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国の(民主党の)交付金政策は全く一貫性がない。
縦割り行政から横断的で柔軟性のある使い道をと銘打って「社会資本整備総合交付金」を国交省が出したかと思いきや一方で国が勝手に使い道をきめて、しかも、国から地方に降りて事業化するまでのタイムラグを無視してのばらまき交付金を連発。
 
先々の雇用の安定など度外視の緊急雇用施策、「きめ細かな交付金」とか「光を注ぐ交付金」とか訳のわからない名前も出てくる。子育て支援は基盤整備としての保育園建設が急がれるのに、個人へばらまく「子ども手当」でお茶を濁す。月2万円貰っても、ベビーシッターなんて雇えない。それよりも安心して働き続けられる保育環境整備が急務の課題。
 
佐倉市は「もらえる交付金なら使いましょう」と緊急雇用で非正規教員(幼稚園教員も含む)の増を図った。1年ないし2年で現場からいなくなる教員を生み出して現場や子どもたちはえらい迷惑だ。教育は、信頼関係なしでは成り立たない。忙しいから猫の手も借りたいみたいな考えで雇っても「交付金の切れ目が雇用の切れ目」になっては何のための教員増なのか?
 
現場で教員が足りないのは恒常的な問題であり、教員の増は、一過性の交付金で賄うべきではない。国は責任を持って国庫補助をつけ、県職員である義務教育の教員は県費で雇われるべき。市町村自治体も栄養士や事務職、用務員や給食調理員は、安上がりの業務委託で賄おうとせずに責任を持って直接雇用すべきだ。
 
至る所で安上がりの人件費で仕事を賄い、責任を持って安定して仕事に取り組める専門職がいなくなっている。雇用劣化が進む。それは、一時的に財政を潤わせるが長いスパンで見たときに現場スキルは低下する。安全や安心が至るところでほころびている。
 
政治の役割は、富の再配分と社会の安定にあるはずだ。セーフティネットがずたずたになっている時に、一時的に金を渡されても焼け石に水。税金をばらまくのではなく、必要なところに有効な使い方を考える政策こそ求められている。
 
 当委員会における「特別支援教育の充実が『障がい者権利条約』で謳うところのインクルーシブ教育への道筋」という基本的な捉え方に反対する。
「特別支援教育」から「インクルーシブ教育」への早急な転換を学校現場で実現しそのための施設設備の充実、教職員の研修と加配をすすめるべきである。
 
障がいをもつ子どもたちを能力別に分けて育てる「特別支援教育」と障がいを理由に分けられないこと共にあることを原則としその上で合理的な配慮のもとに教育が行われる事をめざす「インクルーシブ教育」は根本的に違う。
北欧のノーマライゼーションの考え方を学び踏襲し、社会福祉の構造そのものを組み替えていく事が少子高齢社会において日本が持続可能な体制を維持する必須条件である。障がいのある人が社会の中で共に生きていける社会を築き上げることは高齢者も、さらに今後増加するであろう外国籍の方たちも含めて多様なニーズを必要とする人たちの共生社会実現の試金石である。
 
教育の場で分けておいて、後から共に生きるため地域や職場で相互理解をというのは現実的ではない。障がいをもつ子の側からの問題よりも障がいを持たない子にとっての問題のほうが遙かに大きい。文部科学省が今後の日本の教育を日本の社会保障制度全体の枠組みから俯瞰的に捉え、さらに学校現場においてどのような役割と方向性を持つべきか判断してもらいたい。
特別支援教育課だけでこの問題を捉えていれば自らの仕事を否定する結論など生まれないのは当たり前。もっと大局的に物事を判断する問題として、インクルーシブ教育の方向性を捉えられる部署で議論すべき課題である。  以上
  私が参加しているメーリングリストのキャッチフレーズ。
今日はうれしいニュースが入ってきた。
最近は暗い話題が多かったからなあ・・・。
中日新聞の朝刊社会欄に載っていた。インクーシブ教育へ向けての第一歩。
 
中日新聞 P37 社会12版2010年12月4日(土)
[見出し]障害児の希望尊重へ 普通学校への進学 中教審が改正確認
[本文] 
 障害がある子どもについて議論している中央審特別委員会は3日、障害の程度が一定以上の場合は原則、特別支援学校に進む現在の仕組みから、本人や保護者が希望すれば、できるだけ普通学校に進めるよう改めることを確認した。
 特別委は今年度中に審議を取りまとめ、政府の「障がい者制度改革推進会議」に報告する。同会議で検討が進む障害者基本法の改正を経た後、文部科学省も特別支援学校の就学基準などを規定している学校教育施行令などの関係法令の改正を目指す。
 特別委の議論では、障害のある子どもとない子どもが共に学ぶことは共生社会の形成に向けて意義があるとの意見が大勢を占め、就学先の決定では、障害の状態や本人と保護者の意見に加え、専門家の意見、学校の状況を総合的に判断するのが適当とした。
 最終的には市町村教育委員会が決めるが、本人と保護者の意見をできるだけ尊重することを求め、保護者と教委の意見が一致しない場合の調整の仕組みも検討が必要としている。
 障害のある子を受け入れる場合、エレベーターなどの設備や専門的な教員が必要となるため、今後、環境整備の方法や教員の確保策を検討する。(本文のまま)
 
考えてみれば当たり前のこと。一緒に育ち一緒に学ぶ中から、互いを理解する気持ちや助け合う方法も生まれてくる。分けておいて、後から、つまり学齢期を終えてから、「さあ、ノーマライゼーションですよ。一緒に働きましょう、暮らしましょう」って、そりゃ無謀な話です。
 
こんなことを言うと、「障がいに応じた支援を否定している」と反論する極論者がいるが、「障がいに応じた支援もその治療や訓練も必要だからこそ、一緒にいる時間と空間は分けちゃいけない」一緒にいることを当たり前として、そのためにできることをお互いに探って行かなくちゃ。「障がいをもつ子」を特別な存在ではなく、一緒に育ちあう仲間として共にいることで、訓練も治療も活きてくる。
訓練のための訓練、治療だけに明け暮れて、子どもとして育ちあう事を奪われた子ほど哀しい子はいないのですよ。我が子の経験からの実感です。
文科省の「インクルーシブ教育に関しての意見募集」へ下記の内容で投稿をした。
 
インクルーシブ(=障がいの有無に関わりなく共に学び育ち合う)教育は、「教育」だけの問題ではなく、「少子高齢化社会」の進展の中で「共助」=支え合い共に暮らす地域社会の構築に叶う方向性だと思う。
北欧で「ノーマライゼーション」が広まった背景は、高齢化の進展あるいは他民族共生国家の維持発展に向け、多様な人たちが互いの理解と共感によって地域社会を作ることが必要だという考え方があった。その基礎を「教育」と捉え、幼少の頃から障がいを持つ人たちと共に育ち学び合いごく自然に相互理解を深めるために「インクルーシブ」教育も実践されてきた。
 もちろん「子どもの権利条約」あるいは「障害者権利条約」の基本的人権として、当事者運動の側から提起される「差別されない=分けられない」「合理的配慮を受ける権利」という位置づけの「共に育つ教育」という考えは基本にある。
しかし一方、政策的な方向として考えたとき、インクルーシブ教育がもたらす効果は、日本の社会福祉構造全体にとって必ずプラスになっていくはずである。
 インクルーシブは、「障がいを持つ子にとってのあるべき教育」というよりはむしろ「障がいを持たない子にとっての必要不可欠な教育」であり、その実現に向け施設整備や人的配置の増を行うことが、「安心安全な福祉社会の実現」に取り組む国の責務ではないかと考える。
 6月5日午後2時から佐倉市美術館を会場に「子どもたちの生きづらさ」を考える集会を企画している。
いじめ・不登校・引きこもりといった学校生活の中で傷つく子どもたちが増えている。
 最近はその原因に親の失業や離婚といった子どもにはどうしようもない事から貧困に陥り、結果として学校からドロップアウトしていく子どもたちもいる。前日の夕食も朝食も取らずに登校する小学生、学費だけでなく生活費もバイトで稼ぐ高校生も増えている。
 
 日本は経済大国だと言うが、その実態はどうだろう?
佐倉市の例で言えば、今回の議会で「奨学金制度」条例の廃止が出されている。
国が高校授業料の無償化を行ったので佐倉市は授業料相当額の支給をしていた奨学金を取りやめるという。
国が高校の授業料を無償化したのは別に困窮世帯への奨学資金援助ではない。所得に関係なくおしなべて高等教育底上げのためのまさに教育施策の一貫だ。
それを二重の援助になるからという全く別な論理にすり替えて奨学資金条例を廃止することはとんでもない便乗福祉切り下げ施策だと思う。
 
 集会の案内に戻すが、「子どもたちの生きづらさ」は単に経済的な事情だけではなく、もっと深く、解決がやっかいな問題あるように思う。
いじめは、集団の意図する行動とは異質な存在を押さえ込み排除する力学が働いて起こっている。
「いじめられる側にも問題がある」という言い方は、排除され苦しむ子どもの心の傷口にさらに塩を塗り込むような言葉となる。ありのままの自分を認められてこそ人は次への成長のステップへ歩み出すことができる。
大人ですらそうなのだから、子どもにとって認められること、条件付ではなく、そのままに入れられることがなにより大事なことなのだ。
 それが最近、特に経済格差と貧困そして、負け組にならないために競争が強いられる社会では、相手を受け入れるという余裕がなくなってきている。子どもたちは何時の時代も社会を映す鏡の役割をもっている。社会全体が、閉塞的になっていることから、ますます「生きづらさ」が蔓延している。
 
 6月5日の集会はそんな観点から、当事者やその親や学校の教員に是非来てもらいたいと思っている。講師は千葉大学の片岡洋子先生。学校現場での子どもの生活や育ちを研究されている方だ。お話を聞いた上で会場の皆さんとも話し合いの時間をとりたいと思う。
 

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