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ときどき偉そうなことを恥ずかしげもなく書かせていただいている。
じゃ、今日もちょっと偉そうなことを書かせていただこうかな、と思っている^^。
今、上司の勧めで「赤い楯」(広瀬隆、集英社文庫)の3巻目の最後の方を読んでいる。
1冊1300頁くらいあるので、10巻くらいあったと思うから、まだまだ先は長い。
先日もちょっとこの本について書かせていただいたこととつながるのだが、
読んでいてよく感じるのは、「私たちは何を知っているか?それをどう知っているか?」ということだ。
個人的な意見を言わせていただくと、私は何を知っているかよりも、どう知っているかの方がよほど重要である気がする。
たとえば、さきほどサルトルとボーヴォワールの関係の話が出てきたのだが(1230頁)、
ボーヴォワールが大変なブルジョワだったことが書かれており、その一言で、彼女や彼女と一緒にいたサルトルのやっていたことがうそ臭いこと、価値のないこと、のようなニュアンスで書かれているのだが、
私は高校時代に仲の良かった先生の勧めで、高校卒業までにボーヴォワールの著作をすべて読んだ。
「娘時代」「女ざかり」などと言った彼女がずっと書き留めていた日記もすべて読んだ。
そうした日記を読んでいると、彼女が自分の出生がプチ・ブルであり、それはどうしても消しようのないものであり、
そうした非難を日常的に受けながらも、どのように社会の中で自分が正しいと言える生き方、考え方をしていったら良いのかを模索し続けている様子が伝わってきた。
確かに、彼女はブルジョワの出身だが、こうした彼女の日記を読んだ者にとっては、
彼女が「実はブルジョワだった」ですべての彼女の考えや生き方を否定されてしまうような知識はどのように位置する知識なのだろうか?
それを言うなら、金持ちに生まれた人は何も思索活動は出来ない、ということになりかねないし、
逆に貧乏な家に生まれたなら、それだけで自由な思索活動ができるメリットを得てしまうという、
逆転の価値観がまかり通ってしまうことにもなりかねないと思う。
要するに、私なんか生まれながらにして、ものすごいメリットを得ているわけである。
(こんなメリットを得ている沢山の人たちは、いったいどうしているんでしょうかねえ^^!)
逆に、悲惨される側にいるはずの人間が自ら生きている世界や社会を非難するようなことをするならば、
どちらの側からも切られながら進んで行かなければいけない、という難しさもあるだろう。
場合によっては、こちらの方がはるかにつらい生き方である。
他の例をもう一つだけ取って見るが、
ある有名新聞社の重役の家系がアパルトヘイトなのに、その新聞は平然とアフリカの人権について書いている、というような記述などがあったが、
じゃ、アパルトヘイトの祖先がいる家系に生まれたら、
ずっとアパルトヘイトじゃないといけないのかい?と節操のない私はすぐに口に出したくなる。
その人物がそうだとか、そうだったとか、いうのであれば、まだ書いてもなんとなく読み飛ばしたくなるのだが...
もちろん、その重役の家系がそうだから、その重役のいる新聞社はアパルトヘイトだという論理は、
とても興味深い^^!としか言いようがない。
などと思いつつも、この「赤い楯」はほとんどの人が知らない興味深い裏話の宝庫であることには変わりはない。
だから、この本に限らず、読者は、どのような本でも興味を持ち、その作家が書いたことを尊重しつつも、
一歩引いた立場を崩さず、必要なところのみ、自分の糧としていくのが豊かな読書生活なのかなあ!
なんて思っちゃいました。
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はじめまして。
「赤い楯」はおもしろいですね^^
2010/3/6(土) 午前 0:18 [ カール(カヲル32) ]