心ふるえた小説『楼蘭』
私が、シルクロード小説に始めて出会ったのは、中学生の頃だった。それは、井上靖作『楼蘭』である。実は読んだのではなく、耳で聴いたのだ。その頃私は、NHKラジオ「朗読の時間」を楽しみにして聴いていた。
この作品が朗読された初日――『楼蘭』という耳慣れない題目を聞いた一瞬、<なんだこりゃ〜>と思った、そして井上靖という著者の名前を聞いて、正直いうと、興味はさらに遠のいて行った。どちらも初耳だった。何せ中学時代のこと、夏目漱石や芥川龍之介といった文豪の名作を期待していたのだ。
ところが、出だしの「往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さな国があった」という文が読み上げられたとたん――、失望は期待に変った。「西域」という言葉は私の、憧れの言葉だからだ。胸がジンジン高鳴った。「楼蘭」ってどんな所だろう――想いは遥か…まだ見ぬ楼蘭に飛んでいた。
「楼蘭が東洋史上にその名を現してくるのは紀元前百二、三十年頃、(前漢の時代)で、その名を史上から消してしまうのは同じく紀元前七十七年であるから、わずか五十年程の短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在していたことになる。いまから二千年前のことである」…朗読は続いた。ここまで来ると完全に興味が引き込まれてしまった。第1回目の朗読が終わると、次回が楽しみになった。
漢と匈奴という強国に挟まれた弱小国「楼蘭」は、匈奴の掠略から逃れるために住み慣れたロブノール(ロブ湖)湖畔の土地を捨てて鄯善に移り住む。その人々にとってロブノール湖畔の故地「楼蘭」は、いつかは帰るべき場所だった。しかし、その数百年後、楼蘭を取り戻そうとした鄯善の若い武将が湖畔に立つが、楼蘭も湖も…、そこはすでに砂の中に埋もれてしまっていた。得も言わず哀愁に満ちた語り口調と音楽が心に染みた。だが私の想像の目には、青々としたロブノールと、オアシスの中に光り輝やいて建つ楼蘭の都がはっきりと見えた。センチメンタルな気分が夜寝るまで続いていた。
翌日の放課後、さっそく電車に飛び乗って書店へ出かけ、『楼蘭』を買い求めた。当時の本は講談社発行のものだった。世界史地図帳と年表まで買って、傍らに置いて小説に出てくる西域の小国の位置を確認しながら夢中で読んだ。
西域が中国にとっても北方民族にとっても重要な地域であったこと、西域諸国はこれら二大勢力に挟まれて常に翻弄され続けて哀しい運命を辿ったこと、それでも尚且つ西域諸国の人々は自国に誇りを持ち続けたことが、生き生きと伝わってきた。自分も完全にその中に入り込んでいた。小国の悲哀とそれにも関わらず抱き続ける自尊心には深い感銘を受けた。この小説は60ページの小品ではあるが、中学生のわたしでも、何か非常に深い人生や歴史が刻み込まれているような気がした。これから歳を重ね、人生経験を積んで読むとまた新たな発見があるのではないか……そんな期待を抱かせてくれた。成人になってから2冊目(新潮文庫)を買って、その後さらに二度読んだ。
この小説『楼蘭』は、ロブ湖畔で若い女のミイラ――後に私はこの美しい女性のミイラとウルムチの博物館で待ち焦がれた対面を果たしたのだが――を掘り出したスウェーデンの探検家、ヘディンの『彷徨える湖』を題材にしている。ヘディンは、ロブ湖は1500年周期で彷徨っていると推定している。
この短篇は五部からなる。一部では漢と匈奴に挟まれて両国からの圧力を受ける楼蘭の状況を、二部では匈奴の攻撃を避けるために楼蘭を後にする楼蘭人の姿を、三部では主人を失った楼蘭の荒れ果てた姿を、四部では四世紀後半に楼蘭を奪回しようとする若き楼蘭人の指導者の姿と楼蘭の消滅を、五部では20世紀初めのスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによる楼蘭発見を描いている。
『楼蘭』は不思議な小説である。西域に実在した楼蘭を描いた歴史小説なのだが、主人公が登場しないし、台詞もほとんどない。敢えて主人公を挙げれば、それは人物ではなく、楼蘭であり、楼蘭の象徴とも言うべきロブノールであり、その守り神である河竜なのである。だが主人公が登場しないことで、特に違和感を感じさせない。かえって、短篇でありながら大河小説のような雄大さを感じさせる。優れた構成力を感じさせる。
楼蘭とロプノールに関する文献は少なくない。最古のものは、漢代の『史記』(匈奴列伝など)であり、その後の『漢書』にも記載されている。三十代に、これらは日本語版で読んだ。これらに興味深かったが、やはり私にとっては、19世紀末から20世紀初頭にかけての、外国隊の中央アジア探検記の方が馴染みがあって面白かった。中でもヘディンの『彷徨える湖』が、砂漠への憧憬をより強くした。
『楼蘭』にはまり込んだ中学時代の私は、井上靖のシルクロード関係の本を、次から次へとむさぼるようにして読んだ。皮切りは『敦煌』だった。
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