東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2016年03月

← 2016年2月 | 2016年4月 →

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


津波記念碑の教訓と避難の心得

津波が収まってから津波記念碑がどうなったのか気になって下りて見に行った。津波は石碑よりも高いところまで来たのだから、案の定濡れてはいたが無事立っていた。
以前は書いてある内容はあまり気に留めなかったが改めて見てみると、
大震嘯災記念碑」と書かれている。
これは昭和8年3月3日の昭和三陸沖地震の折、津波がこの地点まで到達したことを示すために立てられた。今度の津波はそこを越えて来たことにになる。

 少し読みづらかったが、判読イメージ 1読することができた。
「地震があったら津浪の用心」「それや来た逃げよう五本松」
と刻まれていた。地震が来たら津波を用心せよ、津波が来たら五本松の高台を目指して逃げよ、という教えを書いたものだ。

我々の避難行動は結果的にはこの教えに適っていたのだ。
また、東北地方には、
「津波てんでんこ」という、津波避難の教えがある。
津波が来たらてんでん(それぞれ個々)に避難して身を守れ」
という教えである。
もしも私と行動を共にしていた人がいたならば、私が大岩に襲われた時、私の直前にいた人は直撃を受けただろう。   翌朝撮影した津波記念

                                  
 こうした碑は三陸各地にあるが、大きな津波がここまで上ってきたという津波の恐ろしさを知らせる警報の役割を果たしている。
しかし、私は震災後多くの被災地に出向いたが、せっかく津波の到達点を示す石碑・津波石があっても判読不能でその役割を果たしていないものを多く見かけた。         

東日本大震災の場合も当然こうした石碑が必要である。我々は維持管理が行き届いている寺院に慰霊塔や津波記念碑や教訓を書いた石碑などの建立していただく活動を継続している。


津波記念碑より高い地点まで必死に走る
南北両方向から押し寄せた二つの津波の激突によって超巨大化した津波が避難した50mほどの高台に迫って来た。高台の高い崖をよじ登って来るようにして押し寄せてくる。黒い巨大な水がぐんぐんと迫って来た。とにかく必死でより高い方へと駆け上がった。後ろを振り返っている余裕など全くない。その地点から50mほど離れた所、標高にして10mほど高い地点昭和8年3月3日の三陸沖地震の到達点を示す津波記念碑がある。とにかくその碑以上高いところまで逃げようと必死で走った。こんな時には普段ジョギングで鍛えているのが役立った。碑を通り越してさらに30mほど走ってからどうなっているのかと気になってやっと後ろを振り返ってみた。すると10数mほど手前で波が引き始めているのが見えた。〈あ〜どうやら助かったのだな〜〉という安心感とより、恐怖から解放された虚脱感に似た思いだった。まだ頭が働いていない状態だった。ただぼんやりと津波後の波のうねりを眺めていた。その後津波は次第に弱まり、結局第4波まで来たが、その様子を眺めながら次第に思考がよみがえってくるのを感じました。
 
生かされた命
その時ぼんやりとした思考の中でぽっと浮かんで来たのは

自分は目に見えない大きな力によって生かされたのではないか」ということでした。
  同時に浮かんだのは、四国遍路でお接待をしてくれたおばあちゃんの「私は人のお役にたちなさいと、お大師様に生かされています」という、優しいさの中に毅然とした思いが込められた言葉でした。
 遍路の時には時々聞く言葉だったので、立派な心がけだな〜と思う程度だったのですが、生命の危機を乗り越えたその時は、心にずしりと重みを感じました。
「人の役に立て」と、どーんと背中を押されたような気がしました。
 そして、この生かされた命を何か震災のために役立てようという思いが強くわきました。
  そのため震災後間もない時期からボランティアや慰霊のためにひんぱんに被災地を訪れています。特に東日本大震災が起こった3月11日を祥月命日、毎月11日を月命日と心に定めて慰霊に出向かせていただいております。


崖崩れ最中の津波避難
永久に続くかと思われた猛烈な揺れもさすがに峠を越し、次第に現実の世界に引き戻された。
すぐに頭をよぎったのは津波だ。海面がぐんぐんと下がって行き、砂が見えてきた。誰からともなく、「津波が来る。逃げなくちゃ!」という声が上がった。黄金山神社方面の高台へ上るのが最善だが、崖崩れがまだ続いている。しかも上り口付近の道は大岩や木で埋まり所々で半分ほど崩落している。躊躇せざるを得ない。

イメージ 1

これまで宮城県内では震度5〜6の地震が何度か起きていたが、せいぜい1、2メートルほどの津波だったので、待合室の屋根か隣のお土産屋の二階へ上ることも一瞬頭に浮かんだ。しかし、その直後、防災無線のスピーカーから「6m以上の津波が来ます。全員高台に避難してください!」という放送が鳴り響いた。これで我々の行動意志が決定した。今思うと、この放送は命の恩人と言ってもよいだろう。危険を覚悟で一斉に高台を目指して上り始めた。右側の崖からの落石をかわし、海に転落しないように注意しつつ、倒れた木や岩を乗り越えてひたすら上った。

イメージ 2

途中で何度も余震が起こり、そのたびに岩がごろごろ落ちてくる。私自身はこれまで、生活や旅の中で死と向き合うような危険に四度遭遇している。そのため比較的冷静だった。このような歴史的大地震の実態を記録に残しておかなければならない―― これが現場に遭遇した作家の使命だという意識が働き、危険を冒しながらも頻繁にシャッターを押した。

撮影のお陰で命拾いした瞬間があった。振り返りながら後方を撮影し、再び前方に向き直った瞬間、前方10m程に亘って大岩が落下してきた。思わず体は硬直し、目は見開いたままだった。撮影せずに歩いていたら確実に直撃されていたにちがいない。数えてみるとその数7個、私の直前に落ちた岩は直径2mもある大物だった。これが二度目の命拾いだった。
イメージ 3

、6分ほど上った時点で、船が再び桟橋方向へ向かって戻り始めた。スピーカーで「乗る人は急いでくださーい!」と叫んでいる。我々もいったん坂を下り始めたが、方針通りこのまま上り続けることになった。それを見た船は再び沖へ方向を変えて猛スピードで逃げ去った。後から聞くと、その船には地震前から桟橋に出ていた二人の仲間が乗っていたとのことだ。

完全に退路が絶たれた状態でひたすら上る。途中で小さな余震が何度も起こり、そのたびごとに岩や石が落ちてくる。再び大きな地震が起これば、まちがいなく岩の下敷きになるか海へ転落するだろう――そう思うと生きた心地がしない。神に祈る気持で上り続けた。上ること20分、3時15分にようやく標高50メートルほどの高台にたどり着いた。まさに「命がけの避難」だった。到着したときは安堵感のあまり気が抜けてしまった。
イメージ 4

大津波襲来
だがほっとしてはいられなかった。すでに海はどす黒く、波が異常に高くなり始めていた。案の定3分後の3時18分、第一波が襲来した。防波堤が隠れ、海面から7メートルほどある待合所の屋根、さらには10mほどあるお土産屋の屋根も次々に水面下に消えていった。
イメージ 5

それを見た時は、命がけでここまで上って来て本当に良かったと思った。約10分後の3時29分、今度は水が急激に南北両方向に引き始め、1分もたたないうちに建物や桟橋が完全にもとの姿を現した。そして33分には金華山と牡鹿半島との間の金華山瀬戸からはほとんど水が引き、壮大な枯れ河のようになった。
イメージ 6

それも束の間1分後、33時35分には30mほどもあろうと思われる第二波が南北両方向から怒涛のように押し寄せた。南方向の太平洋側(鮎川側)からの津波は鳥が翼を広げたように形で中央部分がややくぼんだ形をしており、それに対して北側(女川側)からの津波は中央部分がやや突き出たよう形をしていた。
イメージ 7

二つの黒い津波は狭い金華山瀬戸に入ると次第に高さと速度を増し、北からの津波が南からの津波に食い込むようにして中央付近から次々に激突した。それが急速にせり上がって数十メートルに巨大化してゆく。そしてこともあろうに、超巨大津波が我々のいる50m以上の高台を目掛けて押し寄せてきた。
イメージ 8





イメージ 9

もう撮影どころではない。建物崩壊とがけ崩れの危険から逃げおおせて来て、ここで津波にやられたのでは元も子もない。さらに高いところまで必死に駆け上がって難を逃れた。そして徐々に引いてゆく波を見ながらやっと自分たちは助かったのだと漠然と感じた。結局、地震、がけ崩れ、大津波で命を落としかねない場面が三度あったことになる。だがこの時、我々を襲った津波が、同時に向かい側の鮎川を壊滅状態にし、さらには三陸以外の土地まで襲って死者と行方不明者を2万人近く出していることまでは到底思いが及ばなかった。

みちのく巡礼の主旨にご賛同いただける寺院を募集しています。

「祈ることは、心を癒すこと」

 私は東日本大震災の時、震源地に最も近い島・金華山で大地震と大津波に遭遇して3度も命拾いをしました。その時、自分は何か大きな力によって生かされたにちがいないと天に感謝しました。それと同時に、四国歩き遍路でお接待を受けた時よく耳にした「ひとの役に立ちなさいと、生かされています」という言葉が浮かびました。まさに、感謝の心とお接待の心とが結び付いたのです。そして、この「生かされた命」"何か"震災のために役立てよう思いました

イメージ 1 そしてそれから震災3日後、鮎川で避難所生活をしていた時、その何かに偶然出会いました。夕暮れ、浜辺に出てみると、がれきのあふれる砂浜で小さな女の子と母親が、一輪の野の花を二人で持って丁寧にていねいに手向け、ひたすら祈り始めました。その姿を見た時、はばからず号泣してしまいました。祈りの場があったらなあと心から思いました。まさにこの時、被災者のために祈りの場を創ろうと思い立ったのです

 石巻から徒歩で60数キロ歩いて仙台市の我が家に帰りました。

http://michinoku-junrei.info/img/image44.JPG

 この写真は、津波被害に遭った仙石線陸前小野駅の待合室です。私が徒歩で仙台に帰るときに立ち寄りました。若い女性が、写真に写っている小さなぬいぐるみをイスに置いて、涙を浮かべて静かに祈り始めました。心打たれるものがありました。
迷いながらお話を伺うと、我が子が愛用していたものとのことでした。近所の子供で、母親が留守の時はこの無人駅に来て遊んでいることが多く、乗客に可愛がられていたとのこと。震災後駅舎の中で遺体と共にその人形も見つかったとのことでした。母親は自分が助けてあげられなかったことにどんなにか悔いが残ったかはかり知れません。毎日ここへ来て祈っていると話していました。」(写真撮影:櫻井史朗)


その後も、身内を亡くして悲嘆にくれる人々と何度も出会い、思いを強くしてゆきましイメージ 2た。そのたびに、自分を生かしてくれた天に感謝しました。

「このような人達の心を救うために自分は生かされた」のだと信じてこれからも頑張っていきたいと意を強くしております。.

現在、みちのく巡礼に加盟していただける宮城県内の寺院を募集しています

震災で亡くなられた方々や、大切な人を亡くし悲しんでいる人達のために、「心を癒す祈りの道」創設にご協力ください。
 目下、宮城県で25ケ寺の正式入会申し込みをいただいておりますが、祈りの場を望む声は多方面で数多くあり、震災を広く伝承してゆく意味からも、津波被災地のみならず内陸部も含めて50ケ寺以上の寺院に巡礼地を創設していただきたいと考えております。

 「このブログをご覧になった方へのお願い」。
ふさわしいと思われる寺院がございましたら是非ご紹介ください。
このブログのコメント欄または事務局までお願いいたします。

詳しくはみちのく巡礼事務局にお問い合わせください。

"だんだん"って?

"だんだん"という言葉を始めて見たのは「だんだん市」と書いた看板だった。
何だろうと思って地元の人に聞いたら、「ありがとう」という意味だそうだ。
とても暖かい響きのよい言葉出すね。
それを初めて聞いたのは20歳での初めての遍路の時でした。
そのうち「だんだんありがとう」の略だということも聞きました。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
moriizumi arao
moriizumi arao
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(76)
  • 気功師光明
  • s_gotouji
  • ただし
  • chama
  • アンクルなが
友だち一覧
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

知人

おなじみ

おなじみ2

おなじみ3

四国遍路

東日本大震災

登録されていません

絵画

仙台関係

仏教

意見

癒し系

旅と趣味

旅 シルクロード関係

旅 中国旅行と情報

イスラム諸国

登録されていません

旅 世界一周・世界各地

旅 (アジア・アフリカ)

歴史

文学・研究

趣味

標準グループ

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事