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 教育問題を考える某メーリングリストから、先日の高裁判決の要旨が送られてきた。

「本件不起立行為は、控訴人らにとっては、その思想及び良心に基づく行為であるが、一般的には、それらの思想ないし良心そのものと不可分に結びつくものではなく、職務命令に基づき他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国家を斉唱するという外部行為を求めることが、直ちにその思想及び良心自体を否定することになるものではない。」

「他の参加者とともに国旗に向かって起立し、国家を斉唱するという外部的行為を求めることが、国旗及び国家に関する多数な思想のうちの特定の思想を有することを外部的に表明させることにはならず、特定の思想を強制又は禁止し、特定の思想の有無について告白を強要するものでもないから、憲法19条に反しない。」

という内容だ。これを読んで、暗澹たる思いにかられた。
裁判官ってもっと論理的な思考ができる人たちがなるものだと思っていたのは私の幻想?

 不起立は思想および良心に基づく行為−しかし、一般的には不可分に結びつかないってどういうこと?
思想良心の自由に一般的という非論理的なファクターがどうしてかかるの?
しかも、それが一般的かどうかという判断基準は何に基づくの?

 裁判官さん、あえて「釈迦に説法」をさせてもらえば、思想良心の自由に基づく行為が制限されるとすれば他人の自由権の侵害もしくは他人の幸福追求権の侵害、もしくは公共の福祉に反する行為以外ないんじゃないですか?

 その上、さらに驚いたのは、「職務命令」の強制力を「思想良心の自由」より重んじたこと。
職務命令なら、思想良心に基づく行為も規制の対象になる?ってどういうこと?
不起立は自由だけど、不起立することは一般的じゃないから、職務命令で一般的なこと(起立して君が代を歌うこと)を求めるのは思想良心の自由を侵さないって?信じられない論理なんですけど。

原告団は最高裁に上告するということだけど、裁判官にこそ、「自らの思想良心にのみ従って」判決を出してもらいたい。

 「保育園の在り方検討会」が行われた。今回で5回目になる。昨年の3月にスタートしたが、今回、はっきりと「保育園の民営化の検討」という方向性を子育て支援課は議題に掲げ議論の遡上に乗せた。これまでも、「民営化ありき」をベースにして資料は用意されていたが、執行部から方向性をはっきりと打ち出すと風当たりが強いので、「検討会が自らそういう方向を選択しました」という形にしたいという意図がありありと見受けられた。

 これまで議会答弁でも、「民営化についてはまだ、検討中。在り方検討会で審議中」と自らの責任で方向を決めるスタンスは取らずに市民の陰に隠れて「民営化」が皆さんの意向ですから言わせるよう逃げの姿勢がありありだった。参加委員の皆さんもそんな市の本音を知っていて「民営化へもっていく理由付けを考えるんでしょうか」という話すらでてくる状況。

 この議論の中で残念ながら「子育ての公的責任」について触れられることがなかった。
 交わされる意見は、「公設」と「民間」の違いはそれほどない。子どもは順応性があるから。果ては財政的に苦しいから民営化するしかないでしょう。という財政の問題にすり替わっていく・・・。
 資料で国の保育園建設費や公設保育園運営費の国庫負担の一般財源化について触れていて、あたかも公設公営の保育園運営が市の財政に相当の負担であるかのような印象を与え、なにか、民営化をしなければ今にも佐倉市が財政再建団体にでもなるかのような錯覚すら与えている。

 とんでもない話!!
 確かに、国の方向は民主党になっても変わらず(もしかすると自公以上かも)規制緩和と官から民への方向は修正していない。郵政民営化だけは、連立与党国民新党のたっての求めで修正がかけられたが、他はむしろ事業仕分けに見られるように官の責任、公的責任についてできるだけ縮小していく方向がありありだ。だからこそ、今私たちはきちんと「公」の責任について議論しなければならないはずだ。
はっきり言えるのは、保育園を民営化しなければ佐倉市財政がひっくり返ることは絶対にない、財政論で仕方ないと思考停止してはいけない。

 「子育ての公的責任」について、個人にお金をばらまいて、サービスを自由に選んで買ってくださいという民主党の子育て支援策は、政府による富の再配分、人権保障や社会保障という方向を180度変えるいわば「公的責任のサボタージュ」である。

 今問われているのは子育てのセーフティネットをいかに強化していくかだろう。虐待を受けた子や様々な社会的ハンディをもつ家庭や子どもたちに平等に子育て支援を提供出来るシステムの再構築だ。障がいを持つ子が共に育ちあうことも将来の共生社会の実現に大きな礎となる。

 保育園で働く保育士さんの労働条件も今後の若年層の働き方としてとても大切な視点だ。「効率や採算性の良い保育では民間がいい」と言い方は、見方を転じるといかに安く保育士を雇うかという事と同一だからだ。保育という公的な仕事の現場でワーキングプアを生み出してはいけない。

 「子育ての公的責任」についてもう一度、特に保育現場を知る人は、その大切さについて考えてほしいと思う。

 某新聞の教育特集に目がとまった。佐賀県の公立中学校でトイレに「LOVE」などという相合い傘の落書きが見つかり、学校側は犯人捜しのために匿名でアンケート、さらに、目撃生徒を現場まで連れて行き指導を繰り返し、該当の生徒を絞り込んで認めさせたようだ。その直後、認めた女生徒は2階の窓を乗り越えて転落、けがで入院という事件が発生した。
 新聞記事を読みながら、教員達の対応や生徒の反応が目に浮かんだ。
 信じられない、なぜこんな指導(指導という言葉すら使いたくないが)を教員の誰もがおかしいと言わなかったのかという気持と同時にここまで学校が子どもに対して許容の幅を持たない、奥行きのない場となってしまったのかと愕然とした。

 「落書き」がいけないことなんて中学生は誰も知っている。知っていてあえてしたのはなぜか?
おもしろ半分?反抗?憂さ晴らし?「指導」というのなら、あえて落書きをする子どもの心に寄り添うべきじゃないのか?
 まして思春期の入り口に立った生徒を「犯罪に対する罰」的なやり方で犯人捜しをする「指導」の底の浅さ。

 「落書きは小さな事かも知れないが積み重なると学校全体が落ち着かなくなる」「指導は間違っていなかった」というのが学校側の言い分。
 「評論家的な正論を吐くな」とどこからか批判が聞こえてきそうだが、あえて言わせてもらえば「落書き」すらも許されない管理と監視の状況で息が詰まりそうな学校は、落ち着いた学校ではなく子どものエネルギーを押し殺した学校ではないのか?と。

 生徒達は、成長するエネルギーを時にもてあまし、時にセーブ出来ずにたくさん間違いを引き起こす。いろいろな子がいていろいろなトラブルが起きて間違いを積み重ねながら成長するのが学校のはず。教員はそのたびに振り回されて本当に大変だが、それが教員の教員たる醍醐味ではないのか?
もっとも、教員の待遇も年々ひどくなり(非正規の教員も増やされ)、精神的な余裕もなく、日々の仕事に追い立てられている現実があることもわかっているが。
 
「教室は間違うところだ。」「みんな違ってみんないい。」というフレーズがよく教室の壁に貼られているが言葉だけで中身が伴わないことがいかに多いことか。
生徒の間違いを断罪するのではなく、まるごと受け止めながら、あるべき道に生徒自らが歩んでいけるように導くだけの懐の深さを学校はもってほしいと願う。

 19日20日と2日間に渡り、「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の全国交流集会に参加した。
6分科会に分かれていたが私は「原則統合をめざして」という分科会に両日参加した。
 インクルーシブ教育推進ネットの南舘さんからは、「障害者権利条約の批准の前に国内法整備を」東松山市の曽根さんから「就学支援委員会の廃止と自立と共生のまちづくり」というタイトルでそれぞれ報告を受けた後に話し合いが2日間にわたって行われた。

 今から20数年前、私は教員としてスタートした「障害児学級」で原則統合の理念をベースにした「全面交流」という教育実践を行ったことがある。そのときから4半世紀たっても日本ではいまだ分離別学の体制は揺るがず続いている。運動が広がりをもてずにいる。この運動はいまだ、日本中どこでも圧倒的少数派なのだ。なぜだろう。それを考えたくて今回参加した。

 東松山市の実践報告は、そういう点では運動の広がりと展望がうまれるような方向性があると思った。共に学ぶ=インクルーシブ教育の問題を福祉のまちづくり=人権尊重のまちづくりの視点から捉え返してえくという方向性の確認であり具体的な実践の報告だった。とても参考になった。

 広がりや普遍性がもてなかった原因の一端として、これまで、教育の問題を教育の枠組の中でなんとか変えようとすることに重点が置かれすぎていなかっただろうか?と。「共に学ぶ共に育つ」ということは、何も障がいの子にとってそれがいいからではない。社会にとってそれが必要だからなのだ。障がいの子にとっていい教育をという発想では「特別支援教育」によるきめ細かな個別の支援をという方向にならざるをえない。それはおかしい!!

 では、すべての子にとっていい教育を限られた財源の中でどう構築するかという問題の建て方をしてみよう。特別支援の特別は子どもの側の特別じゃない、どの子にもどの場面にも特別な支援は必要な時があるという発想だ。
 障がい児への個別の支援と手厚い保護ということで、箱ものの養護学校がどんどん作られ、教員も配置される。今や養護学校の一人の生徒にかけられる税金は800万円を超えているという。一方で40人の詰め込み学級で一人のこどもたちにかけられる教育費は約70万円。この落差なんなのだ!?
 もし、全ての障がいの子が地域の普通学級に通い、必要であれば加配教員や介助員や看護師を配置するとすれば、障がいの子に限らず、すべてのこどもたちによりきめ細かな対応が可能ではないか?
例えば、養護学校では、必ずスクールバスがあるが、地方の過疎地で公共交通機関が乏しいところで循環スクールバスにして、地域の子どもたちも乗れるようにすればどうだろうか?

 問題の建て方を別な視点で捉え返すと分離教育のおかしさがより多くの人に「普遍性」をもって認識されるのではないだろうか?

 障がい児が通常学級にいることを特別な支援として括るのではなく、当たり前の支援として受け止めていくことは同時に、どんな子もクラスの一員として大切にされることになるだろう。
障がい児と共に学んだ経験のない子は大事な教育の機会を与えられなかったことになる。
少子高齢化社会の新たな福祉ビジョンが共助を軸として求められるのなら、共助が当たり前のこととして教育されることが必要なのは自明の理ではないだろうか?

 千葉県教育委員会主催のタウンミーティングが白銀小学校で行われた。白銀小学校は市内で唯一の「地域立」の学校として、地域との連携が謳われ学校開放委員会など地域の住民と教員が文化祭や運動会、体験学習、環境整備等々、様々な場面で協力し合い取り組みを行っている。開校から6年が経ったが後に続く学校がなかなか現れないのは、「学校」のやる気の問題だけではすまされない要素がある。

 会の中で印旛村「いにはの小学校」の地域コーディネーターによる地域ボランティアと学校との橋渡しの取り組みと課題について報告された。まさにここに広がらないことの本質的な課題が提起されていたと思う。

 いにはの小学校側は「教員が子どもと向き合う時間がほしい。地域のかたにお手伝いしてほしい。」という思いを語っていた。正直な学校長だなと思う。
 一方白銀小学校だけでなく、佐倉市内の学校長や教育関係者はむしろ「地域の人材が関わってくれることで生徒の体験が広がり授業が活きる」「部活での専門的な指導がありがたい」という話が多かった。
しかし、実際に地域との細かな打ち合わせ、まして日常の授業に取り入れるとなると相当な時間とエネルギーを教員は割いているのではないだろうか。
「子どもと向き合う時間が確保される」どころかこの取り組みは広がれば広がるほど教員への過重労働、しかも時間外休日などお構いなしの教員の仕事熱心度判定基準になりそうな取り組みである。

 もし、この取り組みを広範囲に広め、ある程度の効果も期待したいのなら「地域コーディネーター」をしっかり予算化して配置し、教員の側にも校務分掌として位置づける事が大前提だと思う。

 ボランティアの学校への献身的な奉仕の心に寄りかかり、その思いに報い、かつ授業実践に活かすことを求められる教員の側の同じく無償労働を前提にして広げていこうとする県教育委員会の「虫のいい」提案に驚いてしまった。

 「学校」はあれこれ地域におもねることなどしなくていいから、じっくりと子どもたちと向き合い、こどもたちのそれぞれの状況や発達段階に応じた日々の学習をこそ大切にしてほしい。それが学校の役割だ。
地域のことは地域の側が考えることで、本当に地域力を教育現場に活かしたいのなら、そのための予算措置をきちんとおこなうことが教育委員会の役割のはずだ。地域の人にも現場の教員にも無償の労働力提供を求め、「きれいな言葉」で代償行為を飾ってみても続いていかないし広がりもしない。
「教員はどこまで頑張るの?」と話を聞きながらつくづく感じた。過労死や精神疾患がこれ以上増えないことを祈りつつ・・・。

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