砂漠はほとんど修羅の道を歩ませる。 しかし、時には素晴らしい優しさを見せてくれる。 ヘディンたち探検家も八分の苦しみと二分の楽しさを味わいながら、見果てぬ夢を探して、命を懸けて砂漠の中を進んだに違いない。 そんな彼らの熱気が、若いわたしをシルクロードに駆り立てたのだ。(2008年撮影)
ヘディンによって千年の眠りから目覚めた幻の楼蘭、
ドイツ語で読んだ『彷徨える湖』
大学生になると受験勉強から解放されて、西域の探検に関する本をずいぶん読んだ。
最も興味深く読んだのは、スベン・ヘディン著 『DEN VANDRANDE SJÖN』(さまよえる湖)だ。
ドイツ語の勉強も兼ねてドイツ語の原書にチャレンジした。
スベン・ヘディン 『DEN VANDRANDE SJÖN』(彷徨える湖)
ドイツ語の辞書を片手に、日本語訳と対比しながら読んだ。
日本語版よりも写真が多いのも魅力だった。
ヘディンはスエーデン人であるが、ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導を受けた。
また、ヒトラーの援助も受けた関係上、ドイツ語で執筆したものと思われる。
?H3> 偶然だったヘディンの楼蘭の発見
楼蘭が長い眠りから覚まさて
『DEN VANDRANDE SJÖN』に掲載されている写真を中心に、発見当時(100年ほど前)の楼蘭故城の様子を紹介しましょう。
楼蘭は、ロプ・ノール探しの、いわば副産物として発見された。
スヴェン・ヘディン探検隊の従者が鋤(すき)を忘れて引き返したところ、
偶然にも大きな廃墟を発見した。
しかし、水不足のため引き返すのを断念し、翌年発掘したところ、
その近くにあったより大きな遺跡である楼蘭故城を発見した。
出土した古文書から、楼蘭の遺跡であることを明らかにし、
4世紀に滅んだと考えた。
写真は、発見者のヘディンの従者、ウイグル人のエルデク
DEN VANDRANDE SJÖN』(さまよえる湖)に掲載されている写真で、調査や発見の様子を紹介します。
ヘディンがスケッチした探検隊の様子 楼蘭遺跡付近
上の2枚は私が訪れた時の楼蘭遺跡付近(2008年撮影)
住居跡 建材は胡楊
住居跡(2008年撮影)
ヘディンがスケッチしたタマリスク
さまよえる湖ロブノール(ヘディンのスケッチ)
さまよえる湖ロブノール
ロブノールをカヌーで下るヘディン ロブノールの大魚
湖上のヘディン
感動にうちふるえたヘディン
ヘディンは楼蘭王国との対面を、まるで初恋の乙女乙女の胸のたかまりのように、心をうちふるわせてその興奮を述べている。
―― 遠い昔に人類が生活していた明らかな痕跡や遺跡を探りあてたとき、探検家がどんなに心をはずませるものか、その喜びを、筆や口で表現することはとてもできない。わたしもそのような喜びにひたったことがある。
それは1900年の3月28日に、古い中国の軍事植民地である楼蘭の遺跡を発見するという幸運をつかんだときであった。(中略)……
目をつむると、はるか昔に消え去ったこの町の住民たちが、あたかも冥府の幽鬼たちのように、私のまわりをさまよい過ぎてゆく」(アルバート・ヘルマン著、松田寿男訳『楼蘭』に寄せたスェン・ヘディンの序文より)
===== スタインの再発見 =====
ヘディンと双璧をなす中央アジアの探検家であり、考古学者でもあったオーレル・スタインは、楼蘭発見の様子を次のように書きとめている。
―― ラクダのひどく歩きにくい道で悪戦苦闘したすえ、私たちは、遂に楼蘭に到着した。古代の埋葬地を発掘してみると、一連の墓穴が現れ、そのなかから豊富な考古学上の収穫物が、まったくぼうぜんとなるほどごちゃ混ぜの状態で出てきたのであった。人骨や棺の破片に混じって、あらゆる種類の埋葬品があった。
とりわけ「極彩色の大量の絹」は、大発見であった。それは、楼蘭がまちがいなく絹貿易の通商都市であることを証明するからであった。同様に見のがしえない重要事は、ギリシャ美術様式の歴然とした精巧な細工の羊毛のつづれ織りが見出されたことであった。(沢崎順之助訳『中央アジア踏査記』)
ヘディンやスタインが楼蘭に対面し、多くの考古学的な物品を発見した時の感動と喜びはいかばかりであったろうか!
―― 想像しただけでわくわくした。
この感動があるから、彼らは砂漠に命をかっけるのだ。
あの時代に生まれていたら絶対探検隊に志願していたに違いない、と確信した。
シルクロードの歴史を読み、こうした探検記を読めば読むほど私の「シルクロード熱」は高まっていった。
楼蘭の女性たちはこのような極彩色の絹織物を身に着けていたに違いない。
私が2008年糸図13ラワクた時の様子や、書庫の『11楼蘭横への砂漠の旅 』をクリックすればご覧いただけます。
次回の「シルクロードへの熱い想い」の記事では、「楼蘭の美女の発見」を紹介します。
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