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杜泉新生シルクロード2万キロをゆく13
?H1> シルクロードの守り万里の長城
漢の武帝が匈奴を打ち破って、河西回廊(蘭州〜敦煌)を支配下において、シルクロードを中国の手中に納めたのである。それを守るために万里の長城は大変重要なものであった。
武帝は匈奴防衛のため、また西域各国との通交のため各所に障壁や烽火台を築いた。
旅がもう少し西に進むと、それらが見えてきます。
詳しくは、またその時々に述べるとして、漢の万里の長城や関所を写真で簡単に紹介します。
漢の長城の標示と何層にも積み重なった姿を見せる長城。
造った当時は滑らかな壁をしていたに違いない。
漢の長城は2000年の風雪に耐えて雄雄しく横たわる。
まるで長い恐竜の背中を連想させる。
風化したり砂に埋もれて、とぎれとぎれになっているいる漢の長城
すっかり風化してしまって、これが長城だったのか…と、感傷に浸る。
漢代の長城は、土や砂利と藁が交互に何層にも積み重ねて出来ている。
玉門関と、そこからはるかに延びる漢の長城
玉門関 陽関と並び称される古代の関所跡で、漢代はここが国家の権力が及ぶ西端で、ここから先へ行くのが、本当に西域に足を踏み入れることだった。この関ははたくさんの歴史ドラマを生んだ。ドラマは「玉門関」の記事で…
陽関 陽関はすっかり朽ち果て、烽火台だけがわびしく残る。
河倉城 名前の通り大きな河に面した城塞だったと思われるが、現在では河にまったく水がなく川床があるのみだった。
河倉城は東西132m、南北17m、城塞の壁は高いところで5〜66メートルほど残っているが、ほとんど朽ち果てていた。 香料とした河床と朽ち果てた城塞のコントラストは、2000年のときの長さを無言のうちに語っているよう
だった。
クズルガハ烽火台 嘉峪関よりも遙か西の庫車(クチャ)の北15キロにあり、前漢時代に狼煙をあげた。
漢代には防御する相手が匈奴だったので、西の防御が必要だった。
嘉峪関 明代の万里の長城の西の終点が「天下第一雄関といわれる嘉峪関だ。
南に祁連山脈、西にゴビ灘、東に酒泉盆地を望むこの地に、モンゴル族の侵攻を防ぐために、明代に築かれた。
明代の長城 ここが万里の長城の最西端。嘉峪関から東に向かってまっすぐに、ずうっと遙かまで延びている。砂に埋もれかけているところもあるが、余り風化が進んでいないようだ。だがこの一帯も工業化が進んでいるので、酸性雨などの影響はどうなのだろうか?
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