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 ファシズムは少数者の抹殺からはじまる。
意見の異なるもの、多数派に与しないものをまず切り捨てる。
多くのひとは「自分とは関係ない」と無関心である。むしろ、「なぜ事を荒立てるのだ。決まったこと(多数派が決めたこと)に従えない方がおかしい。」という態度をとる。
少数派は、それだけの理由で切り捨てられる。これがファシズムの始まり。
歴史は繰り返し。人は歴史に学べない。学ぶ視点が統治者の側からの論理で貫徹されているから、学んでも単なる知識の蓄積でしかない。
 
東京都の学校現場では、「日の丸・君が代に敬意を表さない」行為、つまり「立たない」「歌わない」という意思表示が生活権さえ奪う。思想信条の自由は、学校現場にはない。管理責任者である校長の職務命令に従えと公言してはばからない。東京から全国の自治体へ思想統制は静かに深く進行している。
 
 民主主義を多数決だと勘違いさせるのも統治思想が貫徹している学校教育のなせる技か。
多数派をとることが政治を思うままに動かすというわけだ。民主主義は少数者の意見をどこまで反映させるのかが試金石だ。政治の決定場面で常に多数派内での合意によって決められていくことに危機感を覚える。
 
たとえば「障がい者」「在日コリアン」や「被差別部落民」の問題
マイノリティの存在を認めマイノリティの意見反映を確保する。
その問題を「人権擁護」や「啓発」という観念的な部分で論じている限り、多数派はなにも畏れることなどない。
マイノリティの権利として、具体化し実効性をもたせなければ民主主義など観念論に過ぎない。偽善である。
 
たとえば「いじめ」の問題
皆と同調しないもの、従えないもの、異議を唱えるもの、皆と違う何をもつものは、はじかれていく。「皆、仲良く」という「道徳」で問題の本質が隠されていく。
ファシズムは少数者の切り捨てから始まる。
世の中のありとあらゆる場面で、違うものたちを認めない流れがファシズムを生み出し、肥大させていく。
 弱いもの(世の中から排除され使い捨てられる若者)がより弱いもの(人に服従するために作られた無抵抗のロボット)を踏みつけ傷つけ破壊する。
その弱い若者に対してより弱いロボットたちが暴力をもってしかえしをする。しかも、「私憤」をもつ人間の復讐に利用され、そそのかされて暴力という手段を使う。
 しかし、主人公「アトム」とロボットを愛する人間はその仕返しを「愛」と「許し」と「自己犠牲」で止める。弱い若者は許され、より弱いロボットたちは、これで善しと納得する?
「憎しみ」や「怒り」ではなく、「愛」と「許し」で・・・。涙・・・。
 
 なんか違うなあ。
暴力で問題解決はできない。力と力のぶつかり合いでは憎しみを増すだけ。それはその通りだと思うけど・・・。それをテーマにしたかったのだろうか?
 
だとしたら、弱いものが弱いものを踏みつけにする設定から入るのだけはやめてほしかった。弱いものが差別され踏みつけられたとき怒りを持って立ち上がることは当然の権利だから。確かに暴力という手段は憎しみの連鎖を引き起こすが、怒りは正当であり、憎しみもまた当然の感情。憎しみや怒りもまた、同じ人の心の中にある感情だ。「愛」があるから「憎しみ」も生まれる。闘うことを「愛」や「許し」で止めてはいけない。闘うこともまた必然だ。
 
肝心なのは、本当に闘うべき相手がどこにあるのかではないのか?
しかし、ここでは全く伏せられている。また、なぜ、弱いものがより弱いものを踏みつけにするのか、その意味も曖昧なままだ。
 
「愛」が「憎しみ」にうち勝つという設定で「いい話だったね」で終わらせてほしくないなあと感じた次第。これじゃあ、踏みつけにされているものたちは全く救われない。
どんなに現実は厳しくても、何が変わらなくても「心に太陽、唇に歌を、希望を持って生きよう」では、何とも救いがないではないか?
どうも、素直に感動できないなあ。
  仮定の話をします。
表題のような問いかけをして、
返ってきた答えが「そりゃあ障がい者のためにつくるものでしょう。障がいのない人が障がいのある人に理解を示し思いやりをもって接することが大切、まず啓発ですよ。」と答えられたら・・・?
あなたは素直に「そうだね。その通り」と感じますか?
それとも「なんだよ。その上から目線」と憤りますか?
こんな問いかけ自体、ナンセンスと思う方もいるでしょうか。
 
私は、「障がい者計画が障がい者のためにある。障がいを理解し、障がい者に思いやりをもって接することを啓発する」とされているなら、そこに差別の視線を感じます。
障がいがあってやっかいなことやトラブルや不便なことが山ほどあります。障がいのためにできないこともあります。でも、一番つらいのは、障がいがあるからという理由であきらめさせられること、あるいはそれがその人にとっての幸せと別の誰かに決めつけられること。自分で選び取ることすら認められないことです。
あえて言わせてもらえば「障がいのない人」からの「思いやり」と「理解」は、必要ない。ほしいのは一緒に考え一緒に悩んで共に歩んでくれる仲間であり、障がいを理由にいかなるチャンスからも排除されない選択の自由だと。
 
 「障がい者権利条約」が日本でなかなか批准できない状況です。その背景はいろいろありますが、特に「障がい者は障がい者らしく生き、周りの人たちは障がいそして障がいをもつ人たちに思いやりを持って接し、理解することが大切だ」という暗黙の道徳観があるように思えます。
 
 それは特に「教育」の中で生き続ける「特殊教育の考え方」に連なっています。「障がい」を理由に、はじめから分けておいて「交流」教育を通して「思いやり」や「理解」を教えようとする「偽善」は障がいのある人とない人を区別し、やがて選別し、そして差別していくことを子どもたちの心にじわじわと植え付けているとしか思えません。
 
「障がい者計画」は、障がいのない人が障がいのある人とともに生きるために何が必要なのかをともに考えるための計画であってほしいと思います。その前提として「障がいを理由にあらゆる場において分けないこと」−ここが計画の方向性を決めるターニングポイントと思います。
 

 今回の議会に意見書を2本提出した。一つは生活保護の母子加算の早期復活を求めることと父子家庭への児童扶養手当の支給を求める内容、もう一つは新たな在留管理制度(管理強化と自治事務への越権行為にあたる)と外国人登録制度に関する内容。

 でも、実はもう一本出すかどうか迷いながら結局出せなかった意見書がある。
「臓器移植法の改正に関する意見書」だ。
命の終わりを家族が決めることに関わる法律を拙速に決めないでほしい、慎重に議論してほしいし、国民の意見を聞いてほしいという内容の意見書を書き上げて結局提出できなかった。

 なぜ出せなかったのか?
それは、私自身がかつて移植以外に助からない子と出会い、渡航のための募金活動をしたことがあるからだ。つまり、国内で移植を待つ患者家族の気持ちを当事者とごく近い立場で共有していたから。
生きたいと願う子どもや生きるための方法があるのならそれにかけたいという親の切ない思いを知っているから。

 なのになぜ拙速な判断をするなと意見書を書いたのか?
それは、小児救急の現場をわが子の経験を通して知っているから。
命の終わりを親が決めることくらい残酷なことはない。親は、子が瀕死の状態にあるとき、自分の命と引き替えてこの子を助けてと願う。
命の終わりはいつなのか、移植のために法律で決めていいのか?
脳死に至る子はほとんどの場合は突然の事故だ。さっきまで元気な子が突然、死を宣告される。
しかも、機械で呼吸が保たれているとはいえ、手も足も温かく眠っているようにしか見えない。どうして、臓器提供のために機械を止める、つまり、我が子の死の時を決定する事ができるだろうか?
 
 治療が尽くされ、親がその死を受け止めるまでは相当な時間がいることだろう。しかし、今回のA案は「脳死は人の死」「本人の承諾が無くても移植は可」という内容だ。

 移植は治療とは言えない。それはあくまで緊急避難的な一時的治療と押さえてほしい。
 少なくとも心臓外科においては、複雑な刺激伝統系や心筋が入り組む心臓の内部を神の手技とも言える正確さで直していくその技術的な進歩とさらに、身体への負荷をできるだけ押さえた人工心臓の改良をもっと進めるためにこそ予算をかけ医師の育成を計ってほしいと思う。小児救急の現場にも多くの予算と人的な配置が必要だ。それがあっての最後の手段としての移植でなければならない。
 命の重さに差はない。どんな状態でも人は生きているそれだけで価値があるのだから。
何を人の死とするのか誰がそれを決めるのか、根幹に関わる議論が足りなすぎる。

 NPO法人木ようの家第7期総会が今日行われた。

NPOを立ち上げて7年がたったのかと改めて歳月を感じた。
活動の広がりは、様々な分野の人たちとのつながりへと広がり、今年は、いよいよ千葉大学との共同プロジェクト「障害のある人とのシェア居住」「グループホームではない多様な暮らし方」を実現するためのモデル事業へとふみだす予定だ。
そのプロジェクトについては後日改めてブログで紹介したい。

今回は総会後に行った学習会について書きたい。
「障害のある人にとっての裁判員制度」について「市民の法律事務所」及川智志弁護士を講師に学習会を行った。今月21日にスタートした裁判員制度だが、たくさんの課題や制度の不備、あるいは憲法違反とも言える人権侵害等が内包されていることを改めて認識した。

 参加したくない権利すら認められず、無理矢理義務として課せられることも大きな問題だが、障害者の参加は始めから裁判官や弁護士の「忌避」という方法によって実質的に排除されかねない。つまり、国連の障害者権利条約にも謳われている「合理的配慮」は想定されていないと言うことが明らかになった。
 千葉県地裁では車いす等のハード面でのバリアフリーは建物の改築で行ったらしいが、肝心の視覚障害の方への点字による調書の解読や証拠写真等の視覚的証拠品の理解に対する配慮、聴覚障害の方への速記を介した読み取り機の導入による同時進行の議論の参加も行う予定はなく、まして知的や精神の方は始めから想定外の対応のようだ。

 守秘義務が終生にわたってかけられ破ったら刑罰が科せられる。裁判の課程で見たくもない証拠品時には残酷な現場写真等を見せられたためにかりにPTSDになってもおそらく立証が難しいから保障されることはないだろうとのこと。
 ちなみに裁判所へ招集されて嫌と拒否したときは10万円以下の科料。(つまり罰金)
この裁判員制度に非常に似ているのは、フランスで1941年ナチスの傀儡政権時代につくられた参審制という制度とのこと。
人権侵害といい、始めから障害者を排除する差別的な制度といい、ナチス傀儡政権時代の制度に似ている・・・という説明は恐ろしくも妙に納得させられた。

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