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 改めてこんな表現をしなければならないということ自体がおかしいと思う。
 障がいがあるから働けないという状況こそ間違っていると思う。

 でも、「障がいの重い人が働いて対価(賃金)を得たいというのはどういうことかわからない」「働かせたいと親が望んでいるだけで障がい者本人が本当に望んでいるのか?」「障がいの軽い人を優先して働かせることが問題のようにあなた達は言っているが、資本主義社会では、働く能力に応じて、対価が与えられるから何が問題なのか」等・・・
 「重度知的障がいの方が地域で働くことについてその意味がわからない」という質問をもらったので、考えをまとめたいと思う。

 「疎外された労働」という概念がある。何から疎外されているのか?
「働くことの本来の意味」からだ。働くこと=つらいこと、苦しいこと、でも生活費を稼ぐためにしなければならない義務という状況下に資本主義社会に生きる私たちは置かれている。
ワーキングプアは、何が一番つらいことかと言えば、低賃金だけではない。それ以上に単なる労働力として単なる物として扱われ、いらなくなったいつでも捨てられていくことの疎外感。生きている意味すら否定されるに等しい疎外感が問題なのだと思う。
本来、「働くことは生きること」そのものであったし、働くということを通して人は価値を生み出してきた。人と人とのつながりもそこから生まれてきた。そこからの疎外 つまり、社会からの疎外。
働くことは社会とつながることであり、人間は社会の中でしか生きられない。
「働くことの本来の意味」とは「社会の中で社会の一員として生きること」ではなかったか?

 働く能力がないものは働く必要がないという論理は、あなたは資本主義社会でまともな労働力にならないから働かなくていいといわれていることにならないか?それは、生きていても構わないけど、社会の中で必要のない人という論理にならないか?
 
 「障がいの重い人ほど働く場と就労支援を」という私たちの運動は、上記の論理を逆転させた発想だ。

 どんなに障がいが重くとも共に働き共に暮らせるシステムをつくる。それは、障がいのない人にとっても生きやすい社会のはずだ。
障がい者が働くことは働ける社会のシステムをつくるということだ。
そのシステムをつくるためには、これまで疎外されてきた「働くことの本来の意味」が問い直される。
単に対価を得ることだけではない。働くことで生み出される人と人との関係性の再構築。
人間を単なる労働力としてみなす資本の論理へのアンチテーゼ。
理想論と言われればそれまでだ。
でも、きっとこのアンチテーゼを実感する人たちはいるはずだ。あえて言えば、使い捨ての労働力ではない働き方を求めていくこと、それが障がい者が働いていくことの意味だと思う。

 

Nothing about us, without us!

 12月議会の一般質問を一気に書き上げて、散らばった書類に目をやると
「Nothing about us, without us!」という言葉が飛び込んできた。DPIの機関誌の一文。
国連で今年9月に日本の高村外務大臣が「障害者の権利に関する条約」に署名したがそのことに関してのこれからの運動が書かれていた。

「私たち抜きに私たちのことを決めるな!」というきっぱりとした宣言は、障がい当事者にとって、命をかけた心の叫びだ。大げさでも何でもない。本当に命がかかっている。

 ASLという進行性の難病がある。今、この病気の終末期に人工呼吸器を装着するか否かを事前に本人に書面で残してもらいたいという運きがあるらしい。
 もともとは欧米の「尊厳死」運動の中で出てきたらしいが、日本でもじわじわと「事前指示書」という形で普及しているという。
 私は、この動きが大変危険な方向に持っていかれそうな気がしてならない。
後期高齢者医療制度も含めて、今、日本の医療は、「医療を受ける価値」を年齢や障害の程度で決めようとしているのではないか?
もし、署名通り終末期の障がい者に延命装置をせずに亡くなれば将来にわたって多額の介護費用と治療費が節約出来ると考えられているのではないか?
あたかも本人の意志のように言われているが、果たしてそうなのか?後期高齢者の医療制度そして、障害者自立支援法の強引な適用を見る限りでは、この疑問はそう外れてはいないと思う。
生きる価値をかってに決められてはたまらない。
Nothing about us, without us!
どんなに重い障害があっても、生きていることそのものに意味がある。あなたはあなたのままでそのままでいいということを前提にしなければ、「優生思想」はじわじわと私たちの生活に浸透していくだろう。

 ミレニアムセンターで、遺伝子組み換え作物の問題と青森県六ヶ所村で稼働予定の原発再処理工場の問題の学習会があった。一見、関係のない2つの問題だが、実はつながっている。国際的なグローバリズムの中で、私たちの生活が丸ごと脅かされる、いや今を生きている私たちだけではなく、これから生まれる子どもたち全ての生存権を脅かす「パンドラの箱」だということだ。
 遺伝子は、種を超えては交わらない、しかし、力づくでまじあわせる。例えばウィルスに感染させて送り込む、電気ショックで遺伝子そのものを破壊して別な遺伝子をぶっつけるそんな荒技で偶然交わることに成功した遺伝子組み換え作物を培養するというのが今の製造方法。
 例えばある種の除草剤に耐性のある微生物の遺伝子と大豆の遺伝子を強引に交わらせ(その成功率は1万分の1という)除草剤耐性大豆を作る。除草剤のメーカーがそのスポンサーだ。多く出回っているのは「ラウンドアップ」(モンサント社製造)耐性大豆らしい。モンサントといえば、ベトナム戦争の枯れ葉剤を作った会社だ。その大豆だが、アメリカ産の86%は既に遺伝子組み換えらしい。それを輸入しているお得意先は日本。家畜の肥料であったり、味噌などの加工品の原料だったり・・・。知らず知らずのうちに私たちの体内に、得体の知れない食物(微生物との遺伝子組み換え入り?)が入っている。
 これが人体や自然の生態系にどう影響するのかは全く予想が付かない。今まさに人類は人体実験を同時進行で行っている。
そして、驚くべき事に、遺伝子組み換え作物が自然に優しい(?)バイオエネルギーとして売り出されている。高く売れる商品作物としてどんどん作られているらしい。これまで、小麦畑だったところも遺伝子組み換えとうもろこしや遺伝子組み換えナタネに植え替えられている。その結果、小麦は希少価値となり高騰、日本のパン業界は値上げをせざるを得ないという事態にもなっている。
 同時に、放射能を空に海にところ構わず放出する再処理工場。来年2月に青森県六ヶ所村で本格稼働が予定されている。原発の何十倍も危険とされる。再処理で生み出されるプルトニウムは使い道がなく、まして原子爆弾の材料となれば、青森一帯は北朝鮮の比ではない危険地帯と化す。すでに、イギリスやフランスでは、周辺に白血病の患者が(特に子ども)頻発し、稼働が差し止めされる状況にある。現在の人類の能力では、制御不可能な2つの技術(遺伝子組み換え・原子力発電とその再処理)は、先に記したようにまさにパンドラの箱、私たちはあともどりができない破滅へ近づいていくことになる。
どうやって止められるのか?人類の生存権に関わる問題だ。
12月議会では、今回の学習会の呼びかけ人である生活クラブの方達が、「六ヶ所村再処理工場の本格稼働差し止めを求める意見書提出の請願」を出す準備を進めている。
私たちのできるところから、声をあげていくしかない。

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