杜泉新生シルクロード2万キロをゆく7下線付きの項目名をクリックすると詳しい記事にリンクします2009年4月13日(月)[コメント] 私のシルクロード2万キロの旅を、まず写真とコメントで足早に紹介します。 これが終了してから,人びとや自然との出会い、歴史も交えて、それぞれを詳しく紹介します。既に公開した詳しい亀茲は、「はるかなり長安」や「麗しきペルシア」などをご覧ください。 長安名所・旧跡巡り ワンポイント写真集(西安周辺2)唐代のシルクロード出発点から西安古寺巡礼へこの記事では、西の城門で潘おじいさんと偉華さんに見送られて唐代のシルクロード出発点「開遠門」へ向かいます。その後、地図の中の青のマル印の4つの古刹を巡ります。 壁が途切れると道の両側にはビルが立ち、とてもシルクロードのロマンを駆り立てられるような風景ではない。、だが、〈この道は確実にイスタンブールへと繋がっているのだ――〉という思いで眺めていると、気持が浮き立った。まもなく、家の前に「折」と書いた看板が目に入った。質問すると、この家は規定より30センチほど道路側に近いため「3ヶ月以内に立ち退かなければならない」というお達しなのだという。さすが、社会主義国中国だなあと思って改めて、感服?させられてしまった。そういえば、16年前にも始皇帝陵付近で、建てたばかりの家が5軒ほど取り壊されていて、「この家は法律に違反しているので取り壊しを受けた」という意味のことが書いてあったことを思い出した。 繁華街を過ぎると、道の両側には郊外特有の小さな商店や民家が雑然と並んでいる。この辺は、16年前の光景と余り変らない 唐代のシルクロード出発点「開遠門シルクロード出発点群像 城門を出てから3km程走ると、駱駝の隊商達の石像が左手に見えてきた。ここは唐の時代の城壁の跡で、唐代の西の城門・開遠門――唐代のシルクロードの出発点である。シルクロードを旅する人々が必ず通った門があった所だ。 我々がイメージするシルクロードの出発点の本家本元は、西の城門ではなく実はここなのでである。現在は、「絲綢之路起点群像」という、シルクロードをテーマにした石造群が設けられていて、シルクロードの出発点を示す公園になっている。観光客の格好の写真スポットにもなっている。 石造には西域の商人やラクダ隊が彫られていて、当時のシルクロードの情景をいくぶん思い浮かべることが出来る。 先頭の駱駝を引っ張って歩く老人像の後ろに、駱駝にまたがった様々な国の人々の像がある。商才に長けたソグド人を初め、漢民族、アラビア人、ヨーロッパ人…などなど。古代のシルクロードの隊商も、このように多国籍だったのだろう。これは、古代シルクロードを舞台に様々な民族の交流があったことを物語っている。 よく見ると、群像は東に向いており、商隊が西安に到着しようとする姿を現したものである。多くの国の人びとが世界の中心都市長安に集まってくる――というイメージを示したかったのだろう。「世界に冠たる国・中国」のプライドが読み取れる。 一面のとうもろこし畑の中に何本ものポプラの木が生えている。防風の役割で植えられているものだ。センターラインが消えていて、中央を走っている車も少なくない。道路わきに立って子どもがなにやらチラシを配っている。こうした情景がが見れるのは、自転車のお陰だ。 市街南郊には、中国仏教史に欠かすことが出来ない僧侶ゆかりの古刹が点在する。今日の宿泊地咸陽とほぼ同じ方向なので、多少遠回りでも後に悔いを残さないようにすべて回ろうと思う。市内の喧騒を離れて、のどかな風景の中に佇む塔や堂宇を1日かけて訪ねたことは思い出に深く残った。 興教寺[興教寺](クリックすると詳しい記事へリンクします)興教寺は山間に静かに佇んでいる。 興教寺の山門 興教寺の唐三蔵塔 入口を見上げると「興教」と書かれた額が掲げられている。この中には玄奘三蔵の遺骨が収められてるが、もちろん目にすることは出来なかった。塑像が祀られていた。玄奘三蔵院の旅姿の玄奘のレリーフに見られる悲壮感にあふれる強い意志の顔に比べてなんとm穏やかな顔だろうか。そこには一大事業を成し遂げた満足感にみちた穏やかなふんいきがただよっていた。。 玄奘三蔵の塑像 浄土宗の聖地 [香積寺]私の郷里に近いところにも香積寺という名の寺があり、また、四国には四國曼荼羅札所というものがあり、一六番札所が瑠璃山 香積寺であり、名前になじみがあった。興教寺から十数キロ西へ向かう。車のほとんど 通らない一本道を自転車一人旅を楽しむことができた。 香積寺付近をはじめ、集落はどこも桐の花が満開で、 遠くからみるとまるで桜花の春霞のようだ。 かなり手前から香積寺の塔が見えてきた。なんだか四国遍路で次の札所が見えてくるのと同じ気持だ。何かほっとしたものを感じる。ところが、道を聞きながら行ったにもかかわらず、お寺の付近で迷ってしまった。訛りのある中国語でよけいに聞き取りづらい静もあったのかもしれない。結局、とうもろこし畑を突き進んでやっと寺を見つけた。 真っ赤な柱と鎧戸の山門が迎えてくれた。到着した時には、訪問者が私ひとりだけだったので、修行僧に寺の説明をして貰い、修行の様子も見せてもらった。この僧は日本語が少し話せる人だった。 この寺は、浄土宗第3祖・善導大師を記念するために創建されたものである。ここは浄土宗の発祥地なので、日本からもたくさんの宗教関係者が訪れるとのことだ。寄付している人々の名簿があった。 境内ではあちこち修復中で、像に金箔を張ったり、 寄贈者名を石碑に彫ったりしていた。 また、境内には、善導法師像、仏像、供卓、木魚、灯籠などがあり、供卓、木魚、灯籠などはここから日本に伝わったものだ、と説明を受けた。日本から来た遣唐使もこの寺を多く訪れており、日本人の記念碑もあった。 私は、香積寺で初めて中国仏教のお勤めを見聞した。一瞬音楽なのかな?と思ったくらい声高く、リズミカルな感じが印象的であった。日本のお勤めとはかなり違うようだった。 山門 碑楼 善導塔 高さ33メートルで、創建当時は13層だったが頂部損壊し11層になっている。 香積寺についての詳細は、記事の最後のコラムをご覧ください。 鳩摩羅什ゆかりの古刹「草堂寺」(クリックすると詳しい記事へリンクします) 香積寺からさらに西南に十数キロの地点にある。午後5時に近い。さすがに疲れてきた。しかし本日最後の訪問地だ。 [コラム] 香積寺
香積寺は西安の南約17キロの長安県神禾原にある。この寺は仏教浄土宗の第二世善導法師を祭るために建てたもので、境内には善導法師の舎利塔がある。この寺は浄土宗の発祥の地とみなされている。
寺の建立は唐の中宗の神龍二年(706年)善導の弟子の懐[リッシンヘンの軍]によりものである。「天竺に衆香の国あり、仏の名は香積なり」という伝承によって「香積寺」と名付けられたのは善導法師が香積仏に例えたためです。この寺を詠った唐の詩人王維の「香積寺に過ぶ」はあまりにも有名ですある。 「香積寺を知らず、数里にして雲峰に入る。古木碑と径無く、深山いずこの鐘か、泉声は危石にむせび、日の色は青松に冷えかなり、薄暮空潭の曲、安禅毒龍を制す」 この香積寺を包む神秘的で奥深い南山の自然が目に浮かん出来る。 唐代以後の長い歴史の中で、この寺も激しい変遷を経てきた。寺の名が北宋の時に「開利寺」と変わったばかりでなく、建物も長い年月を経てほとんど倒壊してしまった。現在残っている唐代のものは善導法師の舎利塔のみです。この塔は高さ33m、11層の煉瓦造りで、本来は13層あったと伝えられており、風化されて現在のようになった。その精巧で美しい彫刻から、当時の人々の仏教への厚い信仰を読み取ることができます。時代が下がって清の乾隆年間には、この塔の四面に「金剛経」が楷書で刻まれ、塔門には「涅槃盛事」という四文字の額が石刻ではめ込まれている。 香積寺は唐代に非常に栄えた時期があった。当時、懐軍和尚は全国から僧侶を招き、盛大な法事を行い、則天武后や中宋も何度も香積寺を参拝した。 そもそも浄土宗は東晋の時、天竺から中国に伝わって来たので中国における創始者は慧遠で、浄土宗の体系を受け継ぎ完成させたのは善導法師である。そのため、善導法師は第二世始祖と尊ばれ、実際の創始者とみなされている。 善導法師は613年生まれ、俗名を朱と言い、今の山東省の出身で、幼い頃に出家した。645年、善導法師は唐の都長安に移り、しばしば長安城にある光明寺(今の西北大学敷地内)で教義を広めた。彼は全力を浄土宗念仏法門の研究に尽くし、【阿弥陀仏経】一万巻を書き上げました。また、【感無量寿経疎】をはじめ、多くの書を著わし、浄土法門の教相と教義を明らかにしました。浄土宗は「阿弥陀仏」という遥かな悲願を一身に託し、ひたすら念仏を唱えて死後の極楽往生を目指します。「阿弥陀仏」というのは梵語で、無限の光明、無限の寿命、無限の智恵という意味である。 日本の浄土宗の開祖、法然上人は善導の継承者として「三国七高祖」の一人である。法然によって、香積寺は日本の浄土宗信者の発祥地となった。日中国交回復後、日本の浄土宗信者を始め、各界から続々と香積寺に参拝し、善導塔、大殿の修築、改築も急ピッチに進んあだ。日本から贈られた善導法師像は新築された大殿に安置されています。今、香積寺は単に浄土宗の発祥地としてだけででなく、日中両国いの友好の絆としての役割も果たしている。
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2009年04月12日
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