東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

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  ご恩返しの勤労

 黄金山神社の禰宜さんと被害調査を終えて神社に戻ると、社務所の人たちや巫女さんたちが焚き火をしている。
  避難している16名(我々以外に5名の方がお世話になっていた)が、暖を取れるようにとの配慮である。私たちも、境内の木製の落下物や、周辺の倒木やなどを集めてきた。我々が交代で火の番をすることになった。

  “何でもいいですから、やれることがありましたら申し付けてください”と申し出ると、 「それでは、水汲みを手伝っていただけませんか」と頼まれた。
 神社から300メートルほど離れた「金光水」という湧きがある。そこから20リットルポリ容器やペットボトルなどで飲料水や洗い水などを運ぶ仕事である。

私たちは長期の避難生活を覚悟していたので、神社の一員という気持ちで積極的に仕事を買って出た。水の運搬の他、復旧作業、落下物の焼却などに精を出した。少しでもご神社の役に立てるかと思うと気分がよかった。
働いた後の昼食のカレーライスはことのほかおいしかった。

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  何回も往復しているうちに、汗ばむほどであった。
  ただ御世話になっているよりも、ず〜っと気分がよかった。

交代で救出のための見張り
 しかし一方では、救援をあきらめてわけではない。
 二人一組になって沖を走る船を30分交代で見張っていた。
そんな時はまるでロビンソンクルーソーになったような気分だった。
もちろん大きな期待は持ていなかったが、わずかな可能性を期待してやれるだけのことはやろうと思ったのである。
 






 

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 大地震と大津波の恐怖の余韻がいまだ冷めやらぬ翌12日朝、未だ時々余震が来ているが、比較的穏やかな朝を迎えた。昨夜はすっかり疲れ果て、早めに床に就いたせいか、いち早く目が覚めた。仲間たちはまだ眠っている様子だ。

 昨夜何度か目が覚めたが、その都度、,船の発着所付近や高台まで避難した道がどうなったのか気になって仕方がなかったので、起きて早々に調べに出かけた。
 薄暗い境内は、昨日降った雪で薄っすらと覆われていた。まだ人の気配はない。
何事もなかったかのように静まり返っている。ただ、倒れた灯篭はそのままの惨めな姿を残し、あちこちの木の枝が折れ、倒れた木もあった。崩れた岩がところどころにに散らばっていた。

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 昨日、津波を避けて避難した高台から海を眺めると、完全に波が静まったわけではなく、まだ高波の様相を呈していた。
 ここまで来てはみたものの、団体行動なので勝手な行動は、慎まなければならないと思い直して神社に戻りかけると、ちょうど神社の禰宜さんががやって来て、これから被害状況を調べに行くという。「一緒に行ってもいいですか?」と尋ねると、
いいですよ、と言ってくれたので同行させてもらうことした。

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 高台から船着き場への道
 
神社から桟橋までの道は、津波避難の時よりもさらに破壊が進み、岩や木が積み重なるようにして道を覆っていた。改めて〈よく命があったなあ〉と思いながら岩や木を乗り越えた。幸運と適切な判断だけではなく、何か目に見えない大きなものに守られたのではないかとしみじみ感じた。
ここまで下ってくると、がけ崩れの痕がはっきりとしていた。大抵のところは落下してきた岩や松の木などで道がふさがれた状態だ。改めてすごかったのだと実感させられどおしだった。
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 道路は著しく亀裂が入り、半分は崩れて海に落下していた。

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                      塘路や石柱はことごとく倒れていた
 
  こうして歩いてみると、崩れてくる岩にも、倒木にもれず当たらずによくぞ逃げおうせたものだなあと思う。特に直前に大7つもの大岩に襲われた地点では、改めて身がすくんだ。3度も命が助かったのは、単に幸運や判断だけでなく、目に見えない大きなものに守られたのではないかと、しみじみと思った。

惨憺たる船着場周辺

 桟橋付近の三つの建物はいずれも鉄骨やコンクリートの柱だけが残り、それにがれきやビニールなどが取り付いていて、水の怖さをまざまざと見せ付けられた。待合室の屋根やお土産屋の二階に上がらなくてよかったとつくづく思った
 
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  船の待合所は鉄骨だけが残り、惨憺たる状態でした。
 
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 私が自身のとき身を守った場所には、どこから押し流されてきたのか、軽ワゴンが鎮座していた。
 この建物の屋根に上らず、がけ崩れの危険を冒してでも、高台に逃げたことがやはり適切な判断だったと思う。
 
 
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  船着場のすぐ後ろのモルタル造りのお土産屋の建物も骨だけになっていた。 実はこの建物の屋上も一周浮かんだ避難候補だった。もしもこの建物の屋上に避難したら…と思うと、ぞっとした。

  振り返ってみると、これまでの人生には生死にかかわる大きな出来事が7回あったが、今回の災難は、間違いなく、その最大であろう。


 

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黄金山神社を頼る〜神は見捨てない

 津波は第4波までやってきたが次第に弱まりを見せてきた。

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           津波が弱まって再び姿を現した岸壁

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津波が収まると、それまでそれぞれ個々に行動していた仲間が三々五々リーダーのもとに集まって来た。どの顔も疲労がにじんでいたが、一様に、命拾いをした安堵感があった。リーダーがまず確認したのは、13名全員がそろっているかどうかだった。A君とM君が見当たらない。誰かが、「あいつらは船に乗ったぞ」と言う。全員一斉に海の方を見やった。「船は無事かな?」と誰かが口に出した。津波の時には船は沖に避難するのが常套手段だと、ここにいる誰もが知っていたはずだが、誰もその経験はないだろう。みんな心配げに顔を見合わせた。

リーダーは「大丈夫だと思うしかないよ」と言ったきり黙り込んだ。明らかに心配そうな顔で、どこか無力感さえ漂っていた。誰もそれ以上話題にしようとしかなかった。考えてもどうにもしようがないことと思っていたのに違いない。私ももちろんそんな気持ちだった。ただ、ひたすら無事を祈っていた。
私が天井崩落寸前に待合室から逃げ出た時に沖へ向かって猛スピードで去って行った、午後3時発予定の船に乗っていたのだ。結果論だが船に乗り損ねた我々の方が正解だと思った。

命が助かった我々だが、次は孤立状態になったこの島でどのように対応していくかという問題に直面した。何日間も野宿というわけにはいかない。食料もわずかしかない。
リーダーは「とにかく神社を頼ってみようや」と言うと、他の仲間が「神様だから見捨てないよな。きっと」と、場を和ませるような調子で続けた。リーダーは俺について来いと言わんばかりに毅然と歩きだした。そんなところが彼がメンバーから頼られるゆえんである。

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何はともあれ、みんなも後について黄金山神社へ向かった。参道の灯篭はことごとく倒れ、建物の石垣も崩落しているている。
神社たどり着くと、参殿の大きな石鳥居は根元から折れて倒れていた。そこには鹿が一匹おびえるようにたたずんでいた。

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神社の方々は、盛んに復旧に追われていたにもかかわらず温かく迎え入れた。
「せっかく金華山にいらしていただいたのに申し訳ありませ。とんだ目にお遭いになりましたね」と、風格のありそうな方がねぎらってくれた」。
続いて巫女さんが「ご覧のとおりこんな状態なのでろくなことはできませんが、何とか寒さをしのげる建物だけは残りましたので、ご利用いただけると思います」と言って、祈祷者待合所に案内してくれた。
待合所の内部は、割れたガラスが廊下一面に散乱し、壊れた祭壇や落下した掲額などが部屋中を覆っていた。
それを指さしながら巫女さんは「大変申し訳ございませんが、片付けを手伝っていただけませんでしょうか」すまなそうに言う。
リーダーが、「もちろんですとも、お役に立てることがあったら、何でも言いつけてください」と言うと、全員がさっそく作業に取り掛かった。危険なので全員登山用の靴のままだった。まずは片付けから始まり、拭き掃除をしてどうにか暗くなる前に避難所づくりを終わらせることができた。

神社は宿泊施設.にもなっているので、宿泊者用の立派な寝具がある。ありがたくもそれを使わせていただけることになった。さっそく各自布団置き場から寝具を運んで自分の寝床を作った。

心づくしのお茶をいただいた後、みんな布団に潜り込んで心身の疲れをいやした。私は特に疲れていたと見えて、すっかり寝込んでしまった。仲間からは「櫻井さんは度胸がいいですね。高いびきで寝ていましたよ」と言われたが、私だけが3回も死に直面したのだから無理もないかもしれない。

夕食もおにぎり2個に豚汁という、避難所としては破格の厚遇であった。まさに地獄に仏であった。感謝に堪えない。後で聞くと最近島に食料が運ばれて来たばかりだったということだった。その点は幸運だった。停電のため冷蔵庫が作動しないので、肉は早く消費する必要があった。翌日の昼はカレーライスだった。

夜になっても震度5〜6程度の余震が何度も起きた。地面から沸き上がる唸りのような音や、瓦が激しくぶつかり合うガラガラ…というあたりを揺るがすような音が暗黒の建物中に響き渡り、強い揺れ以上に恐怖だった。まだまだ予断の許されない状況だった。
我々11名は比較的安全な状態におかれると、船で沖に出た二人の仲間のことを心配し合った。
がけ崩れ最中の津波避難だったが、我々は正しい判断をしたと全員で語り合った。誰かが、「櫻井さんの四国歩き遍路のご利益でみんなも助かったのですね」と、冗談とも本気ともつか.ないことを言われた。実際、私に関しては3度も命が助かったのは、何か神がかり的なことを感じていたことは、事実であった。

神社の配慮で終始ラジオがついていたので、不安の中みんな一晩中耳を傾けていた。しかし、牡鹿半島の「お」の字も出て来なかった。ましてここ金華山は外界との交信はまったく途絶えているので、完全に孤立状態であった。この島に救助の手が差し伸べられるのはかなり先のことであろうと、長期逗留を覚悟した。

震源地に最も近い金華山だけに妻ははどんなにか心配しているだろと考えると、たまらなく心が傷んだ。金華山に来ているのでより一層心配しているに相違ない。自分が無事なことを早く知らせてやりたいと、思わず涙がたまっていた。
連絡が閉ざされていることが何よりもどかしかった。
しかし妻とは、家にいて地震が来た時の対策は打ち合わせていたので、その通りやれば多分大丈夫だだろうと、幾分気が休まった。

夜中にトイレにおきた時、天上を見上げると、皮肉なほどに見事なほど星空が広がっていた。
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全て停電のため空はまさに暗黒が広がり、そこにはいつもの何倍もの星が光り輝いていた。それはまるでシルクロードの砂漠の星空を想わせた。

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              シルクロードの砂漠の星空

自然はいつもは誠にありがたいものだが、時にはこんなにも過酷なものだ。
人間は 所詮自然の前にはちっぽけな存在だととよく感じながら見事な星を独り眺め入っていた。打ちのめされた気持だった。

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津波記念碑の教訓と避難の心得

津波が収まってから津波記念碑がどうなったのか気になって下りて見に行った。津波は石碑よりも高いところまで来たのだから、案の定濡れてはいたが無事立っていた。
以前は書いてある内容はあまり気に留めなかったが改めて見てみると、
大震嘯災記念碑」と書かれている。
これは昭和8年3月3日の昭和三陸沖地震の折、津波がこの地点まで到達したことを示すために立てられた。今度の津波はそこを越えて来たことにになる。

 少し読みづらかったが、判読イメージ 1読することができた。
「地震があったら津浪の用心」「それや来た逃げよう五本松」
と刻まれていた。地震が来たら津波を用心せよ、津波が来たら五本松の高台を目指して逃げよ、という教えを書いたものだ。

我々の避難行動は結果的にはこの教えに適っていたのだ。
また、東北地方には、
「津波てんでんこ」という、津波避難の教えがある。
津波が来たらてんでん(それぞれ個々)に避難して身を守れ」
という教えである。
もしも私と行動を共にしていた人がいたならば、私が大岩に襲われた時、私の直前にいた人は直撃を受けただろう。   翌朝撮影した津波記念

                                  
 こうした碑は三陸各地にあるが、大きな津波がここまで上ってきたという津波の恐ろしさを知らせる警報の役割を果たしている。
しかし、私は震災後多くの被災地に出向いたが、せっかく津波の到達点を示す石碑・津波石があっても判読不能でその役割を果たしていないものを多く見かけた。         

東日本大震災の場合も当然こうした石碑が必要である。我々は維持管理が行き届いている寺院に慰霊塔や津波記念碑や教訓を書いた石碑などの建立していただく活動を継続している。

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津波記念碑より高い地点まで必死に走る
南北両方向から押し寄せた二つの津波の激突によって超巨大化した津波が避難した50mほどの高台に迫って来た。高台の高い崖をよじ登って来るようにして押し寄せてくる。黒い巨大な水がぐんぐんと迫って来た。とにかく必死でより高い方へと駆け上がった。後ろを振り返っている余裕など全くない。その地点から50mほど離れた所、標高にして10mほど高い地点昭和8年3月3日の三陸沖地震の到達点を示す津波記念碑がある。とにかくその碑以上高いところまで逃げようと必死で走った。こんな時には普段ジョギングで鍛えているのが役立った。碑を通り越してさらに30mほど走ってからどうなっているのかと気になってやっと後ろを振り返ってみた。すると10数mほど手前で波が引き始めているのが見えた。〈あ〜どうやら助かったのだな〜〉という安心感とより、恐怖から解放された虚脱感に似た思いだった。まだ頭が働いていない状態だった。ただぼんやりと津波後の波のうねりを眺めていた。その後津波は次第に弱まり、結局第4波まで来たが、その様子を眺めながら次第に思考がよみがえってくるのを感じました。
 
生かされた命
その時ぼんやりとした思考の中でぽっと浮かんで来たのは

自分は目に見えない大きな力によって生かされたのではないか」ということでした。
  同時に浮かんだのは、四国遍路でお接待をしてくれたおばあちゃんの「私は人のお役にたちなさいと、お大師様に生かされています」という、優しいさの中に毅然とした思いが込められた言葉でした。
 遍路の時には時々聞く言葉だったので、立派な心がけだな〜と思う程度だったのですが、生命の危機を乗り越えたその時は、心にずしりと重みを感じました。
「人の役に立て」と、どーんと背中を押されたような気がしました。
 そして、この生かされた命を何か震災のために役立てようという思いが強くわきました。
  そのため震災後間もない時期からボランティアや慰霊のためにひんぱんに被災地を訪れています。特に東日本大震災が起こった3月11日を祥月命日、毎月11日を月命日と心に定めて慰霊に出向かせていただいております。


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