|
震災発生以降、ずっと温めてきたそうです。 分娩の予定が入っていて動けず、半年経過してやっとその調整が出来たとのこと。 命を繋ぐ仕事の助産師さん。 ありがとうと言いたい。 そんなこんなで、やっと行けることになった。 場所は、南三陸町歌津名足地区、、、、 一度も焚き出しが来たことの無い60余名の地区・・・・ きっと喜んで貰えるでしょう♪ 支援戴ける方が居たらお願いします。 私は、今回、支援金のみとなりました。御免なさい・・・
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年09月27日
全1ページ
[1]
|
防波堤の高さの設定は、机上だけではいけない。
実際に見た人々が今たくさんいる。その意見も聴いて決めるべきだ。 岩手県は26日、東日本大震災の津波で破壊された沿岸部の海岸10か所の堤防を9・7〜15・5メートルの高さで再建すると発表した。 さて、どうなのだろうか・・・? この、防波堤の高さを決めることは非常に難しい。 色々な視点があるからだ。 3.11前まで、岩手県沿岸には、ほとんどのところに、DL=8.0mの津波防波堤があった。 しかし、今回の津波は、いともたやすくその防波堤は、超えて、住宅地に襲いかかり、多くの死者、行方不明者をだした。 ↓↓家の前の、明戸海岸の津波防波堤。無残な壊れたかをしている。 下の表を見ると、なんと田野畑村が津波痕の高さは一番高いではないか・・・。 まあ、確かに現場を見ると素人でもそれはわかる。 例えば、島越の三陸鉄道の橋桁のレールの高さは地盤から16mあり、その地盤は7.5mあった。 つまり、レールの高さはおよそ、DL=23.5mということになる。 それよりも高ったのは、この壊れ方を見ると明らかだ。 防波堤の高さの設定は、色々な考え方があり難しいと思う。 1.防波堤で完全に津波を入れない。 2.発生頻度の低い津波。ある程度は越波も覚悟して、住民を高台に逃げさせる。 という2つの視点があると思う。 不思議なのは、なぜ地域によって、今回の3.11東日本大震災の津波を参考にして防波堤の高さがちがうのか・・? そして、津波痕の高さと比例していない・・。どうしてなのだろうかと素朴な疑問が出てくる。 津波は、震源によって沿岸に押し寄せる波の方向が違う。それによって地形などがあり、津波の高さは違ってくる。 明治29年の津波も今回の津波と規模はだいたい似ていると思うが、あの時の震源は北緯39.5度、東経144度である。 ↓↓明治29年の大海嘯の画像。 だいたい釜石沖付近の遙か沖である。 当然、今回の津波とは角度が違ったはずだし、地形によって駆け上がった波の高さも違うと思う。 それを、今回の津波痕だけで決めていいものなのだろうか・・? 将来、全く予想もつかない震源。大きさも・・。 素人がどうこう言うのはおかしいかもしれないが・・。 机上の計算だけでなく、ぜひ本当の3.11の津波を見た人々の証言を聞いて防波堤の高さも決めるべきだと思う。 今回の3.11の津波は、第1波は小さくて(と言っても10mはあったが)その引き波と同時に大きな第2波が着ている。そのため、各所で渦を巻いてるのが大きな特徴だと思う。 つまり、引く波と寄せる大波がぶつかって、思いもよらぬ高さになってる箇所もあるのだ・・。 まさに想定外のことだらけのことが起きる。なかなか、津波については、最先端の自然科学などの学問だけでは、その想定は難しいと思う。 ↓↓渦を巻いて、太い鉄鋼が飴のようにねじ曲げられている。渦巻き状態になったためだと思う。 今回の津波で強く思ったのは・・。 地震が来たら、10センチでもいいから高いところにすぐに避難することだという昔からの言い伝えだった。 多くの犠牲者を出した教訓を最大限に活かして、今後の防波堤の計画づくりにやくだててほしいものである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 新堤防、9か所津波痕より低く…岩手県が再建案 読売新聞 9月26日(月)22時3分配信 岩手県は26日、東日本大震災の津波で破壊された沿岸部の海岸10か所の堤防を9・7〜15・5メートルの高さで再建すると発表した。 新堤防はいずれも被災前と同じかそれ以上の高さになるが、9か所が今回の津波痕跡より低く、最大で8・7メートルの差がある。県は、避難路の整備や土地のかさ上げなどと組み合わせて人命を守ると説明している。 震災で、県内の24か所の海岸の堤防は、総延長約68キロ・メートルのうち約50キロ・メートルが被災した。県は専門家による津波防災技術専門委員会を設けて新しい堤防の高さを検討し、今回の震災の津波については「最大クラスで発生頻度は低い」と判断。 「数十年から百数十年に一度発生する頻度の高い津波」として昭和三陸地震(1933年)などを想定し、今回のような津波に対しては、避難ビルの整備などを組み合わせて住民の生命を守ることにした。残る14か所については来月発表する。 最終更新:9月26日(月)22時3分
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110926-00001064-yom-sociーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 漁師きんちゃんのWEB
沖で捕って、一旦、生簀で活かして、すぐに船で箱詰め作業します。 きんちゃん「船揚げの究極、鮮度抜群の魚介類」です。 「田野畑 漁師の直売所」しました。 ↑↑ポッチ。ぜひご覧ください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「ザイタスランド」は東日本大震災で被災した事業者の復興を応援する
”予約購入型復興支援サービス”です。
掲載していただいております。みなさん応援してください。
津波に奪われたささやかな夢をもう一度。生涯現役漁師でいたい。
|
|
地球上で最も放射能が強い場所トップ10が公開される
http://www.yukawanet.com/archives/3949558.html 地球上で最も放射能がキツイ場所と言えば・・・というトップ10が発表されました。 チェルノブイリや福島などはメディアや歴史の教科書などで知っている方も多いのですが、 それ以外にも実は原発事故が発生し今もなお放射能が漏れ続けている場所があると言うのです。 原発は安全というのはいったいなんだったのか?と疑うような事故例の多さです。 チェルノブイリ原発事故を抑えて、1位を飾ってしまった不名誉な原発事故を抱えた福島。 何より恐ろしいのが、今もなお高濃度の放射能がまきちらされているであろうという推測にしか過ぎない情況であり、 情報の統制がとれていない状況であること。 チェルノブイリと同様徐々にその情況が明らかになるのでしょう。
ニッポンブログ村倫理道徳部門でランキング中です。
ご協力お願いいたします。
↓をクリックいただくだけで結構です。 https://philosophy.blogmura.com/rinri/にほんブログ村 倫理・道徳
|
隠された経典はどうなったのか?小説『敦煌』で、主人公趙行徳が莫高窟に隠した経典は、その後どうなったのだろうか?高校生の私には、そのことがすごく興味があった。 大学生になったら絶対に調べてやろうと思った。 小説で趙行徳が隠したと設定されているが、実際には、 いつ、誰が、どのような事情で、17靴に蔵経して封じたのだろうか? 大雑把に言うと、二つの説がある。 その1 西夏が敦煌に攻めて来るというので、それに備え、仏典を護るために封じたということで、 1304,5年。 小説「敦煌」はこの説に基づいて書かれている。 その2 中国の西端のカシュガルで興ったカラハン王朝が東を攻め、当時敦煌を支配していた西夏を攻 め落とそうとしていた。 仏教を尊信していた西夏は、それに備えて敦煌の仏教徒に蔵経堂を封じさせた。 実際はどうだったのだろうか? この謎はいまだに解明されていない。 敦煌の莫高窟には、4世紀から元代の14世紀までの千年の間窟が掘られ、 塑像が造られ壁画が描かれたが、唐の時代にその盛りを迎えた。 多くの王朝の消長に伴い、敦煌の地も漢民族の支配をうけたり、周辺の民族の支配下にあったりと、 めまぐるしく変転した。 それを反映して莫高窟には、唐のほか、 十六国、北魏、西魏、北周、隋、吐蕃、西夏、元の各時代の特色を持った窟が存在する。 それらの石窟は、南北1600メートルにわたって連なっている。 私は3度訪れ、述べ15日見学したが、それでも半分も見ることができなかった。
小説『敦煌』で、敦煌を征服した 西夏も、熱心な仏教徒であるためいくつかの窟を造営した。←詳しくはクリック
隠されてから元代までは石窟には多くの人間が出入りしたはずだが、 見つからなかったのは不思議なくらいである。 明の時代になると中国王朝の支配範囲が狭まり、仏教に熱心でない民族に支配されたため、 保護されることなく敦煌は孤立した。 そして放置され、砂に埋もれてしまったのである。 それがむしろ敦煌にとって幸いしたとも言えるだろう。 現在でも、手を施さないとたちまち砂にうずもれてしまうそうで、苦労して管理している。 莫高窟の発見は偶然だった。敦煌の膨大な美術が注目されるのは、二十世紀の初めの偶然の発見だった。廃虚のようになった莫高窟に住み着いていた王円籙という坊さんが十七窟に膨大な経巻、刺繍、絵画、仏典がぎっしり詰まっているのを発見した。 隠されたのが11世紀だと仮定すると、20世紀に発見されるまで、1000年近くも気付かれることなく洞窟の中で眠り続けたことになる。 外国へ持ち出された文物は?敦煌から膨大な文物が見つかったというニュースはたちまち外国に流れ、イギリスのオーレル・スタイン、続いてフランスのペリオ、さらに日本の大谷探検隊などが次々敦煌を訪れた。 持ち出された文物はいま、大英博物館、同図書館、パリ国立図書館、ギメ美術館など世界各国にあり、その数は何万点にものぼる。 この海外流出については、先進国による“略奪”という評価がある一方で、それらの流出があったからこそ、保存の手が打たれたという評価もある。 敦煌研究院莫高窟の入口のすぐそばには敦煌研究院がある。そこで、学芸員にいろいろ説明してもらった。 前身の「敦煌芸術研究所」が1944年2月に設立された。 私は1989年と2005年と2008年と3度訪れた。 最初の訪問の際に西安のPさんに紹介してもらって以来、 写真撮影に協力してもらったり、資料を提供していただいたりなど、手厚く配慮していただいている。 感謝! 感謝! 創立者の常書鴻氏は、私が最初に訪れた時、こんな話をしてくれた。 絵画の勉強に留学したパリで、ペリオの著した『敦煌千仏洞』に出会い、 故国の美術品の保護を決意した。 1942年、パリ時代の油絵を売って旅費を作り、 列車やラクダを乗り継いでやっと着いた莫高窟は荒れ果てていた。 日中戦争が終わり、「敦煌文物研究所」になったころから研究は進み始めたが、 文化大革命により敦煌市内の文化遺産は破壊された。 しかし、当時の周恩来総理の「文物保護」の命令もあって、莫高窟は被害を免れた。 ?H3>敦煌莫高窟の過去記事 ぜひご覧ください。 画面左の書庫「7 敦煌莫高窟」をクリックしてください。 かなり以前から、石窟内の撮影は禁止ですので、貴重な写真をご覧いただけます。 |
全1ページ
[1]





