東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
みちのく巡礼札所会
みちのく巡礼札所会は、みちのく巡礼の加盟寺院による会です。
その設立総会が行われる運びとなりました。
日時場所は
3月29日 1530 仙台新寺斎場清月記です。
総会におきましては、会則、役員人事、運営および具体的活動等について協議したいと考えております。

なお、設立総会終了後、多くの寺院より要望がありました情報交換会も設定いたしました。寺院間の横のつながりを図ることができることを大いに期待しています。

 目下、宮城県で25ケ寺の入会申し込みをいただいておりますが、祈りの場を望む声は多方面で数多くあり、震災を広く伝承してゆく意味からも、津波被災地のみならず内陸部も含めて50ケ寺以上の寺院に巡礼地を創設していただきたいと考えております。

5月中には、宮城県コースの巡礼を開始する予定です。


開く コメント(0)

                 

隠された経典はどうなったのか?

 小説『敦煌』で、主人公趙行徳が莫高窟に隠した経典は、その後どうなったのだろうか?
 高校生の私には、そのことがすごく興味があった。
 大学生になったら絶対に調べてやろうと思った。

 小説で趙行徳が隠したと設定されているが、実際には、
 いつ、誰が、どのような事情で、17靴に蔵経して封じたのだろうか? 

イメージ 1


 
 大雑把に言うと、二つの説がある。
 その1 西夏が敦煌に攻めて来るというので、それに備え、仏典を護るために封じたということで、 1304,5年。 小説「敦煌」はこの説に基づいて書かれている。

 その2 中国の西端のカシュガルで興ったカラハン王朝が東を攻め、当時敦煌を支配していた西夏を攻め落とそうとしていた。仏教を尊信していた西夏は、それに備えて敦煌の仏教徒に蔵経堂を封じさせた。

 実際はどうだったのだろうか?
 この謎はいまだに解明されていない。

 敦煌の莫高窟には、4世紀から元代の14世紀までの千年の間窟が掘られ、
 塑像が造られ壁画が描かれたが、唐の時代にその盛りを迎えた。
 多くの王朝の消長に伴い、敦煌の地も漢民族の支配をうけたり、周辺の民族の支配下にあったりと、
 めまぐるしく変転した。
 それを反映して莫高窟には、唐のほか、十六国、北魏、西魏、北周、隋、吐蕃、西夏、元の各時代の特色を持った窟が存在する。
 それらの石窟は、南北1600メートルにわたって連なっている。
 私は3度訪れ、述べ15日見学したが、それでも半分も見ることができなかった。
 
イメージ 2

 
イメージ 3
                         
 
小説『敦煌』で、敦煌を征服した 西夏も、熱心な仏教徒であるためいくつかの窟を造営した。←詳しくはクリック
 
                      西夏時代の壁画。
 
 隠されてから元代までは石窟には多くの人間が出入りしたはずだが、
 見つからなかったのは不思議なくらいである。

 明の時代になると中国王朝の支配範囲が狭まり、仏教に熱心でない民族に支配されたため、
 保護されることなく敦煌は孤立した。
 そして放置され、砂に埋もれてしまったのである。
 それがむしろ敦煌にとって幸いしたとも言えるだろう。
 現在でも、手を施さないとたちまち砂にうずもれてしまうそうで、苦労して管理している。
 
イメージ 4
                砂に埋もれかけている石窟

莫高窟の発見は偶然だった。

 敦煌の膨大な美術が注目されるのは、二十世紀の初めの偶然の発見だった。
 廃虚のようになった莫高窟に住み着いていた王円籙という坊さんが十七窟に膨大な経巻、刺繍、絵画、仏典がぎっしり詰まっているのを発見した。
 
 隠されたのが11世紀だと仮定すると、20世紀に発見されるまで、1000年近くも気付かれることなく洞窟の中で眠り続けたことになる。
 

外国へ持ち出された文物は?

 敦煌から膨大な文物が見つかったというニュースはたちまち外国に流れ、イギリスのオーレル・スタイン、続いてフランスのペリオ、さらに日本の大谷探検隊などが次々敦煌を訪れた。

 持ち出された文物はいま、大英博物館、同図書館、パリ国立図書館、ギメ美術館など世界各国にあり、その数は何万点にものぼる。
 この海外流出については、先進国による“略奪”という評価がある一方で、それらの流出があったからこそ、保存の手が打たれたという評価もある。
 

敦煌研究院

 莫高窟の入口のすぐそばには敦煌研究院がある。
 そこで、学芸員にいろいろ説明してもらった。
 前身の「敦煌芸術研究所」が1944年2月に設立された。
 私は1989年と2005年と2008年と3度訪れた。
 最初の訪問の際に西安のPさんに紹介してもらって以来、
 写真撮影に協力してもらったり、資料を提供していただいたりなど、手厚く配慮していただいている。
 感謝! 感謝!
 
 創立者の常書鴻氏は、私が最初に訪れた時、こんな話をしてくれた。
 絵画の勉強に留学したパリで、ペリオの著した『敦煌千仏洞』に出会い、
 故国の美術品の保護を決意した。
 1942年、パリ時代の油絵を売って旅費を作り、
 列車やラクダを乗り継いでやっと着いた莫高窟は荒れ果てていた。
 日中戦争が終わり、「敦煌文物研究所」になったころから研究は進み始めたが、
 文化大革命により敦煌市内の文化遺産は破壊された。
 しかし、当時の周恩来総理の「文物保護」の命令もあって、莫高窟は被害を免れた。

                     

開く コメント(6)

開く トラックバック(0)

みちのく巡礼がみやぎシルバーネット一面で紹介されました。


イメージ 1

開く コメント(0)

東日本大震災5
私が震災当日金華山で3度命拾いして生かされた命を感じて、祈りの場づくりを思い立って5年が経ったことになります。
振り返ると、強い思いがこみ上げてきました。思いのままに書きだした文章ですが、お読みいただければ幸いです。
  
 身内を亡くして悲嘆にくれる人々のために祈りの場を創って差し上げたいという本当に純粋な気持ちで、自分一人でコツコツとお寺さんを回って祈りの場創りをお願いすることから始まったささやかに活動でしたが、
そうした活動をしながら、
「すぐに逃げさえすれば絶対に2万人もの人々が命を落とすことはなかった」という思いがしだいに強くなって行きました。
 今でも悔しい思いがいたします。
 末永く大震災の悲しみや悲惨さを語り継ぎ、未来の人々の尊い命を救いたいと思う気持ちがどんどん増してきたのです。
 だから絶対に伝えなければならないという思いが強くなってきたのです。
 もちろん祈りが原点であることには変わりがありません。
 単に、身内を亡くした人々に祈りの場を創って差し上げるだけでは、
当面はそれでよいかもしれませんが、後世の人々のお役には立たないと思うのです。

 末永く震災を伝えて未来の多くの尊い命を救うためには、
風化しないしっかりとした祈りの場をつくり、伝える活動を継続していかなければならないと思います。
 これがみちのく巡礼の大きな理念です。
 祈りの場を風化させないためには―― 末永く存続させるには―― 、
四国遍路のような祈りの場と巡礼の道を創らなければならないと思いました。そのために活動が次第に広がってゆきました。
 そして、巡礼する方々をを温かく迎えてくれる地元の雰囲気作りも行わなければなりません。四国遍路のお接待のような心遣いです。そうすれば、巡礼のリピーターも増え、祈りの場は末永く続き、震災の教訓を長く伝えていくことができるでしょう。それはなかなか容易なことではありませんが、少しでも近づくことを目指して頑張っていきたいと思います。

開く コメント(0)

東日本大震災で亡くなられて方々への国の追悼式典での天皇陛下の心のこもったお言葉に深い感謝と強い感動を覚えました。
ここ5年間両陛下は全国の多くの被災地を訪れ、しっかりと顔と顔を合わせ、被災者の手をしっかりと握り、心にしっかりと寄り添っていらっしゃいました。
その思いが心にも体にもしっかりとしみこみ、それがお言葉からにじみ出ていました。
ありがとうございます。天皇・皇后両陛下。

その後で、ふと思い出したことがあります。震災当時の首相の菅さんが、福島県の放射能被災地を訪れた時の事。あまりにも心がない様子を見た男性が「もう帰るのですか!?」と、あきれた怒りの言葉を投げかけました。それとはあまりにもかけ離れた崇高さを覚えました。菅首相の場合、男性は時間が短いことに腹を立てたのではなく、心が全くこもっていない態度に腹が立ったのだと思います。どんなに短くとも、心がこもった態度や表情であれば、こんな多忙の中、わざわざ自分たちのところに来てくれたことに、感謝したことでしょう。


開く コメント(4)

開く トラックバック(1)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事