東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

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道が開けた

 ショベルカーの働きおかげで、港から総合支所より高い集落までの道が開けた.。
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高い集落への被害調査

 昼過ぎ、総合庁舎よりも高いと所にある集落の被害状況を調べに行くことにした。
 津波は総合庁舎の直前で止まったので津波被害は免れた。したがってがれきは全くない。
 しかし、地震被害はかなりあるようである。ただし、倒壊している家は見当たらない。
 海に近い側とは異なり、何軒かの家では早くも大工が壊れた家の修理をしていた。日本人は取り掛かりが早いと思った。
 その時は、将来の復興までは思いが及ばなかったが、津波被害のないところは結構復興が進むと予想していた。しかし、津波被害に重点が置かれたせいか、結果的には地震被害には思ったほどには、着手できなかった。

  せっかく助かった命を大切にしなきゃだめだよ!

 女川へ向かう道をさらに2キロほど歩いて行くと、湧き水があった。

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  断水のため、食事の時に配られるわずかな水しか飲むことが出来なかったので、かなり喉が渇いていた。すぐさま手ですくって飲んでいると、40歳前後の男性がポリタンクを下げてやって来て、水を汲み始めた。
 その人に「この道路は女川へ行く道ですか? 」と確認すると、
「どこへ行くのかね?」と尋ねてきた。
 これまでの経緯と、今はどこへも行くつもりはないが、いずれ石巻を通って仙台まで帰らなければならないと話すと、
「近日中に歩いて行くのは絶対にやめた方がいいよ。俺は若いんで石巻からここまでどうにか帰れたが、あんたたちの年齢の人なら死にさ行くようなもんだ。せっかく金華山で助かった命を大切にしなきゃダメだよ!」と叱り口調で言った。その人の話す口調には、どんなに苦労して鮎川まで戻ったのかが伺い知れた。案の定、こちらから訊ねないのに、自分のつらい体験談を話し始めた。
 
 ―― 震災当日石巻に出かけていたが、鮎川の両親が心配でたまらなかった。そこで、無理を承知で12日の朝に石巻を出発して鮎川へ向かった。石巻を出る時は水が胸の近くまであったが、どうにか牡鹿半島までやってきた。
 牡鹿半島の浜辺の集落はどこも壊滅状態だった。集落はがれきで埋まり、人っ子ひとり出会わなかった。集落の人は全滅したんだなあ、と思いながら歩き続けた。時にはひざ以上もある泥の中をズブズブとはまりながら、喘ぎ喘ぎ歩くこともあった。鮎川に辿り着くのに9時間以上かかった。

 鮎川に着くと見渡す限りがれきに埋まっていた。
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 それを目の前にした時は、両親も家もダメだなと失望した。疲れもどっと出てひざが崩れて座り込んでしまった。
 気を取り直して自宅へ行ってみると、一階は空洞化して泥やがれきで埋まっていたが、二階はどうにか残っていた。もちろん両親はいなかった。
 二人を探して家に近い避難所を二ヶ所回ったがいなかった。不安と落胆はますます大きくなっていった。
 そして、藁をもつかむ気持ちで回った総合支所で両親を見つけた。その時の安堵感は一生忘れないだろう。支所で一泊して、住めるかどうかわからない我家に今朝3人で戻った。

 彼は最後にポツリと言った。
 「避難所を出る時、家を失くした人たちに対して後ろめたい気がしてつらかった。なんだか悪いことをした気分だった」。
 その気持ちがすごくよくわかった。
 自分自身が苦しい思いをした上に、他人への気遣いでつらい思いを重ねている姿は実に気の毒だった。
 その男性は、うなずきながら「おじさん、親身に話を聞いてくれて本当にありがとう」と、感謝の表情で言った。彼は私に話すことでいくらか胸のつかえが下りたようであった。
 その人の心がいくらかでも癒されることにいくらかでも役立つことができ、幾分でも恩返しができて嬉しかった。私こそ感謝された喜びを味あわせてもらい、逆に感謝の気持ちでいっぱいだった。





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