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 「議会基本条例」策定の流行現象が全国の自治体に広がり、150を超える自治体が策定もしくは策定中という中で「バスに乗り遅れるな」と右も左も便乗する。佐倉もそうだとは言いたくないが、条例の基本原則がどこにあるのかが議会内ですらまともに議論されていないのに見切り発車で行われていることにあえて異議を唱えたい。
 議会改革特別委員会は会派の代表が集まったものだから、議会のコンセンサスはおおかたとれているというのは全くおかしい。
 
 今日は市民への2回目の説明会だった。
「会議の中で意見を述べたい」と告げると「議員は主催者だから意見は言うな」と開催前に特別委員会の出席議員たちから釘を指された。
確かに議会改革特別委員会のメンバーは主催者だろうが、一般の議員は、素案の策定会議に意見も言えない単なる傍聴者だった。私は文書で申し入れもしたが、聞き置く程度の扱いでまともな取り扱いを受けたことがない。
 
議員間の自由討議とか政策討論会とか条例案の中で耳障りのいい文言を並べても、実際の議会で発言の機会は特に「会派」に属さない議員にはほとんどないのが現状だ。議会改革を言うのなら、まず自分たちのやっていることを振り返ることから始めなければならないのではないか?委員外委員の発言の保障などどこにもない。
 
さらにご丁寧に、自治法上には規定のない「会派」の位置づけまで条例案に載せていて、これでは、議員個々人の意見表明の機会はますます狭くなる。会派というのはあくまで便宜的なもの。特に行政側にとっては、あれば便利なまとまりだろう。議案説明や事前の根回しに各議員を回るより会派でまとまって聞いてくれてまとまって賛成してくれれば手間暇も省ける代物だから。でも、市民の側から見れば、国会の政党政治、議院内閣制とは違うのだから、別に会派などというものは必要がないはずだ。むしろ自分が一票を投じることができたオンリーワンの議員が果たしてどういう考えでどういう行動をしているかが大事なチェックポイントになるはずだ。
 
 いずれにしても、この議会基本条例の内容に関しては、議会内のコンセンサスはとれてはいない。従って、説明会はあくまでも議会改革特別委員会内での現状における一致点の説明という押さえである。市民に誤った情報を流すのはやめてもらいたい。
 市の「憲法」であり、すべての条例の上位法として位置づけられる「最高法規」である。その言葉通りの位置づけであれば、たった4年間だけの限定的な委任を受けた市長と議会が決定すべきものではないだろう。
「市民自治」というのなら、行政、議会を監視統制するものとしての市民の主体的決定権の行使=住民投票を行うべきだろう。
 異例の短期間の中、限られた人数の懇談会委員と関心の高い限られた人数の市民だけで策定されている「自治基本条例」。
そんな状況の中で、市の「憲法」として今後1020年、さらにその先も市政が続く限り「最高法規」としてあり続ける条例を作っていいのだろうか?
さらにそれを最終決定する権限を議会にゆだねていいのだろうか?
 
来年4月には地方統一選挙がある。
少なくとも、この選挙において争点の一つとしてあるべきで、さらに、市民自身がこの安直なやり方で作られた自治基本条例を認めていいのかどうかを判断する機会があって然るべきではないだろうか?
 
 同じように「議会基本条例」も、急ぎ作る必要性は全くない。
議会運営の改革は今の会議規則の範囲内でいくらでも可能なことばかりだ。
議会の議論を封じ込めてきたのは一体誰なのか?
なぜそういう力が働いたのか?
そこにこそ問題がある。
議会不要論が多くの市民に説得力を持って賛同を得ている中で、議会が本来あるべき行政のチェック機能を果たせなかった問題点がどこにあるのか?その点を市民と話し合わずして何の改革といえるだろうか。
 
報酬も議員定数もそうだ。議員の日当制を用いている自治体もある。
議員とはどうあるべきか?
そんな議論をしないままで何の議会改革だろう。
議会の夜間や休日開催も全く話し合われていない。
働く市民が傍聴すらできないなんて本末転倒
さらにいえば、すべての傍聴はそもそも許可など不必要だ。
傍聴を認めるなんて偉そうにどちらが主人公かといいたい。
主客逆転した状況を根底からひっくりかえすことが必要だ。
 
いずれにしても「最高法規」を作るというのならその最終決定は「市民」が行う。これは当たり前のことではないか?
「条例は市長が提案し議会で議決する」2元代表制のシステムの基本だということは小学校6年生でも知っている。そんな話を例に事務局は、「だから、市長が12月までと言うのだから12月までに決める。」という独断を押し通す論拠にする。市民を愚弄するにも程がある。
市民主権のシステムを作るために策定する条例を市民が「拙速につくらないで欲しい」「あわててつくる必要性はない」「より多くの市民が参加できるようにすべきだ」と求めても市長は「自治基本条例に関しては、副市長にお任せしている」とかで「市民との対話会議には出ない、説明もしない、あげくに12月までの期限は変えない」という強硬な態度を崩さない。
 
条例の内容以前の話だ。(最も議会基本条例も同様に進められているが)
懇談会が策定した中間答申を読んだが、市民参加の様々なツールが織り込まれている。これがこの通り出来るなら、確かにすばらしいだろうとは思った。しかし、これらの実効性を担保するためには、この条例を本当に市民自身が自分たちの生活にとって必要なのだと自覚し、使いこなしていく仕組みが必要だ。行政は過去の過ちをもう一度繰り返そうとしている。4年前につくられた「市民協働推進条例」が失敗のよい例ではないか?
 
あの協働条例によって「市民と市が共にまちづくりを行っている。市民の主体的参加がはかられている。」とは到底いえない実態がある。協働事業に関わる市民の多くが「どうもいいように市に使われている気がする。」「市の下請けみたいだ。」ともらす現状。
何のための誰のための協働条例かが、市民も行政も十分に理解されないままちょうど4年前やはり、前市長が在任期間のぎりぎりになって拙速に作り上げた経緯があったのだ。
 
市の最高法規と謳うなら、現在ある各条例との整合性を図り、既設条例の改廃も視野に入れた内容の精査が必要だ。最高法規を作るということはそういうことなのだと思う。ただ条例の文言を並べて「はいできました。後はいいように使ってください。」ではすまないだろう。他の個別条例とは違う権限の大きさについてどの程度理解した進め方なのか?特に市民参加について謳っている協働条例の内容とはかぶる部分もあり、さらに議会に関わる項では議会基本条例や現在の会議規則上の制約に関してもその改廃も含めて議論されなければならないはずだ。
 
策定手順、期間、さらに内容すべてに渡って不備な条例をこのまま作らせていいのか?
「自治基本条例が市民参加なしに作られている。拙速な作られ方だ」と批判する同じ人が議会基本条例を作成する側になったとたんに執行部と同じように守りの姿勢に入る。
自己矛盾を感じないでいられるその感覚こそが政治家にとって必須な資質なのかもしれない。大人の対応というやつか。「筋が通らない。」と納得しない私は、いつも反対ばかりするだだっ子というわけだ。
 
議会基本条例は、市民の議会参加の道具としてなければ意味がないと思っている。一例を出そう。選挙では、一票を投じて一人の候補者しか選べない。しかし、住民はすべての施策判断について一票を投じた人に白紙委任しているわけではない。少なくとも市の方向性を決める重要な案件には、住民投票が必要であり、議決の判断の一つして重く尊重されなければならない。だから、住民投票の規定は必ず入れなければならないと思っている。(改革委員会の素案にはそれは規定されていない)
今回の条例案策定の過程は、それら住民参加の具体的なことについて、いやそれ以前に議会の開催時期や場所、傍聴に対する考え方、議会がどうあるべきかという住民の側からの要望すら聞いていない。先進自治体の条例文のコピー&ペーストをたたき台に文言をどうするのかということに時間を費やしてきた。
4月には選挙がある。12月にきめてしまいたい。」と終結時期を決めた上での意見聴取は、住民から出されるであろう要望に対して、「それはそれとして、大事なことだが、時間が限られているので今後検討する」と棚上げになるのが精一杯ではないのか?
それは意見を聞くポーズでしかない。そのことは、革新系少数派の議員は執行部とのこれまでのやりとりでいやと言うほど思い知らされてきたはずだ。まさに体制側の常套手段ではなかったか?自分たちが策定する段階になったらなぜ同じ手法をとるのか?
 
「自治基本条例は行政執行機関のために作るのではない。」
同じように「議会基本条例は、議会のために作るのではない。」
住民の市政や議会への参加、直接民主主義を体現するために作るのだ。
だから、住民が参加し住民が議論し求めるものでなければ、活きた条例にはならない。行政や議会が主導で作ったものは、現実的な対応とか合意形成の名の下に、骨抜きになっていく危険性が高い。
いわゆる革新系議員はいままでそのことの問題性を市民に訴えてきたのではないか?
なぜ、今、「議会の合意形成」などという多数派工作の論理に乗っかり、物わかりのいいお利口さんになっていくのか?私にはどうしても理解できない。
 今回の補正予算について市長の提案説明がどうしても納得がいかない
市税収入が、市民全体の所得低下により見込み以上に減額になる見通しをたてた。
さらに民生費、特に障がい者の介護給付や訓練等給付が伸びていることから増額補正をおこなった。それは確かにその通りだ。
その一方で地方交付税が当初見積もり1億円より16億円以上多く交付され、また、前年度繰越金約17億円をいれることで、財政調整基金のこれまでの繰り出し分約12億円を戻した。さらに今回その財調に更に積み増しをして総額約46億円となった。
財政的には近年にないほどの余裕が生まれた。このご時世に手堅い予算運営だと正直感心する。
しかし、とあえて言いたいのは、それでも尚、民生費の増を理由に財政が逼迫しているということを言い続けている市長への疑問だ。
確かに民生費の伸びはあるがこれは国が障害者自立支援法の改正を行い、障がい者の低所得者には実質的に応益負担がかからないようにしたからだ。この財源は国が2分の1、県が4分の1、市の持ち出しは4分の1。この財源内訳そのものも市町村の財政力に応じてサービス供給に差が出てくる仕組みがあるのでおかしいが、その議論は横に置いても、そういう仕組みで成り立っていることから、民生費で純粋に市の持ち出しはほとんどないはず。額面状は確かに伸びているが実際一般会計からの支出は前年比でほとんど伸びていないというが事実なのだ。
民生費が伸びていて財政が厳しいという説明は、2つの効果がある。一つは、市長はこんなに民生費つまり福祉関係に力をいれているのだという錯覚にさせられること。もう一つは、福祉関係にたくさんお金がかかるのだから、市民協働で市民が担える福祉はやらなくちゃという方向に誘導されることだ。さらに困るのは、高齢者が増えたためにあるいは障がい者のサービス利用が増えたために福祉予算が逼迫するのだという捉え方にされてしまうおそれすら出てくること。高齢者や障がい者が肩身の狭い思いをするような感覚もあるいは若年世代との対立も生み出しかねない説明になる。
 高齢者だけではない。保育園の民営化問題も、正規保育士を入れずに臨時職員ばかり増やすのも、福祉予算が限られていますのでという説明があると誰も文句をつけられない。
変でしょう?
じゃあなぜ、近年まれに見る財政調整基金がうまれたのか?市庁舎建設基金も50億円以上後生大事に持っているようですし、佐倉市の財政は安泰ですね。という皮肉を言っても仕方ないか。
 
税金は湯水のごとく使うのは論外だが、ため込むものでもない。必要なところに必要なサービスを供給することが市長の手腕。そのチェックが議員のお仕事。
 私は財政の弾力性とかいう経常収支比率の上下をあまり問題とは思わない。仮に政策的経費が出ない100%だって、市民が「ずっと住みたいねぇ」と思ってくれるならそれでいいじゃないと思っている。
だから、民生費の増を理由に財政削減を語るのはもうやめにしてもらいたい。それってまるで「オオカミ少年?」と思えて仕方ないので。

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