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崖崩れ最中の津波避難
永久に続くかと思われた猛烈な揺れもさすがに峠を越し、次第に現実の世界に引き戻された。
すぐに頭をよぎったのは津波だ。海面がぐんぐんと下がって行き、砂が見えてきた。誰からともなく、「津波が来る。逃げなくちゃ!」という声が上がった。黄金山神社方面の高台へ上るのが最善だが、崖崩れがまだ続いている。しかも上り口付近の道は大岩や木で埋まり所々で半分ほど崩落している。躊躇せざるを得ない。
これまで宮城県内では震度5〜6の地震が何度か起きていたが、せいぜい1、2メートルほどの津波だったので、待合室の屋根か隣のお土産屋の二階へ上ることも一瞬頭に浮かんだ。しかし、その直後、防災無線のスピーカーから「6m以上の津波が来ます。全員高台に避難してください!」という放送が鳴り響いた。これで我々の行動意志が決定した。今思うと、この放送は命の恩人と言ってもよいだろう。危険を覚悟で一斉に高台を目指して上り始めた。右側の崖からの落石をかわし、海に転落しないように注意しつつ、倒れた木や岩を乗り越えてひたすら上った。
途中で何度も余震が起こり、そのたびに岩がごろごろ落ちてくる。私自身はこれまで、生活や旅の中で死と向き合うような危険に四度遭遇している。そのため比較的冷静だった。このような歴史的大地震の実態を記録に残しておかなければならない―― これが現場に遭遇した作家の使命だという意識が働き、危険を冒しながらも頻繁にシャッターを押した。
撮影のお陰で命拾いした瞬間があった。振り返りながら後方を撮影し、再び前方に向き直った瞬間、前方10m程に亘って大岩が落下してきた。思わず体は硬直し、目は見開いたままだった。撮影せずに歩いていたら確実に直撃されていたにちがいない。数えてみるとその数7個、私の直前に落ちた岩は直径2mもある大物だった。これが二度目の命拾いだった。
5、6分ほど上った時点で、船が再び桟橋方向へ向かって戻り始めた。スピーカーで「乗る人は急いでくださーい!」と叫んでいる。我々もいったん坂を下り始めたが、方針通りこのまま上り続けることになった。それを見た船は再び沖へ方向を変えて猛スピードで逃げ去った。後から聞くと、その船には地震前から桟橋に出ていた二人の仲間が乗っていたとのことだ。
完全に退路が絶たれた状態でひたすら上る。途中で小さな余震が何度も起こり、そのたびごとに岩や石が落ちてくる。再び大きな地震が起これば、まちがいなく岩の下敷きになるか海へ転落するだろう――そう思うと生きた心地がしない。神に祈る気持で上り続けた。上ること20分、3時15分にようやく標高50メートルほどの高台にたどり着いた。まさに「命がけの避難」だった。到着したときは安堵感のあまり気が抜けてしまった。
大津波襲来
だがほっとしてはいられなかった。すでに海はどす黒く、波が異常に高くなり始めていた。案の定3分後の3時18分、第一波が襲来した。防波堤が隠れ、海面から7メートルほどある待合所の屋根、さらには10mほどあるお土産屋の屋根も次々に水面下に消えていった。
それを見た時は、命がけでここまで上って来て本当に良かったと思った。約10分後の3時29分、今度は水が急激に南北両方向に引き始め、1分もたたないうちに建物や桟橋が完全にもとの姿を現した。そして33分には金華山と牡鹿半島との間の金華山瀬戸からはほとんど水が引き、壮大な枯れ河のようになった。
それも束の間1分後、33時35分には30mほどもあろうと思われる第二波が南北両方向から怒涛のように押し寄せた。南方向の太平洋側(鮎川側)からの津波は鳥が翼を広げたように形で中央部分がややくぼんだ形をしており、それに対して北側(女川側)からの津波は中央部分がやや突き出たよう形をしていた。
二つの黒い津波は狭い金華山瀬戸に入ると次第に高さと速度を増し、北からの津波が南からの津波に食い込むようにして中央付近から次々に激突した。それが急速にせり上がって数十メートルに巨大化してゆく。そしてこともあろうに、超巨大津波が我々のいる50m以上の高台を目掛けて押し寄せてきた。
もう撮影どころではない。建物崩壊とがけ崩れの危険から逃げおおせて来て、ここで津波にやられたのでは元も子もない。さらに高いところまで必死に駆け上がって難を逃れた。そして徐々に引いてゆく波を見ながらやっと自分たちは助かったのだと漠然と感じた。結局、地震、がけ崩れ、大津波で命を落としかねない場面が三度あったことになる。だがこの時、我々を襲った津波が、同時に向かい側の鮎川を壊滅状態にし、さらには三陸以外の土地まで襲って死者と行方不明者を2万人近く出していることまでは到底思いが及ばなかった。
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