|
ジャスミン革命
「アラブの春」の先駆けになったのは、ここチュニスである。
出かける前、「チュニジアへ行く」と言ったら、
みんなからは一様に、「そんなとこへ行って大丈夫なの?」と、一様に不安の言葉を投げかけられた。
「俺一人で行くわけじゃないんだよ。今回はツアーなので旅行社は十分に安全を確認しているはずだよ」と、自信を持って平然と答えていた。
もちろん安心してやってきた。
逆に、何かそれらしきことはないのか? と興味津々だった。
歴史好きの私にとっては、革命前のチュニジアは、紀元前のカルタゴとハンニバルの印象が強かった。
だから、「一度は行ってみたい国」ではあったが、もっと興味を持っている国が多くて、後回しになっていた。
ところが、2011年1月14日に、アラブ穏健派と言われていたチュニジアで政変が起こったのだから驚いた。
直接の原因は失業中の若者が無許可で野菜を売っていたところ警察から停止させられ、これに抗議して焼身自殺を図ったのだが、それがインターネットで広まり抗議行動が暴徒化したからだと言う。
① チュニジアは2010年の経済成長率が3.8%だったと見られるなど、決して経済状況が悪いわけではなかった。しかし失業率は14%、若者層に限れば30%近いという高い水準であったため、これらの世代では経済成長の恩恵を受けられないことに不満がたまっていた。
②加えて、1987年に無血クーデターによって政権を獲得したベン=アリーはイスラム主義組織と労働者共産党に対し抑圧を行いながらある程度の経済成長は果たしたものの、一族による利権の独占といった腐敗が進むなど、23年にも及ぶ長期政権に不満がたまっていった。
こうした背景が暴動に結びついたとみられている。
それまで23年間独裁政権を維持してきたベンアリ大統領がサウジアラビアに亡命した。
エジプト・ムバラク大統領(左)を迎えたチュニジア・ベンアリ大統領(右)
その後をベンアリ政権の閣僚と野党指導者が暫定政権を作ったが、民衆はベンアリ政権の残党が政府に残っているとしてしばらくはデモが続いた。
二人の暫定大統領の後、現在はやはり暫定のムンセフ・マルズーキー氏が大統領を務めている。
市民革命以後のチュニジア
ベンアリ政権崩壊後、自由にものが言えるようになったこともあり、チュニス市街は何事もなかったがごとく平穏な様子だった。
ジャスミン革命を通してチュニジア社会はどのように変わったのだろうかか。
現地ガイドや旧市街で出会った人々などの声を聞いてみた。
「昔はいたる所に警察が立っていて、政府の悪口を言えばすぐに捕まった。警察官が賄賂を要求してくることもしばしば。今は本当に自由な空気になった」と、現地ガイドは語っていた。 首都チュニス市内で注意深く見ると、首相官邸など要所に軍事車両などが停められてはいるが、基本的に街は平穏を取り戻していた。 以前は取り締まられていた言論も随分自由になったという。
政府の政策などに対して首相官邸の前でデモもおこなわれ、自らの立場を表明することもできるとのことだったが、我々が官邸前を歩いて通った時には、そうして気配は見られなかった。
官邸前は有刺鉄線をばねのように巻いたもので物々しく囲まれていた。だが、守衛の兵隊たちはのんびりと話に花を咲かせていた。
平穏とい言いつつも、一部では一応警戒が続いているとのことだ。 暴動時、ベンアリ元大統領の息がかかっていたフランス系小売りチェーン店モノプリは、標的の一つにされ略奪が発生した。現在でも市内にある他のスーパーマーケットと比べて警備は厳しいとのことだ。一人旅ならばそこへ行ってみたいところだが、今回はツアーなので行けなかったが、車窓から数枚撮影できた。
チュニジアはリビアやシリアなどで起きた運動と比べて、比較的早く収束したが、他のアラブ諸国で起きた混乱をどう考えているのだろうか。 旧市街見学の自由時間に、カフェで水煙草を吸っている人たちに意見を聞いてみると、
「チュニジア人は考え方がヨーロッパに近い。その点、民主化への移行もスムーズだし、リビアなどと違い泥沼な混乱はしないんだ」と胸を張っていたのが印象的だった。
様々なことが自由になった反面、行政システムのゆるみも出てきているとのことだ。例えば郊外の住宅地では、週に1度あるゴミ収集が半月以上過ぎたのに、まだ来ていないという。 確かに、街も村もあちこちにごみが散乱していた。 住宅街も周辺はゴミだらけ
砂漠のあちこちにビニールのごみが散乱しています。 服装も自由になり、ベンアリ政権時代には禁止されていた、チャードルやマグナエ(スカーフ)なども認められたので、他のイスラム国よりは少ないが結構見かけた。
商品を買ってにこっと笑いながらカメラOK? |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年02月24日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]







