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マルコ・ポーロも見た大仏寺の釈迦涅槃仏
旧市街を見終えてTさんとの待ち合わせ場所大仏寺へと向かった。
マルコ・ポーロは、大仏寺について、見聞録に記している。これを実際に見るのが張掖での最大の楽しみである。
現代という時間に生きるわたしは常々、昔の人々の時間はどうやってどのように流れていたのかを無性に知りたくなるときがある。マルコ・ポーロが見た釈迦涅槃仏を自分が見るということは、遠い昔に存在した人物と同じ空間を共有するということになる。このことは、彼の生き様の一端を追体験させてくれるものである。
『東方見聞録』の記述は客観的、写実的だが、ものの見方の表現からマルコ・ポーロの感覚も伝わってくることが多い。600年以上も後世のわたしが見て感じることと、マルコ・ポーロが感じたことを比らべてみたい……。
そう思うと自然に足取りが早くなった。柳の街路樹のある通りを歩くと、あっという間に山門へ着いた。
大仏寺は、創建は西夏の永安元(1098)年。始めは「迦葉如来寺」と呼ばれたというが、元代には十字寺、明代には宝覚寺と呼ばれ、清代に勅命によって宏仁寺となった。普通には大仏寺と呼ばれている。また、元のフビライがここで生れたという伝説もある。
大仏寺前
円形の小さな入口をくぐって境内に足を踏み込むと、そこには静謐な空気が漂っている。3時過ぎということもあり、参拝者や観光客の姿はまばらだ。広大な寺院内には、大仏殿、蔵経殿、土塔などの古建築がならび、いかにも古刹といった佇まいだ。
正面に大仏殿が建っている。建物には塗装などは施されておらず、柱もはめ板も触ってみなければ木であることがわからないほど灰色を帯び、人を寄せ付けない迫力があった。
大仏殿
扉から薄暗い堂の中に入ると、そこには朱色の布を巻きつけた大仏が横向きになって寝ていた。これこそが私が対面を楽しみにしていた涅槃仏である。
横の長さ35メートル、肩幅8メートルにもある。全身が泥で出来ている釈迦牟尼の塑像である。
涅槃仏のちょうどおへその下あたりから見ると目を閉じているように見えたが、顔のそばへ行くと、その目は大きく見開かれている。奈良にしても鎌倉にしても、大仏の顔ははるか上にあり、遠くからしか見ることが出来ないが、ここの涅槃仏はその顔をま近に見ることが出来た。切れ長の目元と厚い唇に微笑をたたえている。
――涅槃像は釈迦の入滅の姿を現しているのになぜ目を開けているのかと、疑問に思って以前調べてみたことがあった。「釈迦は不滅であることを示している」からである。
この涅槃像は中国に現存する泥塑臥仏としては最大のものである。涅槃像の表情にはどことなく愛敬のある明るさがあり、回廊を回りながら、幻となった西夏の人々に思いを馳せると、涅槃像の大きな目の表情などが心に残るような気がする。
涅槃仏を囲んで、背後に迦葉阿難らの十大弟子、両脇には十八羅漢と計28体の塑像がある。周囲の塑像の表情も変化に富んで、西方的なエキゾチシズムを漂わせている。
回廊を回る壁面には仏伝や『西遊記』の故事を表す壁画があり、迦藍の内部全体が、ひとつの演劇的空間を構成していて見応えがあった。大仏殿の入口の左右の外壁に一対の精緻な石刻レリーフがあったが、これも見ものだった
マルコ・ポーロは次のように描写している。
「偶像教の寺院・僧院の数も多く、そこには例のごとく無数の偶像が安置されている。これら偶像の中には、実際に十ペースにも及ぶ巨大なものがあり、その素材も木あり粘土あり岩石ありといった多様さであるが、一様に塗金されて、細工もなかなかすぐれている。巨像は横臥の姿勢をとり、その周囲には、うやうやしくこれにかしずいている多数の肖像が取り巻いている」(前掲書より)
彼が見た涅槃仏や周囲の弟子たちの姿と、私が目の当たりにしている21世紀のそれらの姿はほとんど変わりがないように見える。『東方見聞録』は誇張やおとぎ話も少なくない――という認識を持っていたが、東方見聞録の一節が、間違いなく今、私の目の前に広がっている。これは紛れもない事実だ。
この発見は大きな驚きだった。それとともにマルコ・ポーロに信頼と親しみを感じた。
この涅槃仏が造営されたのは、1098年,西夏永安元年である。
西夏、そして元と、漢民族以外の民族が河西回廊を支配していた時代が長く続いが、彼らは漢民族の文化に対抗する文化をもってなかっため、仏教文化が引き続き栄えていた。
マルコ・ポーロが涅槃仏を見たのは、この仏様が作られてからざっと200年後である。彼は多数の仏教信者に囲まれてここに立っていたのであろうか。当時は寺も仏も色鮮やかだったに違いない。
蛇足になるが、マルコ・ポーロはこの涅槃像に触れた後で“偶像崇拝教徒”がさほど性道徳において禁欲的でないことなどを報告している点は面白い。
このほか境内には、大仏殿のうしろに蔵経殿がある。ここには7000余件の経が集められているという。
さらにその奥に、明代創建といわれる高さ33mのチベット仏教式の土塔がある。台座の部分が丸く膨らんだ真っ白な仏塔があり、その頂につけられた小さな鐘たちが風に揺られて軽快な音を周囲に響かせている。
Tさんの説明によれば、この様式はチベット仏教特有のものらしい。確かに現代ではこの河西回廊と、中国共産党政府が定義したチベット自治区とは遠く離れてしまい多少の違和感を生むが、もともと張掖のすぐ南にある青海省はチベット文化圏であり(ダライ・ラマ14世も青海のかなり中国寄りの街の生まれだ)、この場所を様々な信仰を持った王朝が取り合った時代の名残りであることがわかる。
土塔の前の仏教展庁では、「皇帝聖書」(明の時代の皇帝の肉筆)、教典(「妙法蓮華経」木刻版の写真など)、「大唐西域記」などがの展示があった。
張掖には隋代に創建された万寿寺木塔があるので足を運んでみた。
高さ33メートルの八角九層の塔で、市内や祁連山を一望することができた。
この木塔を夜に訪れてみると、きらびやかな光に包まれて、現代と古代とが交じり合った独特の雰囲気を放っていた。マルコ・ポーロがこの寺を夜に訪れていたならば、怖いほどの静寂と暗黒に包まれていたであろう。
鐘楼の前を通ると、ここもライトアップされていた。中国はライトアップがお好きのようだ。
シルクロードでは張掖の大仏寺以外にも炳霊寺、大仏寺などほとんどのところで、大仏や涅槃仏のご尊顔をまぢかで拝することが出来た。
大仏寺付近で、赤ちゃんを抱いた美人さんに出会いました。
わたしは仏教徒ではありませんので…、と言ってはにかんだ表情がたまらなかったですね〜。
「あなたは仏教徒ですか?」という彼女からの質問には少々困りました。
「一応仏教徒です」と答えると、彼女はちょっと怪訝な顔をしました。
それはそうですよね。
きっと彼女は熱心な回教徒なのでしょう。
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