東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

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被災者同士の気遣いと優しさを感じた光景

避難所生活2日目の夜、ささやかなことだがとてもほほえましい光景に出会った。
あんだ先にすらい」「いやいや オレは大丈夫だがら あんだがら…」。
いたって何気ないやり取りだが、わたしの心の中に深く刻まれている。

 この会話は、その夜トイレ前で耳にした二人のおばあちゃんの会話だ。
 この二人にはどんな状況でも相手を気遣う優しさがあふれていた。
 この避難所の人々は、史上最大級の地震を体験し、
 我が家も愛する故郷も、
 ことごとく大津波に打ち壊される姿を目の当たりにし、
 目を覆いたくなるようながれきの山を前にしている。

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 自然災害の恐ろしさを、とことん思い知らされた人たちだ。
 そんな大災害を経験したばかりの人々が、
 取り乱すこともなく明るい表情で、
 思いやりのある振舞いをしていることに、
 目頭が熱くなるほどの感動を覚えた。
けれども、
避難所で肩寄せあって生活しているお年寄りの姿を見るたびに、心が痛んだ。

避難所でじっと辛抱しながら耐えている被災者の人々を見ているうちに、
東日本大震災の前に孫娘に読み聞かせていた童話絵本『花さき山』を思い出した。 
  
孫はこの話がとても好きで、聞きながらいつも涙を浮かべた。
やさしい子になるだろうな…と、ジジ馬鹿で思った。
「また来たときに読んでね!」と言って、我が家に置いて帰ったのである。
 そのことを思い出していた。


お祭りのごちそうに使う山菜を採りに、
山へ行った村の少女のあやは、
山奥で山姥(やまんば)に出会う。
ふと見ると、
あたり一面に美しい花が咲きみだれていた。
山姥はあやに、
この山の花はふもとの人間がやさしいことをひとつするとひとつ咲く。
足元にさいている赤い花は、
あやがきのう咲かせた花だと言う。
あやの家は貧乏なので
自分は祭りの晴着をがまんして、
その代わりに妹に作ってやってと、母に頼んだのだ。
山姥は、
あやがじっと辛抱して、目にいっぱい涙をためたので、
その涙のつゆが花を咲かせたのだ。
自分のことより他人のことを思って涙をいっぱいためて辛抱すると、
その優しさとけなげさが花になって咲き出すのだと話した。

 誰もが持っている心の花の芽は、
 たとえ絶望の淵に立たされて枯れそうになっても、
 わずかな望みから這い上がって、
 思いがけないところから目を出す強さを持っていると、
 私は信じている。

 阪神・淡路大震災の時もきっとそうだったに違いない。
 東日本大震災の時もそうだった。
 今、熊本にある心の「花さき山」には、
 小さな赤い花が人知れずに咲き始めているだろう。
 一人ひとりの心に咲いた花は、次第に大きく花開き、
 やがて復興の大きな力に変わってゆくと確信している。

 熊本の方々頑張ってください!


         
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道が開けた

 ショベルカーの働きおかげで、港から総合支所より高い集落までの道が開けた.。
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高い集落への被害調査

 昼過ぎ、総合庁舎よりも高いと所にある集落の被害状況を調べに行くことにした。
 津波は総合庁舎の直前で止まったので津波被害は免れた。したがってがれきは全くない。
 しかし、地震被害はかなりあるようである。ただし、倒壊している家は見当たらない。
 海に近い側とは異なり、何軒かの家では早くも大工が壊れた家の修理をしていた。日本人は取り掛かりが早いと思った。
 その時は、将来の復興までは思いが及ばなかったが、津波被害のないところは結構復興が進むと予想していた。しかし、津波被害に重点が置かれたせいか、結果的には地震被害には思ったほどには、着手できなかった。

  せっかく助かった命を大切にしなきゃだめだよ!

 女川へ向かう道をさらに2キロほど歩いて行くと、湧き水があった。

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  断水のため、食事の時に配られるわずかな水しか飲むことが出来なかったので、かなり喉が渇いていた。すぐさま手ですくって飲んでいると、40歳前後の男性がポリタンクを下げてやって来て、水を汲み始めた。
 その人に「この道路は女川へ行く道ですか? 」と確認すると、
「どこへ行くのかね?」と尋ねてきた。
 これまでの経緯と、今はどこへも行くつもりはないが、いずれ石巻を通って仙台まで帰らなければならないと話すと、
「近日中に歩いて行くのは絶対にやめた方がいいよ。俺は若いんで石巻からここまでどうにか帰れたが、あんたたちの年齢の人なら死にさ行くようなもんだ。せっかく金華山で助かった命を大切にしなきゃダメだよ!」と叱り口調で言った。その人の話す口調には、どんなに苦労して鮎川まで戻ったのかが伺い知れた。案の定、こちらから訊ねないのに、自分のつらい体験談を話し始めた。
 
 ―― 震災当日石巻に出かけていたが、鮎川の両親が心配でたまらなかった。そこで、無理を承知で12日の朝に石巻を出発して鮎川へ向かった。石巻を出る時は水が胸の近くまであったが、どうにか牡鹿半島までやってきた。
 牡鹿半島の浜辺の集落はどこも壊滅状態だった。集落はがれきで埋まり、人っ子ひとり出会わなかった。集落の人は全滅したんだなあ、と思いながら歩き続けた。時にはひざ以上もある泥の中をズブズブとはまりながら、喘ぎ喘ぎ歩くこともあった。鮎川に辿り着くのに9時間以上かかった。

 鮎川に着くと見渡す限りがれきに埋まっていた。
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 それを目の前にした時は、両親も家もダメだなと失望した。疲れもどっと出てひざが崩れて座り込んでしまった。
 気を取り直して自宅へ行ってみると、一階は空洞化して泥やがれきで埋まっていたが、二階はどうにか残っていた。もちろん両親はいなかった。
 二人を探して家に近い避難所を二ヶ所回ったがいなかった。不安と落胆はますます大きくなっていった。
 そして、藁をもつかむ気持ちで回った総合支所で両親を見つけた。その時の安堵感は一生忘れないだろう。支所で一泊して、住めるかどうかわからない我家に今朝3人で戻った。

 彼は最後にポツリと言った。
 「避難所を出る時、家を失くした人たちに対して後ろめたい気がしてつらかった。なんだか悪いことをした気分だった」。
 その気持ちがすごくよくわかった。
 自分自身が苦しい思いをした上に、他人への気遣いでつらい思いを重ねている姿は実に気の毒だった。
 その男性は、うなずきながら「おじさん、親身に話を聞いてくれて本当にありがとう」と、感謝の表情で言った。彼は私に話すことでいくらか胸のつかえが下りたようであった。
 その人の心がいくらかでも癒されることにいくらかでも役立つことができ、幾分でも恩返しができて嬉しかった。私こそ感謝された喜びを味あわせてもらい、逆に感謝の気持ちでいっぱいだった。




 鮎川港方面の被害状況調査を20分ほどで切り上げて、朝のボランティアである給水車からの水の運搬を行なった。何よりも嬉しいのは少しでも被災者の皆さんのお役に立っているという恩返しの気持ちである。また、これにひと汗かいた爽快感が加わって、実に充実感あふれた時間だった。

 水の運搬を終えて、部屋に戻って本を読んでいた。この本は、仙台〜石巻間の移動の電車の中で読もうと思って何気なく持参してきたものだが、今となっては貴重な一冊である。この時、外からガタガタ、ガラガラというがれきが崩れるような音が聞こえてきた。バルコニーへ出て様子を見ると、ショベルカーが道路をうず高く覆っているがれきを両脇に取り除き始めた。
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 牡鹿半島の道は寸断状態なので、このショベルカーはおそらく地元業者所有のものだろう。まず総合支所付近の道に積み重なっている大量のがれきを撤去し始めた。手際よい作業で、昼ごろまでには港や国道につながる道が開かれた。
 我々は東日本大震災当日、この道を通って港へ向かったのだ。その道が姿を現すと、たった二日前なのに妙に懐かしさがこみ上げてきた……実に不思議だ。

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さすが日本だ、動きが早い。復興への第一歩が始まったと心強さを感じた。

 道が開けたので外へ出てみると、ヘリコプターの飛行音が小さく聞こえてきた。まさしく上空にヘリコプターが小さく見える。

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                       遠方の上空に白い点のようにヘリコプターが見えた

  被害状況調査か救援活動かは定かでない。もちろん我々があのヘリに乗って、仙台方面まで近づけるなんてことはみじんも感じられない。しかし、外部との接点があ.ることを感じさせたことは確かだ。かなり安堵した。
 いつもは騒音に感じるヘリの音が「希望の音」に聞こえた。“牡鹿半島は見捨てられているのではないか?”と、不安と孤独感を感じていただけに、かなり希望が湧いた。



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避難所生活二日目(3月13日) その1

鮎川は孤立状態だし、携帯電話も通じないので、外部との連絡がまったく取れない。そこで、自ら行動を起こすことにした。家族への連絡と車のチャーターを目的にして先発隊を結成することにしたのである。
 メンバーはリーダー、車のディーラーの会長、そして石巻近辺在住の2名である。
迎えが不可能なときには、リーダーが責任をもって鮎川残留組の家族に連絡することになった。朝7時ごろ先発隊4人は30キロほど先の石巻へ向けて出発した。残留組は期待と不安で見送った 
  
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まだ薄暗い中を先発隊は出発した。

 港方面に被害状況を調査に行く
 わたしは彼らを見送ったのち、港方面に被害状況を調べに行った。

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利用客に親しまれていた港近くのふじや旅館

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青森県のご夫妻が乗って来た車

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牡鹿中学校より手前のスピンカーブから、鮎川港を眺めると、まだ海はざわついており、津波が収まっていないように見えた。
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                       まだ津波が収まっていない様子の鮎川港

 そして彼らが歩んだがれきに覆われた道を中を石巻方面に数百メートルほど歩いてみたが、道にはまだがれきが散乱し、両脇にはうず高く積み重なっている。.
 きっと難儀しながら歩いているのだろうと思いやった。

結局、彼らは2日経っても戻って来なかった。
後日聞いた話では、
 ―― 仙台在住のリーダー以外の3人は、自宅が流されるか浸水していた。そのため連絡どころではなく、家族の消息探しや、自宅の復旧に追われたそうである。

 リーダーがまず石巻市在住のメンバー宅に歩いて連絡した後、ヒッチハイクで5台の車を乗り継いで仙台の自宅にたどり着き、仙台近辺のメンバー宅への連絡は、電話不通のため車で回って行なった、とのことであった。
 
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   第1日目の夜は、18人に毛布6枚でした。
 我々グループは山用の防寒義を持っているので、青森県から来た夫婦に二人で1枚、若い3人グループに2枚使ってもらい、我々は13人で、3枚の毛布で寒さをしのぎました。
さすがに寒かったです。

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          毛布の代わりにアルミシートをかけて寝ました

眠れぬままに、下の階へ降りてゆくと、
職員の方々はもっと大変でした。一階の事務室やロビーなど、さらに寒い所で、ダンボールを敷いて毛布なしで寝ていました。
職員の方々の中には家を流されただけでなく、家族が行方不明の人も少なくないのです。この過酷な「滅私奉公」がしばらく続くことを思うと〈ご苦労様〉と心から頭が下がりました。
 2階の 地元の方々の避難部屋をのぞいてみると、避難している地元の人たちはとても立派でした。

できるだけ明るく、落ち込んだり、悲壮感を見せたりせず、むしろ和んだ雰囲気さえ感じられました。鮎川は古くからひとつの集落を形成しているため、子供のころから顔見知りでつながりが深いのです。そのこともあって互いに精神的に支えあっているのだと感じました。

 この中には家族の安否が不明で心を痛めている人もかなりいるのでです。それを表に出さず心を張りつめて頑張っている様子に却ってたまらない切なさを感じました。そして、このような状態でも秩序をきちんと保っていることに感動さえ覚えました。
 各地の難所の様子は、数日後に外国でも報道されましたが、日本人の避難所生活の立派さは賞讃の的だったそうです。

 トイレ事情ですが、断水のため、大便は買い物袋のようなビニール袋に排便して、トイレに備えてあるダンボール箱に入れるという方法でした。箱がいっぱいになると消防の人が処分してくれるというやり方です。 ほとんどの人が立派な避難所生活でしたが、知ってか知らずか水も出ないのに便器に大便をしている人がいました。
その都度、便器から拾い上げてビニール袋に入れたのですが、ちょっと腹立たしくなる時もありました。
どこにも少数の心無い人がいるものです。

 これが、避難所生活1日目の夜でした。

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