東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

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 熊本地震でお亡くなりになれれた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。  合掌
 被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
 お亡くなりになられた方々の人数が増えていく情報がが入るたびに心が痛みます。
 この度の地震報道を見ながら、私自身が東日本大震災の時の時に、津波で犠牲になった方々の情報が入るたびに、自分の身内や友人たちの安否が気がかりになっていたことがダブってまいります。
熊本の皆様! 
私が東日本大震災の経験から強く感じたことをお伝えいたします。
  それは何よりも「自分自身の命を最も大切にしてほしい」ということです。
 東日本大震災の時、せっかく高台に避難したのに、大事な家族を探そうとして再び我が家や心あたりのところへ探しに行ったり、お年寄りの薬を取りに帰宅したり、夜は寒くなるだろうと防寒着を取りに行ったり、また大切なものを取りに戻ったりして犠牲になられた方々が実に多かったことにひどく心が痛みました。
 昔から三陸などの津波常習地には、「津波てんでんこ」という教えがあります。
「津波が来たらそれぞれ自分自身で逃げろ」という教訓です。

 私の知人はわが子を探しに戻って犠牲になり、子供自身は自力で避難場所まで逃げて無事だったのです。自分を探しに行った父親が命を落としたことを知ったその子は、ものすごくショックを受けました。
 私はこの子に何度か言いました。「これからの人生の中で、自分自身を責めるのではなく、『お父さんありがとう』と言って感謝しながら生きてゆきなさい」と。
幸いにこの子は、現在中学3年生になり、母親とともにしっかりと生きています。高校受験を目指して頑張っています

熊本の皆さん!
  家の状態や大切にしていたものがきっと気になることと思います。
 しかしながら、命が最も大切であります。
 危険な場所絶対近づくな!強く言いたいです。

  また、自分自身の体験から、避難所生活は窮屈で、プライベートもなく、きっと不自由が多いことと思いますが、長期戦になるかもしれませんので、お体に十分気を付けてください。 陰ながら応援いたします。


みちのく巡礼ホームページ:: URL:http//michinoku-junrei.info 




 この記事を発信する直前の4月14日午後九時26分 熊本県益城町で震度7の地震が発生していたことが翌日分かりました。
 心よりお悔やみ申し上げます。


港から街があった辺りに歩いていくにつれてがれきの量が増えてゆく。これまで見たことのない世界だ。次第に心が重くなっていった。みんなうつむいてただ黙々と避難所の牡鹿総合支所に向かって歩みを進めて行く。誰の口からも言葉が発せられることはない。彼らの胸に去来するものは何なんだったのか。
 
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心が壊れてしまいそうな世界

重い足を進めて元商店街や住宅地のあったところに出たとたん、声も出せないほど大きな衝撃に襲われた。
そこにはかつて目にしたことのない、心が壊れてしまいそうな世界が広がっていた。まさに「呆然自失」、目は見開いているが何も考えていなかったのではないだろうか。ふと我に返ったとき、「呆然」が「圧倒」に変わった。 木造の家は、折れた柱やちぎられた板切れに変り果て、コンクリートの土台だけが哀れに残っている。押しつぶされた車があちこちに散乱し、あるものは屋根の上に鎮座している。本来は海のものである船が陸にある。2030mもある船が転がったり、屋根乗り掛かっている


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古来、日本人は自然を信仰の対象としてきたが、海は山とともに特別な存在だった。人々は様々な恵みを与えてくれる海を親しむ一方、得体のしれないものが潜む場所として恐れていた。その恐れが自分の目の前で具現化された思いがした。
そう思った瞬間、《自然は恐ろしい》と、心の底から感じた。

人間なんて自然を前にすれば本当にちっぽけな存在だ。強くそう感じて押しつぶされる思いがした。人間が築き上げた文明も自然を前にすればこんなにも無力なものか…。自然を利用する、ましてや支配するなどという考えは傲慢だと痛感させられた。
私はシルクロードなどの砂漠や草原が広がる大自然を長期間ひとり旅することが多かった。その度いつも「自然の前に人間は謙虚であれ」と実感する。ところがこの現実は、その思いをはるかに超えていた。我々以外に人の姿が見当たらなかった。人のいない町がこれほど異常だとは思わなかった。

 がれきは、紛れなく元々生活の一部だったのだ。そう思うと、目の前に広がる光景が「命と暮らしが消えた姿」に見えた。その人々の歴史までもが消え去ったようにさえ思えた。



東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
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070-5320-3400 メール: michinoku@junrei88.jp
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船で避難した仲間も無事だった 
 船が出発してからずっと金華山の山肌を見続けた。見れば見るほど、高台へ避難した時の恐ろしさが込み上げた。自分たちがさらされた昨日の状況がいかに厳しいものだったのかを改めて実感させられたのである。あんな大きながけ崩れの道をよく逃げおおせたものだな〜つくづく思い、涙をこらえきれなかった。みんなも食い入るように見続けていた。どんな思いが去来していたのだろうか。
 
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             がけ崩れの跡が生々しい金華山の山肌


 それだけに船で避難した仲間のことがことさら心配になった。出発してから乗務員はずっと動きずくめだった。津波が来る前に、我々を無事鮎川港に届けることで精いっぱいだったのだろう。それでもちょっと落ち着きを取り戻したころを見計らって、遠慮しながらも乗り員に安否を尋ねると、
―― 地震が来る直前に二人だけが乗船してきた。ところが乗船してきたとたんにあの大地震が起こった。そのためとっさに沖へ向かってとにかく船を走らせた。初めのうちはただひたすら沖へ向けて船を走らせた。しかし、島にはまだ11人の仲間がいるので、助けてほしいと二人が言うので、いったん島の方へもどって声をかけたが、誰も桟橋まで戻る気配がないので、そのままま再び沖へ向かった。
 沖に出て間もなく津波がやって来た。
船は昨夜一晩中沖を航行し続けて、今日になって津波の心配があまりなくなったころを見計らって、午前10時ころ無事鮎川に送り届けた。二人には石巻市牡鹿総合支所の避難所行くとよいでしょうとアドバイスして別た。現在はに避難しているはずである。二人を下してから海の状況を見計らって迎えに来た―― と話してくれた。

これで13名全員の無事が確認されたのである。みんなで手を取り合って喜び合った。

我々を乗せた船は太平洋の大海原に出た。海の色は皮肉にも津波前よりもずっときれいな青みを帯びている。何だか暴れ放題暴れてとりすましているようで、いつもは海が大好きなのだが、その時は憎らしさを感じた。きれいな海面のいたるところに、がれきや仰向けになった船が波に漂っており、牡鹿半島の岸はおびただしい量のがれきで埋まっている。津波の被害がいかに大きかったかを改めて痛感させられた。昨夜ラジオで「牡鹿半島は壊滅状態」と聞いていただけに、想像以上の悲惨な状況に遭遇するのが目に見えるようで恐ろしい気がした。

 
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             海のあちこちに、たくさんの船が船底を見せて浮いている。
 

 港近くになると、港内に入れない船が、流出防止のフェンスで周囲を囲んで停泊していた。
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 鮎川が見えてきた。
金華山で聞いていたラジオ放送では、鮎川は壊滅的被害と報道されていたが、遠くから見た限りでは、そのようには見えなかった。思ったほどではないのかなと、少し安堵した。

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無事だった船で避難した仲間  
それだけに船で避難した仲間のことがことさら心配になり、出発してまもなく乗組員に安否を尋ねると―― 、彼らが乗った船は昨夜一晩中沖を走り続けて今日の午前中に無事鮎川に上陸した。現在は石巻市牡鹿総合支所に避難しているはずだ。二人を下してから海の状況を見計らって迎えに来たとのことだった。これで⒔名全員の無事が確認されたのである。みんなで手を取り合って喜び合った。太平洋の大海原に出ると、海の色は津波前よりもずっときれいな青みを帯びている。だがこの海面のいたるところにがれきや仰向けになった船があちこちで波に漂っており、牡鹿半島の岸はおびただしい量のがれきで埋まっている。津波の被害がいかに大きかったかを改めて痛感させられた。昨夜ラジオで「牡鹿半島は壊滅状態」と聞いていただけに、想像以上の悲惨な状況に遭遇するのが目に見えるようで恐ろしい気がした。

鮎川港へ上陸 
 我々の船は1キロほど沖でエンジンを停止させた。そこから岸壁までは金華山出発時と同様、ボートでのピストン輸送だ。
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  遠方から見ると桟橋付近にはコンクリートの建物がいくつか見える。被害はラジオで報道されたほどひどくないのではないかと思えた。だが上陸してみると、残っていたのは鉄筋コンクリートの建物の外壁だけで、内部はすべて破壊されてがれきで埋まっていた。ひどい建物は鉄骨しか残っていない。前日歓迎してくれた鯨のマスコットは辛うじて残っていたがビニールや紙が絡み付き、それが風に揺れるさまはまるで幽霊が取り付いているようで不気味だった。鯨の町のシンボルが残っただけでもいいじゃないかと、無理に自分に言いきかせながらもむなしさいっぱいで、とぼとぼと桟橋から街の方向へ歩き出した。

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今日は東日本大震災5年1か月目です。
犠牲になられた方々のご冥福を心よりごお祈り申し上げます。
また、慰霊された方々の心が癒されますように。
そして、震災を心に刻んでいただければ幸いです。

 私が震災当日、金華山で3度命拾いして生かされた命を感じて祈りの場づくりを思い立って5年以上が経ったことになります。
 
 強い思いがこみ上げて書きだした文章ですが、お読みいただければ、幸いです。
 身内を亡くして悲嘆にくれる人々のために祈りの場を創って差し上げたいという本当に純粋な気持ちで、ささやかに自分一人でコツコツとお寺さんを回って祈りの場創りをお願いすることから始まった活動ですが、


そうした活動をしながら、
「すぐに逃げさえすれば絶対に2万人もの人々が命を落とすことはなかった」という思いがしだいに強くなりました。
 今でも悔しい思いがいたします。これが私の活動に対するモチベーションを高めております。


 末永く大震災の悲しみや悲惨さを語り継ぎ、未来の人々の尊い命を救いたいと思う気持ちがどんどん増してきたのです。
だから絶対に伝えなければならないという思いが強くなってきたのです。


 もちろん祈りが原点であることには変わりがありません。


 しかし、単に身内を亡くした人々に祈りの場を創って差し上げるだけでは、当面はそれでよいかもしれませんが、後世の人々のお役には立たないと思うのです。


 末永く震災を伝えて未来の多くの尊い命を救うためには、
風化しないしっかりとした祈りの場をつくり、伝える活動を継続していかなければならないと思います。
これがみちのく巡礼の大きな理念です。
祈りの場を風化させないためには
―― 末永く存続させるには―― 、
四国遍路のような祈りの場と巡礼の道を創らなければならないと私は思ったのです。
そして、巡礼する方々をを温かく迎えてくれる地元の雰囲気作りも行わなければなりません。
そうすれば、祈りの場は末永く遺り、巡礼のリピーターも増え、震災の教訓を長く伝えていくことができるでしょう。


それに少しでも近づくことを目指して頑張っていきたいと思います。
月命日の日には、いつもみちのく巡礼の原点となったこの文を読み上げて心を新たにしております。



 凛とした背中

古希を迎え 人生の集大成として

とてつもなく大きいことに取り組みにはじめた

東北に東日本大震災への祈りの道を創ることだ

私は震源地に最も近い金華山で大震災に遭遇した

建物崩壊の危機 がけ崩れ最中の津波避難 

さらには巨大津波の高台襲撃を受けながら 

3度も命拾いした

天からか 大自然からか それはわからない

何か大きな存在によって 生かされたような気がした

「人のために役立て!」と ドンと背中を押された思いがした

だから被災地に足しげく出向いた

被災地の人々は手を合わせる場所がほしいと言う

亡くなった身内や知人を悼み自分自身も癒される

そんな祈りの場があるといいな、と語る

被災地以外の人びとも犠牲になられた方々に

祈りをささげに行きたいと言う

そんな願いに応えたいと思った

震災一年後には 小学四年の孫と二人で 四国八十八ヶ所を歩いた 

東日本大震災の犠牲者を追悼しながら 孫や四国の人々に震災を伝えた

そんな経験から 震災犠牲者追悼の巡礼地を東北にも創ろう

これこそが自分に課せられた使命だと強く思った

財産、人生、歴史や文化まで 全てを破壊しつくした大地震と大津波

多くの人々に苦しみを与え 不安を抱かせ続ける放射能

悲しい記憶や大きな犠牲の中から生まれた

貴重な教訓を後世に伝えなければならない

今までの人生は これをやり遂げるための

基礎造りだったように思える

この歳になって自分の背中に
 
今までとは一味違った凛とした人生模様が 描き加えられたような気がする






予期せぬ救出船
 水運びが終わって境内に散らばっている落下物を片づけていると「みなさんお昼にしてくださ〜い」と、巫女さんから声がかかり食堂に降りてゆくと、カレーの匂いが 心地よく鼻を突いた。「うわ〜贅沢だな〜」と思いながらも、思わず腹の虫がグーッと鳴いた。おまけにゆで卵までついている。これは、停電のなせる業だ。、蓄えてある食料を大切に食べなければならないので、停電でなければ、仮にカレーでも、肉なんかを探すのは至難の業だったにちがいない。
 
 我々は長期滞在を覚悟はしていたが、あきらめたわけではない。交代で高台から海を見張っていた。
 午後2時ごろ、船着場の様子を見張っていた仲間が、
 「迎の船が来るぞ!」と叫んで、息せき切って神社まで駆け上がってきた。
 全く予期しないことだった。拍子抜けするほど早いと、うれしさが込み上げて来た。
 後で聞いたところによると、この船は黄金山神社に工事に来ていた人々を迎えに来た船なのだそうだ。建設会社が船をチャーターして危険を冒して従業員を迎えに来たとのことだ。我々は実に幸運だったのです。

 地震が来ればすぐに避難できる身づくろいが出来ているので、とっさに行動が出来た。
 神社の方々は、「鮎川へ行ってもろくに食べるものがありませんよ。ここにいた方が無難ですよ」と言ってくれたが、我々は一時でも早く陸地にたどり着きたかった。
 せっかくのご厚意ではあったが、何はともあれ神社の方々に厚くお礼を言って、りュックを背負って一目散に船着き場へと向かった。ちょっと申し訳ない気分だったが仕方がない。千載一遇のチャンスを逃すものか、といった気分だった。
 岩や倒木を乗り越えながら、そして躓かないように気を付けながら、そして海へ転落しないように気を配りながら苦心惨憺して坂を下った。

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船からは、
 「津波が来る可能性がありますので急いでくださ〜い!」
「明日以降は、お迎えに来れませ〜ン!」
と、ハンドスピーカーで叫んでいる。
千載一遇のチャンスを逃してなるものかと、必死だった。
 遠くにまさしく船が見えた。
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 しかし沖に停まったままだ。
道理でそのはず。
  桟橋付近には大量の流木や流された車やいろいろなものが沈んでいるので、近づけないのだ。
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 桟橋で待っていると小さなモーターボートがやって来て、3人ずつ観光船までピストン輸送してくれた。

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鮎川へ向かう
 建築会社の方々5名と我々11名合計16名を乗せた船は、小さなモーターボートを曳航しながら、鮎川へと向かった。
 予想よりかなり早く帰宅できるのではないかという安堵の気持はあったが、一方、いつ来るかわからない余震による津波を心配して、船の乗員3名も我
々乗客も緊張していた。

    
 
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 船から金華山の山肌を見ると、がけ崩れの跡が明確だった。あんな大きながけ崩れの道をよく逃げおおせたものだと思うと、ぐっとこみ上げた。
 
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                           がけ崩れの跡が生々しい金華山の山肌

後から聞いたところ、沖に逃げた仲間は船からがけ崩れの様子を見ながら、ほぼ全員がけ崩れで命を落としてしまったと思っていたそうだ。




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