|
避難所生活二日目(3月13日) その1
鮎川は孤立状態だし、携帯電話も通じないので、外部との連絡がまったく取れない。そこで、自ら行動を起こすことにした。家族への連絡と車のチャーターを目的にして先発隊を結成することにしたのである。
メンバーはリーダー、車のディーラーの会長、そして石巻近辺在住の2名である。
迎えが不可能なときには、リーダーが責任をもって鮎川残留組の家族に連絡することになった。朝7時ごろ先発隊4人は30キロほど先の石巻へ向けて出発した。残留組は期待と不安で見送った。
港方面に被害状況を調査に行く
わたしは彼らを見送ったのち、港方面に被害状況を調べに行った。
利用客に親しまれていた港近くのふじや旅館
牡鹿中学校より手前のスピンカーブから、鮎川港を眺めると、まだ海はざわついており、津波が収まっていないように見えた。
まだ津波が収まっていない様子の鮎川港
そして彼らが歩んだがれきに覆われた道を中を石巻方面に数百メートルほど歩いてみたが、道にはまだがれきが散乱し、両脇にはうず高く積み重なっている。.
きっと難儀しながら歩いているのだろうと思いやった。
結局、彼らは2日経っても戻って来なかった。
後日聞いた話では、
―― 仙台在住のリーダー以外の3人は、自宅が流されるか浸水していた。そのため連絡どころではなく、家族の消息探しや、自宅の復旧に追われたそうである。
リーダーがまず石巻市在住のメンバー宅に歩いて連絡した後、ヒッチハイクで5台の車を乗り継いで仙台の自宅にたどり着き、仙台近辺のメンバー宅への連絡は、電話不通のため車で回って行なった、とのことであった。 東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
ホームページ:: URL:http//michinoku-junrei.info
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2016年04月26日
全1ページ
[1]
|
第1日目の夜は、18人に毛布6枚でした。
我々グループは山用の防寒義を持っているので、青森県から来た夫婦に二人で1枚、若い3人グループに2枚使ってもらい、我々は13人で、3枚の毛布で寒さをしのぎました。 さすがに寒かったです。 眠れぬままに、下の階へ降りてゆくと、
職員の方々はもっと大変でした。一階の事務室やロビーなど、さらに寒い所で、ダンボールを敷いて毛布なしで寝ていました。
職員の方々の中には家を流されただけでなく、家族が行方不明の人も少なくないのです。この過酷な「滅私奉公」がしばらく続くことを思うと〈ご苦労様〉と心から頭が下がりました。
2階の 地元の方々の避難部屋をのぞいてみると、避難している地元の人たちはとても立派でした。
できるだけ明るく、落ち込んだり、悲壮感を見せたりせず、むしろ和んだ雰囲気さえ感じられました。鮎川は古くからひとつの集落を形成しているため、子供のころから顔見知りでつながりが深いのです。そのこともあって互いに精神的に支えあっているのだと感じました。
この中には家族の安否が不明で心を痛めている人もかなりいるのでです。それを表に出さず心を張りつめて頑張っている様子に却ってたまらない切なさを感じました。そして、このような状態でも秩序をきちんと保っていることに感動さえ覚えました。
各地の難所の様子は、数日後に外国でも報道されましたが、日本人の避難所生活の立派さは賞讃の的だったそうです。
トイレ事情ですが、断水のため、大便は買い物袋のようなビニール袋に排便して、トイレに備えてあるダンボール箱に入れるという方法でした。箱がいっぱいになると消防の人が処分してくれるというやり方です。 ほとんどの人が立派な避難所生活でしたが、知ってか知らずか水も出ないのに便器に大便をしている人がいました。
その都度、便器から拾い上げてビニール袋に入れたのですが、ちょっと腹立たしくなる時もありました。
どこにも少数の心無い人がいるものです。
これが、避難所生活1日目の夜でした。
東日本大震災・「祈り・伝承・防災・復興」
一般社団法人みちのく巡礼
|
全1ページ
[1]






