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「自治基本条例が市民参加なしに作られている。拙速な作られ方だ」と批判する同じ人が議会基本条例を作成する側になったとたんに執行部と同じように守りの姿勢に入る。
自己矛盾を感じないでいられるその感覚こそが政治家にとって必須な資質なのかもしれない。大人の対応というやつか。「筋が通らない。」と納得しない私は、いつも反対ばかりするだだっ子というわけだ。
議会基本条例は、市民の議会参加の道具としてなければ意味がないと思っている。一例を出そう。選挙では、一票を投じて一人の候補者しか選べない。しかし、住民はすべての施策判断について一票を投じた人に白紙委任しているわけではない。少なくとも市の方向性を決める重要な案件には、住民投票が必要であり、議決の判断の一つして重く尊重されなければならない。だから、住民投票の規定は必ず入れなければならないと思っている。(改革委員会の素案にはそれは規定されていない)
今回の条例案策定の過程は、それら住民参加の具体的なことについて、いやそれ以前に議会の開催時期や場所、傍聴に対する考え方、議会がどうあるべきかという住民の側からの要望すら聞いていない。先進自治体の条例文のコピー&ペーストをたたき台に文言をどうするのかということに時間を費やしてきた。
「4月には選挙がある。12月にきめてしまいたい。」と終結時期を決めた上での意見聴取は、住民から出されるであろう要望に対して、「それはそれとして、大事なことだが、時間が限られているので今後検討する」と棚上げになるのが精一杯ではないのか?
それは意見を聞くポーズでしかない。そのことは、革新系少数派の議員は執行部とのこれまでのやりとりでいやと言うほど思い知らされてきたはずだ。まさに体制側の常套手段ではなかったか?自分たちが策定する段階になったらなぜ同じ手法をとるのか?
「自治基本条例は行政執行機関のために作るのではない。」
同じように「議会基本条例は、議会のために作るのではない。」
住民の市政や議会への参加、直接民主主義を体現するために作るのだ。
だから、住民が参加し住民が議論し求めるものでなければ、活きた条例にはならない。行政や議会が主導で作ったものは、現実的な対応とか合意形成の名の下に、骨抜きになっていく危険性が高い。
いわゆる革新系議員はいままでそのことの問題性を市民に訴えてきたのではないか?
なぜ、今、「議会の合意形成」などという多数派工作の論理に乗っかり、物わかりのいいお利口さんになっていくのか?私にはどうしても理解できない。
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