東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

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こんな時どのように慰めたらよいのか?

  3月14日の夕方、我々のいる3階の部屋から港の方向を見ると、港までの道はがれきが完全に両側に撤去されて開かれているのがわかった。そこで、震災3日後の海岸方面の状況を調べにくことにした。

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 港までの道々、この道の両側はは鮎川の街の中心街だった。


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以前の街並みはすっかりがれきの山に変わり果てている。3日前通ったばかりの道だ。それだけにたまらなく切ない思いがわいてくる。

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 海岸の方に近づくと、少し薄暗くなりかけている浜辺のがれきの中を、母子らしい二人が何かを探すように、下を向きながら歩いては止まりを繰り返している。

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 その様子から、直感的に身内を亡くした母子に違いないと勘が働いた。
もしそうならばなんとか慰めたい。 しかし、話しかけるのを躊躇した。
 話しかけてよいものだろうか?
 しかも、どのように話しかけて、なぐさめてあげればよいのかわからなかった。
 躊躇しながら近づくと、自然に頭が下っていた。
 すると、お母さんらしき人が躊躇している私に向かって、問わず語りに、
「全部流されてしまって…、父ちゃんも見つかってないんです。せめで思い出になるものを探してるんです」と話した。誰かに自分の重くてつらい胸の内を話したかったに違いない。母親の憔悴しきった顔が忘れられない。
 途端に胸に堪えた。大粒の涙が流れた。何と答えたらよいのかわからなかった。思わず手を握り、
「せめてアルバムでも見つかるといいですね…。これからも大変なことが続くと思いますが、がんばってくださいね!」と、声をつまらせながら言った。
 しかし、「がんばって」という言葉が本当によかったのだろうか…。
 自分自身やりきれなかった。
 あの時はどんな言葉を掛ければよかったのか未だにわからない。
 でも、あれが精いっぱいだったように思う。

夜になって初めて牡鹿半島の情報が入った。だが、「石巻市の牡鹿半島の浜に100300人の遺体が流れ着いた」という悲しいものだった。夕方になってこの支所にも数人のご遺体が運び込まれた。
 この時、あの母子のことが頭に浮かんだ。

東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」          
 連絡先:一般社団法人みちのく巡
 070-5320-3400 
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感謝していただくことに感謝する
 
 食事が質・量共に幾分アップ
 津波警報と水素爆発の報道による衝撃はもまもなく収まり、我々は1110分ごろから朝食兼昼食の配給に取り掛かった。
 パンが2分の1から1枚になった。それにスープが付き、なんと初めてゆで卵も出た。多分卵は地元からの好意的な差し入れなのだろう。こうしたところにも助け合いの心が見える。避難者の方々の顔はうれしそうだった。中には、配給を手伝っている我々にまでお礼を言ってくれる人もいた。なんだかくすぐったい気持ちがしたが、うれしそうな顔を見るのは、我々としてもすごくうれしかった。
  農家から玄米を自力運搬
 午後には、津波被害を受けなかった農家から玄米を運んでくる仕事を頼まれた。農家の厚意による救援米だ。リアカーなど運搬手段が流されてしまって無いのだから自力に頼るしかない。普段スポーツで鍛えていたつもりでも、30キロ袋を1キロメートル近く運搬することは、67歳の身にはいささか厳しいものだった。30キロの子供を抱っこしたり背負ったりすることならそんなにまで苦痛ではないと思うが、米袋は容易なことではなかった。30m位歩いては休み、そして気合を入れなおしてまた運ぶの繰り返だった。
  甘い飲み物に大喜び
 午後のおやつの時間には午前に流出自販機から回収してきた飲み物を配ると、被災者の皆さんは「甘いものは久しぶりなので、生き返ったようだ」と大喜びだった。数日間甘いものを口にしないと、こんなにも体が要求することを自分でも実感した。
 感謝されることに感謝
 また、夕方にはわれわれが運んだ玄米でおにぎりが作られた。皆さんから飲み物とおにぎりのお礼を言われた時には、疲れも吹き飛んだ気持ちだった。
人のために働かせてもらうことの素晴らしさを実感させていただき、“感謝されることに感謝”した。この思いがその後のボランティア活動の基になった。
 そしてこの思いがさらに進んで「みちのく巡礼」の活動へと進んだのです。

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再び津波警報!!
  自動販売機から回収してきた飲料のカンを洗っている最中、午前11時頃津波警報が発令され、思わず緊張が走った。
 避難所周辺はにわかにあわただしくなった。がれきを撤去して復旧作業をしていた人々が、一斉に総合庁舎よりも高い地域に向かって走ってきた。スタンドの貯蔵タンクに残っている灯油やガソリンを回収中の車もすぐ作業を中止して、より高い地域へ走り去った。

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              高台へ向かって避難する人々

  ところが一人のおじさんが、ゆうゆうとバイクで海の方向へ向かって行く。消防隊員があわてて追いかけて説得にかかっているが、それに応じない様子だ。どうにか1分ほどで説得できたらしく、バイクを誘導しながらこちらに向かって走ってきた。やれやれ人騒がせな人もいるものだ.。.
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            避難を説得する消防団員


 しばらく「がれきが原」から人影が消えて静寂が訪れた。固唾を呑んで海の様子を観察していたが、幸いにも大きな津波は来なかった。
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水素爆発とのラジオ放送に避難所は騒然!!
津波騒ぎが収まったと思ったのもつかの間、午前11時ごろ、避難所内にまたひと―騒ぎが持ち上がった。
福島第一原発で「水素爆発」が起きたとラジオが報じた。同室の人びとは、「水爆だ! 大変なことになった」とざわめいている。私は化学が専門だったので、水素ガスが空気中の酸素と混じって烈しく反応して爆発を起こしたのだ、と説明すると少し安心した様子だった。しかし、鮎川のすぐ近くに女川原発がある。高いところにあるので多分大丈夫だとは思ったが、内心少し心配だったが、いらぬことを言ってみんなを心配させてはいけないので、自分の胸の内にしまっておいた。

しかし後日わかったことだが、実際には核燃料がメルトダウンを起こして、日本中に長期にわたって放射能被害をもたらすことになったのである。


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避難所生活三日目(3月14日)
朝の日課―― 部屋掃除と体操

 前夜(2日目の夜)、総合支所の職員から、「全く情報が入って来ませんので、いつこの避難所を出て行くことが出来るかは、全く見当が付きません。お気の毒ですが、長い避難所生活を覚悟していただいた方がよいと思います」と言われました。当初からそのつもりだったので、比較的平静に受け止めました。そして、健康維持のために規則正しい生活をしようと、7人の仲間でで申し合わせました。

 3日目の朝からさっそく実践に移しました
 6時に起床して部屋の掃除から始まりました。
 まず、毛布や、枕代わりのクッションを部屋の隅に整理し、
 続いて床に敷いていたビニールシートを剥がしましt。シートを敷きっぱなしにして座っていると、緊急時にとっさの行動が取れないからです。
 寝転んでいると体力が落ちてしまうので、日中はイスに座っているようにしました。いざとなったら、ここ鮎川から80キロ以上ある仙台まで徒歩で帰らなければならないからです
 次に、床を掃きました。ちょっと掃くと土埃がもうもうと立ち込めました。咳が出るほどでした。余計な埃を吸わないためにも必要です。本来ならば、モップで床を拭くところですが、何せ貴重な水ですので、掃除なんかには使えません。
 
 清掃後、暗黙のうちに残留組のリーダー的な存在になったT君がみんなを前にして、「どうも長期戦になりそうなので、日々体操するなどして健康管理につとめましょう」と切り出しました。
そう言い終わったとたん、まさにグッドタイミング。ラジオ体操の歌が聞こえてきました。我々同室の18人は、一斉に体操を始めました。
 体操終了後、6時に起床、その後は清掃とラジオ体操をすることを日課とすることにしました。

 流された自販機から飲み物を回収
 毎日午前9時ごろ給水車(消防車)が到着します。20リットルポリタンク、給水器、バケツ等で二階まで運搬するのが仕事です。これも日課の一つです。大変ですが体力維持に役立つのでむしろ歓迎なのです。
 水の運搬が終わった10時ごろ女性職員から、流出した自動販売機から飲み物類を回収してきてほしいと頼まれました。
 大体の場所を聞いていたのですが、念のために途中で地元の人に訊くと、その都度場所が異なり、2時間ほどがれきの上をさまよっっていました。考えてみると自販機は何台もあり、流されて位置を変えているのです。
 結局、もう一度支所に戻って職員に案内してもらいました。がれきの上を乗り越えながら行くと、すでに他の職員が自販機をこじ開けているところでした。我々がこじ開けるのでは、なんとなく後ろめたさがあったので、気が軽くなりました。
 周辺から、プラスチック製のトレイを拾ってきて、それに回収しました。
 
 400本ほど回収しました。それを支所に持ち帰って、駐車場で水を節約しながらドロを洗い落としました。

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 「祈る」・「語る」・「結ぶ」 をキャッチフレーズにして、
東日本大震災の記憶と教訓を伝え、自然災害から命を守る活動を行っています。
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 我々の車発見
水汲みの人と別れたのち、仲間二人と出会い、自分たちが乗ってきた車を探しに港方面にへ向かった。
しばらく探し回ったが、海から200mほど内陸側にで、3台の内2台発見できた。久々に同士に会えたような気持ちだった。残骸ではあるが念のため写真に収めた。


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朝日新聞の記者に連絡を依頼
方になって、朝日新聞の記者が部屋にやって来てインタビューを受けた。全く予期せぬことだった。後で思ったのだが、この孤立状態の鮎川にどのような手段でやってきたのだろうか。仲間の紅一点が家族への連絡を切々と頼んだのが功を奏してか、我々の連絡先を持ち帰って可能な限り連絡を取ると言ってくれた。約束を果たしてくれたことが帰宅後わかって感謝でいっぱいだった。

二日目の食事
午前10時にレトルトの冷たいおじや紙コップ三分の一、
午後2時にパン1枚と水カップ半分
午後5時にさけ入り玄米おにぎり小1個とスープカップ半分であった。
〈これなら苦労せずにダイエット出来るな〉と苦笑いし合った。

夕方に担当の人が説明に来て、「情報がまったく入らないので、ここをいつ出ることが出来るかまったく見通しがつきません。長期戦の覚悟をしておいてください」と、すまなそうに語った。ラジオから流れてくる行方不明者の数がどんどん増えてくる。被災地の地名が報じられるたびに、そこに住んでいる兄弟や親戚や知人の顔が浮かんだ。〈大丈夫だろうか? 生きていてほしい〉と、心から祈っていた。朝方になると毛布1枚では寒さが身にしみたが、寒さ以上に安否が気になった。 

 
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