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「私の3.11あの日あの時」(28までのあらすじ)
私が所属する山歩きの会13名は震源地に最も近い宮城県の島・金華山で大地震に遭遇した。私は船の待合室のテーブルの下に隠れたが、天井が落下する寸前に外へ逃げ出して難を逃れ、津波を避けるため、50数mの高台に避難する途中、私の直前で崖崩れが起こったが、手前で一瞬立ち止まって写真撮影を行ったために命拾いし、高台に避難した後も、南北から襲来した20〜30mの2つの津波が激突し、50mほどの巨大津波となって高台を襲ってきたが、さらに高いところへ駆け上がり難を逃れた。私は3度命拾いしたことになるが、その時「生かされた命」を強く感じた。その夜は黄金山神社にお世話になり、翌日、船で救出されて牡鹿半島の鮎川へ渡った。上陸直後、この世のものとは思えないほどの惨状を目の当たりにして呆然自失となった。そして2日後、夕暮れの浜で、幼い女の子と若い母親が一輪の野の花を二人で持って丁寧に浜辺に手向け、ひたすら祈り始めた。その姿を見てはばからず号泣した。三度も生かされた我が命、何もない所でひたすら祈る姿―― この衝撃的な体験がみちのく巡礼の活動の原点となった。
石巻市牡鹿総合支所で、ボランティアをしながら5日間避難所生活を送った後、自衛隊のジープで石巻まで送ってもらうことになった。
女川経由で石巻へ向かう
ジープは亀裂や陥没だらけのコバルトラインを走って女川方面に向かった。道路のいたるところに亀裂や陥没ができている。大きな亀裂と陥没は応急工事によって埋められている。亀裂や陥没を巧みに避けながらジープは進んだ。自衛隊員のドライブテクニックは確かなものだ。
道のあちこちに車が放置されている。なぜ? 津波を避けて高いコバルトラインに上って来て、そのまま放置して徒歩で避難所に向かったのかもしれない。
そんなことを考えていると、コバルトラインを下り切って女川に入った。この地点は海から1キロ以上離れているにも関わらず津波の傷跡がみられた。
左折して万石浦にさしかかった。道路はまだわずかに冠水していたが、津波の被害は小さかったようだ。隊員の話では、震災当日も床下浸水程度で済んだとのことだった。万石浦は海に対してほとんど閉ざされた状態になっているので、津波もほとんど浦の中には入り込めなかったのあろう。,
万石浦駅付近から右折して山手の道に入った。稲井地区を通って、石巻総合運動公園に到着した。 石巻の救援センター
総合運動公園は救援センターになっており、自衛隊や各県からの救援隊が集結していた。
新潟県の消防車が真っ先に駆け付けたとのこと―― 新潟県中越地震の折に宮城県の消防車がいの一番に駆け付けたことへのお礼なのだそうだ。
また、和歌山県の消防車も目に入ってきた。
はるばる熊本など九州から来ているのには驚いた。
日本中総出の救援出動だということを強く感じて、感謝の気持ちがすごく湧いた。
ほんとうにありがたいことだ。
奇しくも今回の熊本地震では恩返しすることになってしまった。我が郷里東松島市からも数名の市役所職員が熊本県に派遣され、活動の様子がNHKのドキュメンタリーで報道されたのを見た時、心から嬉しく感じた。ぜひ頑張っていただきたい。
やっと妻と連絡が取れる
ここは救援基地なので電波が強いのだが、私の携帯は通じない。
震災以来6日間家族と連絡が取れていないと、窮状を訴えると、
「特別ですよ。10秒くらいで…」と言いながら自分の緊急用電話を貸してくれた。
規則にとらわれずに好意的に振るまってくれたことに強く感謝しました。
電話がつながったとたん、こちらが話す前に 「おとうさん!? よかった!」
と、妻の叫ぶような声が飛び込んできた。まさにテレパシーでつながっているようだった。
お互いの無事がやっと確認できた劇的瞬間だった。
この短い言葉には、連絡を待ちわびていた気持ちと安堵感が凝縮されていた。
「今、石巻にいる。明日帰るから…」と伝える私の声は完全に上ずっていた。目頭は熱くなっていた。目は涙で潤んでいた。
話したいことはいっぱいあったが“10秒だけ”が気になり、すぐに電源を切った。
心にのしかかっていたものが一挙に外れたような気がして、
体からもどっと力が抜けた。
この10秒程度のやり取りは、私にとっては宝の時間だった。私と妻を深く結びつけたことは間違いない。
一生心に残る会話になった。
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