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次々に入る被害状況
食事が終わると、自分たちが食べた割箸をふき取り、紙コップと共に一ヵ所にまとめた。片付けと言ってもそれだけなのである。
17 : 31バルコニーから外を眺めるとまだ薄明るかった。
以前は、いっぱしの街並みと住宅街だったのにと思うと、むなしい…わびしい気持ちになった。この前を通って港へ向かったのはわずか31時間ほど前だった。
この道を通って港へ向かったのはわずか31時間ほど前だった
しばし物思いにふけっていると薄暗くなって寒くなったので部屋に戻り、3本点けていたローソクをもったいないので、2本消して出入り口付近の1本だけにした。ローソクのそばに懐中電灯を置いた。皆がトイレに行くためのものである。
暗黒の中で家族・親族を想う
こんな薄暗い中では、何もすることはできない。それぞれ自分の居場所(寝場所)へ戻って行った。次第に闇に包まれていった。
部屋の中央付近に置かれた携帯ラジオから被害情報が着々と入って来る。闇の中で全員耳をすまして聞き入っている。言葉を発する雰囲気ではない。どこか異常さが漂う。それぞれ何を想っているのだろうか。
我々のメンバーの半数は津波被害が大きい石巻市や東松島市に居を構えている。そうでない者もみんな石巻と東松島の出身である。
家族や親族の安否が大いに気になっているに違いない。しかし、誰ひとりとしてそれを口に出さなかった。さすが大人の集団だ。というより口に出してもどうにもならない、諦め感だろう。初めての感覚にじっと耐えているのに違いない。もちろん私もそうだった。
私の場合、仙台の我が家は海岸から15キロほど離れているので、地震による家の倒壊さえなければ、多分妻は命だけは大丈夫だろう…。大地震が起った時の避難方法は以前から、妻と打ち合わせてあったので多分大丈夫だったと信じたい。
妻は消防団員なので、自分の家のことはさておいて、救援活動に奔走しているに違いない。もし無事ならば、帰らぬ夫の生死をひたすら心配しているよりも気が紛れているかもしれない。なるべく悲観的に考えないようにした。でも、被災したのが金華山なので、私は死んだのではないか?と思っているかもしれない。却って、その方が気掛かりだった。
石巻市湊の姉と渡波の姪の家は海岸付近なので流失していることは確実だ。それよりも生死が心配だ。
東松島市の実家は海との間に自衛隊松島基地が広がっているので、運が良ければ守られる形で流出は免れたかもしれない。だが、二階近くまでの浸水は避けられないだろう。
だが、〈孤立状態の鮎川にいて何も出来ない自分が、必要以上に心配したり口に出したりしたところで、どうにもならないことだ〉と自分に言い聞かせていた。
心配にじっと耐えていることで、自分たちよりも困難な状態にあるだろう家族と、苦しみという共通項でつながろうとしていた。
眠れないままに部屋から再びバルコニーに出て、がれきにうずもれた鮎川の街をながめたが、真っ暗で何も見えない。海風がその暗黒の中を海からこちらに向かって来る。
いったい日本中はどうなっているのだろう。暗黒の中で初めて日本全体を想った。自分の想像のつかない恐ろしいことになっているのろうなと、漠然と想った。そして孤立している自分たちをも思った。
東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
一般社団法人みちのく巡礼
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避難所での初めての食事 〜食べている自分に幸福感、
“生きているだけで幸せ”
ねぐらの整備が終わった5時頃夕食になった。
この避難所では午前10時と午後5時の二食である。
これまで各地で災害が起こる度ごとにテレビで避難所の様子を見て来たが、自分とは無縁のものと感じていた。実際に避難所に入って、自分たちが入る部屋を整備し、そして食事を食べ始め時、初めて自分自身がその立場になっていることを実感した。
しかし、まったく、不運だの、不満だのという感覚は湧かなかった。
それは生きているだけで幸せと、感謝を感じていたからに違いない。
生きているだけで幸せ―― これが幸せの原点だと思う。 何よりも大切なものを失わなかったことに勝る幸せは絶対にない。
―― この時生まれて初めてそんな気持ちになった。
小さい玄米おにぎり1個と水が紙コップ半分だった。しかし、全く不満も、悲壮感もな かった。自分は金華山で死んでいたと思えば、こうして食べている自分が存在しているだけでも、十分幸せを感じた。
大きなろうそく1本を囲んで10数人が食べる食事も淡々と受け入れていた。
空腹だったので、おにぎりは3口で食べてしまった。「これなら労せずしてダイエットができるな」と、私が隣の仲間に精一杯のジョークを飛ばすと、部屋中にどっと笑いが起こった。決して無理した笑いではなかった。みんなも無事に生きた自分にきっと幸せ感を持っているのだ。それと出来るだけ不安を吹き飛ばそうとしているのにちがいない。
断水なので水は貴重だ。コップや箸はもちろん再使用である。この紙コップと割り箸は以後の食事の「マイカップ&マイ箸」となった。各人しっかりと油性ペンで記名した。
牡鹿半島の道はいたるところで寸断されているため鮎川は孤立状態で、食糧支援も人的支援はまだまったく期待できない。私はしっかりと耐乏生活の覚悟をした。「生きているだけで幸せ」なので、悲壮感は全くない。この思いはその後の生活の最大の武器になっていた。
「明日から私たちが食事の分配と運搬をやりますよ」と申し出ると、職員の方々はとても喜んでくれた。そして、これが後々までのボランティアにつながるのである。
「貴重な食料をいただくのは本当にありがたい。なにせ地元の被災者ではないのである。それなのに暖かく接してくれる。少しでも恩返しがしたい」。
いや、それもさることながら、生かされたことへの感謝だという気持ちだった。
このような無私のここるは清々しい。
思えば、「みちのく巡礼」の活動は、「無私の心」が原点なのです。
私たちの主な仕事は、給水車からの水の運搬、食料の分類と整理、そして食事の配給である。何らかのご恩返しができることはとてもありがたいことである。二重の喜びであった。
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ひどい散乱状態の会議室を片付けてねぐらづくり
全員揃ったので入室するところだが、すし詰め状態の部屋に13人が加わればさらに窮屈な思いをさせてしまう。それでは地元の避難者の方々に誠に気の毒だという思いを強く感じた。
鮎川の人々は実に優しい。
我々が被災者の皆様にねぎらいの言葉をかけると、逆に観光客の我々に「せっかく金華山に来てくれたのに気の毒だったね。運が悪かったね〜」などと言ってとても気遣いやねぎらいの言葉さえかけてくれた。 これにはますます恐縮してしまいました。
私は絶対に山用の防寒具を着て廊下で寝ようと決めた。家を流されたり、身内を亡くした人々に今してやれることはそれぐらいしかないと思った。
しばらく廊下で待機していると、職員の方から「ちょっと三階まで来ていただけますか?」と声をかけられた。何だかよくわからないままに付いて行くと、金華山から来た18名が第二会議室という表示のある部屋へ連れてゆかれた。
案内した職員は「ここを使ってください。この部屋は地震後ほとんど手付かずなので、相当ひどいと思います。清掃していただけませんか」と申し訳なさそうに言った。
「いえいえ、少しでもお役に立ててむしろありがたいです」と答えた後、
ちょと入口から覗くと、職員の方が言う通り確かにひどい。
「清掃」などという生易しいものでは言い表せない状態だった。
入り口付近は散乱した机やイスでバリケードのようにふさがれ、踏み込むことが出来ない。まず、それらのから撤去しなければならない。いったん廊下に出すことから始まった。取り除くと、やっと室内全体が見えてきた。
ロッカーやガラス書棚が倒れ、書類や本、割れたガラスなどが床一面を覆っている。両隣りの部屋との仕切り壁も中央部分で大きく崩れ落ちていた。予想したよりもはるかにひどい。幸い外窓のガラスは無事だったので、冷たい海風が吹き込むのだけは免れていた。何せ電気が通じないので暗くなるまでに作業を完了しなければならない。
まず入り口付近の床に散乱している危険なガラスを取り除くことから始まった。作業には、山用の厚底の靴と手袋と帽子が危険防止に大いに役立った。何が役立つかわからない。
特に作業を指揮する人はいなかったが、各人自分がなすべき仕事を見つけ、共同すべきはして作業は効率的に進んだ。夢中になって取り組んだので、むしろ疲れを感じなかった。
整備断水のため床や机などの埃を拭き取ることはできず、掃き始めたとたん部屋中にもうもうと埃が舞い上がった。メガネが曇るほどだった。
大阪と東京から金華山観光に来た学生らしき若い3人グループも、われわれロートルに引きずられてけっこう動いた。その甲斐あって日没前には「ねぐら作り」はどうやら完了した。
窓から海を眺めると夕日が優しく光を届けてくれた。この時、太陽は誰にでも平等に照らしてくれるのだと、新しい発見のようで新鮮だった。
〈ああ、生きている〉という実感がわき、涙があふれるのを止めることができなかった。
東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
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熊本では、もう400回以上の余震が起こっている。
パソコンに向かったとたんテレビからは、
という放送がが入って来ました。くれぐれもご注意ください。
では、私自身の東日本大震災体験の本日の記事に入ります。
がれきの上を歩いていると、金華山での自分の命がけの体験と、鮎川の人々が遭遇した恐怖の体験がダブってしまう。―― パニック状態になって逃げ惑う人びと、津波に飲み込まれて恐怖でもがき苦しむ人の姿、こんな光景が次々に浮かんで来る。まるで、自分が津波の真っただ中にいるようだ。この瞬間までは写真撮影は現場に居合わせた者の使命だと思っていたが、その信念が一挙に揺らいだ。
被災した人々に想いを寄せた時、この状況を撮影することは人の大きな不幸や悲しみを撮影するようで躊躇した。しばらくシャッターを押すことができず、呆然と立ちすくんでいる自分がいた。
だが思い直した。 津波直後の現実を撮影できるのは、ごく限られた人間しかいない。現地の行政の人びとは緊急の対応に追われている。報道関係者にしても、道路があちこちで寸断されているので、まだここ鮎川へ入って来ることはできない。自分の撮影は、貴重な記録として多くの人々や、ひいては被災者の方々の役にも立てるはずだ。しばらく後には、被災者の方々にも自分たちの過去の生活の証として見てもらう機会がきっと来るだろうと思い直して、再び撮影を始めた。
がれきの山の向こうの小高いところに、これから向かう避難所、石巻市牡鹿総合支所が見えた。地中海風の薄レンガ色の屋根と白いバルコニーのしゃれた建物である。
そこまでは500mほどしかないのに、膨大ながれきに行く手を阻まれているせいか、遥か遠くに見えた。
この「がれきの山」を恐る恐る乗り越えながら歩んでゆくのである。
“恐る恐る”というのは、足場の悪いがれきを越える不安さではない。多くの人々の思いや歴史が込められたがれきの上を歩いて行くことが恐れ多いという思いである。人が大切にしていたものを踏みにじってゆくことに対する申し訳なさだ。
同時に、犠牲になられた人々のご遺体ががれきの下敷きになっているかもしれないという、恐れにも似た思いが強くあった。目に見えぬご遺体に対して鎮魂と畏敬の念を心がけ、時には合掌しつつ静かに歩んだ。
どうにか総合支所のすぐ前まで来たが、10数mほど高い所にある支所へ上る坂道やコンクリート階段の前にはがれきがうず高く溜って行く手を阻んでいる。
二階の壊れた窓の前には机が置いてある。どうやらそこから総合支所へ行き来しているようだ。
私は割れた窓から高いがれきの上に降り立ち、注意深く渡って支所の駐車場へたどりついた。結局500mほど進むのに20分以上かかった。小高い総合支所から見渡した鮎川は、一面「がれきが原」であった。 東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
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