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明日は11月議会の開会日だ。
市長からは「自治基本条例案」が市民905名からは「自治基本条例の拙速な制定に反対する請願」が提出される。これは全国の自治体の中でも前代未聞の話だろう。普通の自治体は市民が「自治基本条例を作れ」と求める。行政サイドは「いやいや、まだ時期尚早」と渋るのが一般的だからだ。
ところが佐倉市は、市長がなんとしても今議会で作ってしまいたいとたった半年足らずの市民懇談会で答申をまとめさせた。その上答申とは全くかけ離れた条例素案を出してきた。その裏には既に市民懇談会の立ち上げの前に行政サイドで素案を作っていたというおちがある。予算を使って市民参加を演じさせられたというわけだ。
「早く作りたい行政と時期尚早とストップをかける市民」というこのねじれ現象が起きた背景には、市長に「自治基本条例」と「まちづくり条例」の違いが理解されていないことがあるようだ。いや、もしかすると、理解していないふりをして、(とくに市長取り巻きの官僚が)その違いを十分理解しているからこそあえてその区別を分からなくしている?ということかもしれない。仮にそうであれば市民を愚弄しているわけだ。
「自治基本条例」とはそもそも行政や議会にとっては自らを縛り、市民に決定過程を含めて監視コントロールされる条例だから、諸手を挙げて賛成できない代物になる。だから全国の自治体ではよほどの革新市長でなければ作ろうとは言わない。言うまでもなく、主権者は市民だ。その市民が2元代表制の制度主体であり負託を受けて権限をもつ「市長」と「議会」を制御するための仕組みを条例化するものだから。当然、条例の遵守義務者でその名宛人は市長そして議会となる。
一方、「まちづくり条例」は皆でいいまちを協力して作りましょうという話だから、市も議会も市民もそれぞれにまちづくりの責任を協働して担うという内容になってしまう。自治基本条例とは似て非なる物。
この2つの条例の違いを曖昧にして、名前だけ「自治基本条例」とし流行に乗り遅れまいとつくるお粗末な状況が本来の自治に目覚めた市民から「拙速に作るな!」という意思表示を受ける羽目になった。これが我が愛する佐倉市の悲しき現実。
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ファシズムは少数者の抹殺からはじまる。
意見の異なるもの、多数派に与しないものをまず切り捨てる。
多くのひとは「自分とは関係ない」と無関心である。むしろ、「なぜ事を荒立てるのだ。決まったこと(多数派が決めたこと)に従えない方がおかしい。」という態度をとる。
少数派は、それだけの理由で切り捨てられる。これがファシズムの始まり。
歴史は繰り返し。人は歴史に学べない。学ぶ視点が統治者の側からの論理で貫徹されているから、学んでも単なる知識の蓄積でしかない。
東京都の学校現場では、「日の丸・君が代に敬意を表さない」行為、つまり「立たない」「歌わない」という意思表示が生活権さえ奪う。思想信条の自由は、学校現場にはない。管理責任者である校長の職務命令に従えと公言してはばからない。東京から全国の自治体へ思想統制は静かに深く進行している。
民主主義を多数決だと勘違いさせるのも統治思想が貫徹している学校教育のなせる技か。
多数派をとることが政治を思うままに動かすというわけだ。民主主義は少数者の意見をどこまで反映させるのかが試金石だ。政治の決定場面で常に多数派内での合意によって決められていくことに危機感を覚える。
たとえば「障がい者」「在日コリアン」や「被差別部落民」の問題
マイノリティの存在を認めマイノリティの意見反映を確保する。
その問題を「人権擁護」や「啓発」という観念的な部分で論じている限り、多数派はなにも畏れることなどない。
マイノリティの権利として、具体化し実効性をもたせなければ民主主義など観念論に過ぎない。偽善である。
たとえば「いじめ」の問題
皆と同調しないもの、従えないもの、異議を唱えるもの、皆と違う何をもつものは、はじかれていく。「皆、仲良く」という「道徳」で問題の本質が隠されていく。
ファシズムは少数者の切り捨てから始まる。
世の中のありとあらゆる場面で、違うものたちを認めない流れがファシズムを生み出し、肥大させていく。
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「過去10年間と今後10年間の大きな違いは、かつて経験したことのない人口減少時代に入ったこと、従って当然歳入は減り財政的には苦しくなる」という書きぶりで始まる「基本構想」「基本計画」だが、具体的な施策の方針を見る限りにおいて前段で市民へあおる危機感とは齟齬を感じるような旧来型の縦割り総花的な内容だ。
人口減少→歳入の減→市の活力低下というステレオタイプの発想から抜け出せない。だから、いかに人口減少を食い止めるか、税金を落としてくれそうな企業に来てもらうかという他力本願の施策になる。人口減少になった自治体はいつの時代にもあり、それら自治体が衰退の一途だと決めつける発想こそパラダイムシフトすべきだろう。
人口が減ることで環境や生活にかかる負荷がどの程度軽減されるのか、暮らし方の新たなスタイル提起していくこと、それこそ「歴史・自然・文化」のまちと謳うのならプラス要因としての発想の転換が求められる。
全体的に拡大志向のまちづくりからの脱却をどうはかるのかのビジョンが全く欠如していないか?いやむしろ「昔の夢をもう一度」という「産業振興策」「企業誘致策」にとどまっている。
基本的な人口の予測についても、これまでと同じ発想の分析しかしていない。
人口構成の内容を分析してもらいたい。
どういう人たちが多く住むことになるのか?分析は年齢層の違いだけである。
総合計画策定の前年度の基礎調査の人口データとの比較で、総数としての人口は、減少だが、増えていく層がある。「高齢者」これは計画の中で盛んに指摘しているが、そのほかに「障がいをもつ人」「外国籍」の人たちは、総人口に占める割合がおそらく1.5から2倍になるだろう。これを「民生費」の増で困ったことと捉えるのか?
ここからどういうまちづくりを模索していくか?で大きく施策が変わる。
ところが、相変わらず「障がい者への啓発」とか「国際交流」という従来からの施策の繰り返しで、まちづくり・地域づくりにまで踏み込んだ方向性が示されない。
根本的な問題は、総花・縦割りの章立てに象徴され、施策横断的な発想がないことにある。
高齢者・障がい者・外国籍の方たちが地域でともに暮らせるまちづくりに欠かせないサポート事業を地域の人材活用と絡めたコミュニティビジネスとして転換させるための大胆な支援とマネジメント体制を行政は行うべきではなかろうか?
それには「地域内循環型経済」→地元で働き地元で消費するための仕組み作りを行うことが必要だ。サポートが必要な方たちを支援し、ともに暮らすための仕組み作りに行政として何ができるのか?支援事業が地元での雇用施策としてあるいは地域コミュニティの振興策として持続的に安定して運営するための仕組みをどう構築していくのか?
「福祉」部門「教育」機関との連携、あるいは空き店舗活用など産業振興との関わりも生まれてくる。あるいは環境保全と観光をセットにしたエコツーリズムは、印旛沼が広がり、谷津田が多い佐倉では体験学習型の昼間交流人口の増につながるだろうし、地域総合型スポーツの振興と合宿所整備は若年層の長期滞在を促すだろう。耕作放棄地対策や里山保全は、これも滞在型の農業体験や里山の守人事業という形で新たな事業を提案する団体を巻き込んでいくことができる。アイディアはおそらく市民活動団体から様々寄せられるのではないか?佐倉市が他の自治体より一歩進んでいる点は市民活動が盛んなことである。行政はそれら市民活動をコミュニティビジネスとしてどう施策に取り込んでいけるのか?真剣に考えるときではないか?人口減少時代における新たな生活スタイルの提案となる。
税収の減少→経常経費の削減→職員人件費の削減つまり職員減、結果、仕事は増えるが職員は足りず、まじめな職員ほど精神的にも身体的にも追い詰められていく。非正規職員を劣悪な処遇で使うということが行われ、職員の意欲も含めて「公共サービス」の「質」が危うくなっている。
ここも発想の転換をしてもらいたい。役所は市の一番の大企業ではないか?
できるだけ市内に住んで市民としても地域の活動に関わり、公平公正な行政サービスを行うため現場からの視点を持った職員力を活かせるような仕組みをつくることが必要だ。
約1000人の正規職員には市内に住むためのインセンティブをもうけること、非正規職員のほとんどは市民であることからもその賃金や待遇を改善し、有能な人材を募り、安定的に高いサービスを提供できるようにすることが、多少増加する人件費以上の付加価値をつけることになる。新たな転入者を増やすことは自治体間競争の中で難しいのが現実だ。むしろ今いる市民を大切にする方策へとシフトすることが持続可能で住み続けたいまちづくりになるはずだ。
同じ発想で業務委託に対しての労賃を底上げする施策が求められる。佐倉市は全国の同規模の自治体に比べると財政的に余裕がある。その税財源のほとんど90%以上が個人市民税であり法人市民税はわずか数%にすぎない。個人所得にかかる税金で潤ってきた自治体である。裏を返せば個人所得が低くなるほどに税収は少なくなる。地域の中で、余裕をもって暮らしていける賃金が保障されることは引いては地域の消費力を高め税へと還元される。大手企業の誘致策に年間1億円以上の税を使うのなら、別な発想で地域経済を立て直す施策を行うよう発想の転換をすべきである。
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自治基本条例(まちの憲法といわれる)を主権者である市民が内容を知らないまま、市民参加がなされないままに策定しようとする市長に「待った!」をかけるために請願署名を集めた。
11月3日、ユーカリが丘駅での街頭署名から始めわずか2週間程度でこれだけの署名を集めた市民の力はすごい!ユーカリが丘駅、西志津ふれあいセンター前、志津駅、臼井駅と4ヵ所での市民のリレートークもそれぞれ市政への熱い思いが込められていた。
近所やサークル仲間など普段のつきあいの中で「自治基本条例って知ってる?」という会話から入っての署名活動も地道に行われた。
市政に高い関心がある人だけが知っていて、あとは蚊帳の外という方法で従来は、計画も条例も作られてきた。個別具体的な問題に関わる条例であれば、関係者の意見を聞くことで事足りるかも知れない。しかし、「自治基本条例」はそれら各条例の上位にある「自治体の憲法」もしくは「最高法規」といわれるもの。
すべての市民とはあえて言わないが、少なくとも、条例の制定改廃に必要な直接請求における有権者の50分の1(佐倉市でいえば約3000人)は最低限度として市民の参加や市民の意見の吸い上げが必要ではないのか?もちろんそれより多ければさらにいい。
ちなみに、今回策定に関わって意見を寄せた市民は69件。50分の1どころか0.05%という結果。さらに言えば先に策定した流山市は約3千数百人の参加と3年半の時間をかけている。この差は何か?
原因ははっきりしている。強引に市長の任期内に策定しようとしたからだ。
自分のマニフェスト実現のために市政を利用しないでもらいたい。
確かに4年前、市民は現市長に代表権限を与えたが、それは白紙委任とは違う。
何でも自分の思い通りにことを動かす権限を付与したのではない。
905名の署名は代表権限の間違った使い方に対して異議申し立てをしている。
中には大きな勘違いをしている議員がいて、「何でも市民の意見を聞けと言うのなら議会はいらなくなる」と宣う。つまり、議会に任せろと。
主権者である市民は、代表権限を4年に一度の選挙によって、行政執行は市長にその行政の監視を議会に負託したが、同時にその権限が正しく使われているのかを監視コントロールをする権限を持っている。双方に負託したからお任せお終いではない。
これが地方自治における「住民自治」の原則だ。そして、自治基本条例の制定は、その「住民自治」をいかに強化するのか具体的な仕組み作りを明記し、市長と議会に約束させるためにある。コントロールのための意見反映を2元代表制の否定だと言いつのり、論理のすり替えをして黙らせようとするから困ったものだ。さて、いよいよ11月議会が来週から始まる。905名の思いが届く議会なのか?試される時がきた。
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たとえ話をすればそんな感じの議会改革。
食材(地方自治法や会議規則)はある。あとは工夫をしていかに栄養豊かな食事(活発な議論のある議会)にするかだ。
実際には食材は古くなってとても使うそうにないものや変えなければならないものもたくさんある。でも、まだまだ使い切っていないのが現状だ。
まず、使ってみよう。そして不具合を直していこう。そう思って私は地方自治法や会議規則を読んできた。
これが使えそうだと思ったら、とにかく使った。
少数意見の留保・緊急動議・緊急質問・総括質疑・修正案提出などなど。
でも、そのときに「待った」をかけたのはどういう勢力だったのか?
議会改革とか議会内合意形成といって「条例案」を検討しているが、数の力で封じ込んできたのは誰だったのか?
そもそも何のために議会基本条例を策定するのか?
議員のため?ではないだろう。
多様な市民意見を反映し、いかにして代議制民主主義に直接民主主義を取り入れていくのか?が今、問われているのではないか?主権者である市民が議会をコントロールする道具としての議会基本条例なのだ。
議会改革と議会基本条例はそういう意味では向いているベクトルが逆になる。議会改革は議会の議事運営の民主化であり、その民主化には市民参加も当然含まれる。議会基本条例は、その民主化ルールの表明と同時にそれらルールを議員自身が守るため市民の議会監視機能の強化を担保するルールでもある。議会改革は、議員による議会運営の民主化改革、議会基本条例は、それら改革の実行を担保するための市民による議会統制のルールだ。
いつの間にか佐倉では「議会改革=議会基本条例策定」になり、しかも、議会議員自身が議会を監視統制するためのルールづくりを議会内合意に基づいて作るというわけだから、まさに骨抜き条例とならざるを得ない。
革新系といわれる会派は「それでもないよりまし」とまさに呉越同舟だ。
でも私はそれら経過も含めてどうしても賛同できない。
中身が伴わないと知っていて作った事実だけを利用する方便に思えてならない。それはあまりに偽善的で不誠実だ。
実効性の担保は別に定める事項ばかりの形だけの条例は市民には何の役にも立たないことはわかりきっているだろうに。
むしろ、議会基本条例は、4月の選挙の争点にすべきだろうと思う。
議会改革の必要性を市民に語り、市民がどういう議会を求めているかを聞き、まず自らのマニフェストで表明すればいいのだ。
それが「市民の声を届ける」「市民の代理人」と表明する革新系会派あるいは議員の「市民に対する誠実さ」ではないのか?
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