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 四街道文化センターで行われた上記のタウンミーティング。
サブタイトルが障害のある人もない人もみんなの声で新たな計画をつくろうというもの。

 そういいながら、中身は「障害」のある人の生まれてから死ぬまでの生活・余暇・就労に至るすべてにわたって計画に基づいた連続的な支援をするというちょっとこわい代物。
 人生のありようをなぜ「障害」をもっているからということで、誰かに計画立てられ、しかも生涯にわたってつきまとわれ、あなたにとってよかれということをしているのよと支援もしくは福祉という名で与えられるのか?早期発見、早期療育、学齢期になっては特別支援教育、地域生活では常に生活を誰かにマネジメントされる。
 私だったら、耐えられない。もし、あなただったら、耐えられますか?

 確かに24時間介護が必要な人がいるだろう。確かに24時間見守りが必要な人もいるだろう。
でも、だからこそ、乳幼児期から分けることなく共に育ちあう環境が必要であり、「できないことは手伝ってなおかつ平等」という感性を障害のあるなしに関わらず感覚として身につけていくことが大切なのではないか。 ところがこの計画にはノーマライゼーションもユニバーサルデザインもインクルーシブ教育もジョブコーチにも触れられてはいない。

 障害特性に応じた支援が必要なのではなく、Aさんという個人に応じた支援が必要なのだ。それはAさん個人に障害があるなしは関係ない。障害者のAさんではなく、Aさんという人が持つ困難への合理的配慮がないために起こる障害へどう支援するかという考え方。
BさんにもCさんにも同じ事が言える。この発想の転換が、世界では既に80年代から進んできていた。
つまり「障害」とはその人の機能とか欠損とかその人固有の問題としてだけではなく、社会との関係において生じてくるのだというとらえ方。

その考え方の根底に、誰かに人生行路をきめられるなんてまっぴらごめん。
生きたいように生きる。それは障害のあるなしに関係なく全ての人に与えられる基本的人権だからという思想がある。この考えに基づいた「障害者権利条約」が今年5月3日に国連で発効された。日本も署名しているはずなのに・・・・。結果がこれ?ポイントはそこじゃないだろうというのが今日の感想。

 
 

 京成佐倉駅南口の上りの一方通行の入り口付近で7月に入って立て続けに交通事故が起きた。
そのうちの一件は死亡事故だった。
 先日、所属するランニングクラブの会員の方から、「子どもたちが毎日登下校するところなのに、交通安全対策ができていない」という話があり、すぐに担当課に問い合わせ事故状況を聞いた。

 私もよく通る道なので、現場は知っていたが、改めて調べるといろいろと問題が見えてきた。
 まず、歩道がないに等しく、店の軒先が一方通行の道路沿いぎりぎりの所にあるので、右左折する車に接触しかねない。歩行者と車道を明確に分けるために、ガードレールもしくは鉄製のポールを建てる必要があることが分かった。
 さらに信号が時差式であり、一方通行に右折車を逃すために、296号の佐倉方面へ向かう車を先に赤でストップさせているが、車が止まったということで、歩行者が勘違いして、渡りはじめる危険がある。時差式は、何処でも見られるが、ここの信号は、赤信号にかわってから誘導矢印が点灯するタイプではないので、成田方面へ向かう車は、通常の青信号と同様に突っ込んでいく。勘違いして飛び出した歩行者をはねてしまう危険性が高い。信号機の改良が必要であることも分かった。

 地元の自治会からは、既にガードレールもしくはポールの設置要望があがっているとのことで、8月1日に警察と設置担当課の道路維持課が現場確認をすることになっている。
信号機については、話を持ってきてくれたランニングクラブの方と連名で要望書をあげて市を通して佐倉警察署にあげてもらうことにした。

 最近、子どもたちの登下校で不審者対策が盛んにおこなわれているが、この佐倉では、不審者の何十倍も交通事故対策が必要だと思う。ガードボランティアもいいが、身近な通学路の道路整備にこそ関心とお金を向ける必要があるのではないのか?

 佐倉ミレニアムセンターで、犬山市教育委員であり、名古屋大学教授の中嶋哲彦氏を招いての学習会を行った。雨の日曜日なので、参加者は50名程度ではあったけど、内容の濃いわかりやすい話だった。

 犬山市は全国で唯一「全国学力・学習状況調査」に不参加の自治体。その不参加決定を行った教育委員の一人である氏は、大学の教育行政学の教師でもあり、近年の教育行政の変遷、特に1996年の「ゆとり教育」からの学習指導要領の変更に至る流れについて明快な説明をしてくれた。

 96年はまだ、私は現場の中学校教員だった。学校現場では、いじめ問題あるいは不登校の急増による対応が求められ、同時に偏差値教育の批判が全国的に起こっていた。
 そんな中、生きる力やゆとりが強調され、今の総合学習へ繋がる中学校での選択授業の導入も行われていた。やがて週5日制度が導入されるが、そのときに私たち教員間では、ゆとりは名ばかりで、子どもたちに学力格差をうみだし、塾通いを助長していくのではないかと心配されていた。その心配は見事に的中。家庭の事情等で学習環境が整わない子はますます学習から遠ざる一方で学校の授業だけでは足りないと塾通いの子どもたちも増え学力格差は広がった。文科省はそんな状況を作り出しておきながら、今度は習熟度別(実態は能力別)授業を行ってきめ細かく指導するという一貫性のない教育方法を現場におろしてきたのがこの間の状況だ。そして、今回のさらなる指導要領の改定。今度は「確かな学力」の育成。競争とメリハリをつけた教育施策(できる子は更に延ばし、できない子にはそれなりに)での学力向上大作戦というわけだ。
現場や子どもたちの実態を見ない、見ようとしない文科省、中教審の無責任の極みといえる。

 今日の学習会で一番印象に残った言葉は、
「知」は共有財産。この言葉の持つ意味を私たちはきちんと受け止めたいと思う。
「何のために勉強するの?」
こんな問いを子どもに投げかけられた時「あなたのため」とか「あなたの将来のため」という答え方を思わずしてしまう。
でも、この答え方の根底には、学んだ知識は個人のために使われる=個人の利益のためという暗黙の意識があるような気がする。もし、そうだとすれば、「教育は国家のために国際競争に勝ち抜く人材の育成のために」という文科省の論理も批判できなくなる。
「知」は一人のものではなく、社会(国家を超えて)の共有財産として、引き継がれていくべきもの。
学びの本質は個人利益のためではなく(もちろん国家のためのものでもなく)、人類共有の共同の営みとして、平等に分け与えられなければならない。
能力の高い子はその力を皆のために使う、その共同教育の実践、共に学び共に育ちあう経験が平等な社会を作り上げていく。このことに改めて気づかせてもらえたのが今回の学習会の大きな成果だった。

 「障害者差別禁止条例」ー千葉県で全国初の策定ということで、各地の障がい者団体から期待を寄せられている。しかし、その内実を子どもの人権・インクルーシブ教育という視点から見ると、とんでもない「差別条約」と化す。このことを多くの人は知らない。そして、大変やっかいなのは、この条例をそうであってもよしとする、つまり内実はともかくできたことそのことに意味があるとする障がい者団体やその支援者が多いことだ。
 
 「共に育つ教育」を進めてきた千葉県連絡会は、今日、千葉市内で、「特別支援教育を受けさせない関係者(親も含む)は差別者にあたる」という条例の解釈指針の撤回を求めて緊急集会を開いた。
100名を超える参加者は、「通常学級で、特別支援教育ではない、普通の教育を子どもにうけさせることが差別になる」という「障害者差別禁止条例」の「差別」に対して改めて強い怒りを共有した。

 この条例は、県民参加で作られた。差別にあたる事例を集め、何が差別なのかということを実態に即して考え練られた。数多くの県内タウンミーティングで当事者の意見を聞く中でつくられてきた。ところが、ふたを開けたら、「差別禁止」どころか「差別」そのものの解釈指針。いったい何のための県民参加なのか。「差別」を「差別」といわせないためのお膳立てのための県民参加だったのかと勘ぐりたくなるほどだ。

 タイトルに戻ろう。この「特別支援教育」は昨年度から国を挙げての推進策がとられている。同じく昨年度からやはり国をあげての「学力向上」大作戦だ。その切り札として「全国一斉学力テスト」が導入された。なんと佐倉市教育委員会は、その国の路線をそのままそっくり踏襲し、今年度の教育方針として特別支援教育推進策を打ち出した。「学力向上」施策の第一番目に記述されているのが「特別支援教育の推進」という内容だ。

 1961年、全国学力テストが導入された。「期待される人間像」という中教審答申が出され、財界が求める人材育成が教育の目的とされた。そして、同じ年、「我が国の特殊教育」という当時の文部省の方針が出された。そこには「「普通学級の学級運営をできるだけ完全に行うためにも、例外的な心身の故障者は除いて、それぞれの故障に応じた適切な教育を行う場所を用意する必要がある」と記述されている。
 特別支援という化けの皮はここで見事にはがされる。
「普通学級の学力向上のために、効率的な教育を行うために、障がい児は分けて教育すべし」という路線だ。この年から、全国各地の学校で特殊学級が整備されていく。

 昨年の学力テストの再開、そして、特別支援教育の推進。40数年前の悪夢が繰り返される。
とんでもない話だ。

 31日、根津さんは、石原都政にしっかりと楔を打ち込んだ。
都教委は根津さんが君が代斉唱に着席するたびに、処分を重くし、とうとう後がない所まで追い込んだ。(まさに平成の踏み絵だ)
しかし、全国いや世界各地から、根津さんの問題は「平和憲法」「人権」の問題だと激励のリアクションが巻き起こった。石原は根津さんを首にはできなかった。闘いはまだまだ続くが、これは大きな一歩。

 私も根津さんを応援するメーリングリストに入れてもらっているが、根津さんの揺るぎない信念、支援をする仲間の方達のパワーにいつも勇気づけられる。
様々な行動提起がされていて、現地に行きたいという思いをいつも持ちながらも、今の自分の持ち場で精一杯が正直な所。でも、ここ佐倉の地から応援すると共に、私自身の問題として関わっていきたい。

 根津さんはメーリングリストで早速次の転勤先(南大沢学園からあきる野学園への不当な転勤攻撃と停職6ヵ月)へ停職出勤をする宣言をしている。
都教委への行動も継続して行うという。
決してあきらめない継続した行動は、また、あきる野に新たな連帯の種を撒くだろう。

 

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