ではなく、何をするのかの具体的内容である。同時にそれが実現可能なのかいつ頃までにおこなうのかという計画実効性の担保である。だから、具体論を質問し始めると時間が足りなくなる。
 
たとえば、「地域福祉コーディネーターの設置」については、第1次計画にもあったが全く手つかずのまま計画期間の4年が過ぎた。なぜ、できなかったのか?そして、できなかったものをなぜ再度あげるのか?その必要性についての説明や具体的構想についての説明をする方がよほど市民は関心を持って聞くだろう。それが果たして実現が可能なのか、過去4年間に実現できなかった理由も含めての分析もあって然るべき。
 
「市民参加型の計画策定」というなら、市民が関心を持つ内容を工夫することが行政には求められる。出てみたら、ただ眠くなる説明ばかりでさっぱり内容が伝わらないという経験をしてしまうと関心を持ち始めた市民も次第に足を遠ざけてしまう。今日の参加者は数十名もいただろうか?市職員、民生委員、福祉委員、社会福祉協議会も含めて関係者を抜かしたら、10本の指で間に合うかも?という状況では、なんとも情けない
 
今議論中の「自治基本条例」もそうだが、「市民参加」とは時間がかかりエネルギーがかかり右往左往の連続は当然のこと。それを避けて、通り一遍のスケジュールでやろうとするから、市民は次第に関心意欲を減退させていく。「ああ、実はそれがあなたたちの本当のねらいなのね」と思わず皮肉を言いたくなる。
 
さらに、集会後、市長と、自治基本条例について10分でも15分でもいいから話をしたいと要望書まで提出し、数名の市民が、静かに待っていたのに、そそくさと黒塗り公用車に乗り込んでまともな返事もせずに帰ってしまった。会場で「市民参加が大事といったのはやっぱりポーズなのね」としっかり印象づけてしまった。ああ、ほんとに情けない。
  昔々の話ですが、「おまえはこんなことも理解できないのか?」と怒鳴り散らし時にひっぱたいて生徒に「人権思想」を教える社会科教師がいた。「あの〜教えている内容と方法がかみ合っていないんですが・・・」と心で思いながら、いえなかった中学生の私。
 
 そんな体験を四半世紀後、再び経験するとは思わなかった。
「市民自治の強化、市民主権の原則」といいながら「市長が決めたことですから市民の意見は聞けません」と言いつのり「拙速な策定はやめてほしい」という市民意見を無視して強引に策定しようとしている佐倉市自治基本条例。
「あの〜言っていることとやっていることが真逆なんですが・・・」とまさにデジャブ現象。
しかし、中学生の時とは違って今は「おかしいだろう、それは!!」と声にして主張しているが。
 
まさに「言っていることとやっていることが違う」状況の中で、自治基本条例は作られようとしている。情けない話だが、そんな市長の独断と市民に対する不誠実な対応に、行政を監視する責務と最終的に議決権限を持つ議員の何人が強い関心と危機感を持っているのだろうか?そんな議会の足下を見られてか、「どんな内容でもどんな作られ方でも出せば通る」と市長や執行部は、高を括り策定を急ぎ進めている。
 
さらに恥ずかしい話だが、参加していた某議員が、「議会基本条例案を議会は少なくとも市民に5回の説明会をしている。」という発言をしてあたかも議会基本条例の方は市民意見を聞いているような印象を与える発言をしていた。
びっくり!を通り越してあきれてしまった。
市民が議会基本条例の策定過程の中で「意見を反映したい、市民参加で行うべきだ」と陳情さえ出していたにもかかわらず、結局、素案策定後まで一度も市民意見を反映する機会を設定しないで、議会改革特別委員会内部で他市の条例をコピー&ペーストをして作っていたではないか?
説明会を開いているのは素案を策定した後の話である。
そんな策定状況を比較したら少なくとも策定以前の段階で拡大市民会議を行い意見を聞いている自治基本条例よりも遙かに市民参加から後退しているということにすら気づきもしないようだ。「言っていることとやっていることが違うだろう」の典型だ。トホホな話。
 

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