東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

0シルクロードへの熱い想い

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  北方の遊牧騎馬民族の侵入を防ぐために延々と築かれた明の長城

わたしのシルクロード「元年」

初めての海外一人旅

 シルクロードの出発点といわれる「西安」を始めて訪れたのは、平成元年だった。
 “平成の始まりを、私のシルクロードの出発点にしたい”という思いがあった。
 私にとっては格好よく言えば、「シルクロード元年」だった。
  
 初めての海外一人旅である。(それまでは、ツアーだった)
 中国語もろくに話せない私が、単身中国へ乗り込んだのである。
 とにかく私は旅になると度胸がつき、人懐こくなる。
 我ながらちょっと無鉄砲だと思ったが、シルクロードへの想いがグングンと後押しした。

シルクロードの出発点・三大古都を廻る

 一般にはシルクロードの出発点は「長安」(西安)といわれているが、
 厳密に言えば西安だけではない。
 王朝が替わって首都が変ると、それに伴ってシルクロードの出発点も変っていたのである。
 
 紀元前11世紀から紀元10世紀中頃にかけて、
 西周、秦、前漢、後漠、隋、唐など13の王朝が都を西安に置いていた。
 そういう意味では、西安をシルクロードの出発点とするのは非常に妥当性がある。

 中国の七大古都は、北京、西安、洛陽、開封、安陽、南京、杭州であるが、前三つはシルクロード交易と関連が深い。
 
 私のあこがれの人マルコ・ポーロが中国を訪れたのは、蒙古の支配下にあった13世紀・元の時代であった。その都が大都(現在の北京)である。
 
 洛陽は、後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐の首都となった。また、長安を都とした王朝でも、洛陽を副都とした王朝が多かった。

 こういうわけで、平成元年の旅は、この3つの古都を廻ったのである。
 
 
西安は後の記事でじっくり紹介するとして、
 まず、北京と洛陽の名所・旧跡を訪ねた時の様子を紹介します。
?H3>北 京 [天安門広場」と紫禁城(故宮)]
イメージ 11 1989年と言えば、北京では何が起こったでしょうか。
 よくご存じの天安門事件が起こったのは、6月4日です。
 そして、わたしがここ天安門を訪れたのは8月11日でした。
 そのころは何事もなかったように、表向きは平静でした。
 ただ、天安門広場には、いたるとこに警備の警察官が立っていました。
 横を向いているうちに、ちゃっかりと撮影しました。

 故宮(紫禁城)は、明清朝の旧王宮です。
 以外にも、たくさんの外国人観光客でにぎわっていました。
 
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[万里の長城 八達嶺] 
 みなさんは、万里の長城と言えば北京郊外のここ八達嶺を思い浮かべるでしょう。
 ここは、歴史的に新しい明の時代に作られました。
 ところが西へ向かうと土くれのような、漢の長城にお目にかかります。
 
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[頤和園]
 清の女傑西太后が、莫大な金を注ぎ込んで改修して晩年を過ごしたところとしてよく知られています。
 これがもとで清の国力が衰退したといわれています。
 
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                           17孔橋

[洛陽  龍門石窟]
 龍門石窟は、敦煌の莫高窟、大同の雲岡石窟と並ぶ、中国三大石窟の一つです。
 わたしが最初に見たのが、龍門石窟です。
 
 
 龍門石窟は主に、北魏時代と唐代に切り開かれました。
 黄河の支流伊水河の両岸に1キロにわたり彫られています。
 
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 まず驚いたのは、石仏の多さです。ちょっと見疲れるほどでした。
 10万体もの仏像が安置されていいるのですから、半端じゃありませんよね。
 
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 一番の見所は、何と言っても唐代に則天武后の統治時期に作られた奉先寺石窟です。
 内部の仏像は神々しく、表情はおおらかで優雅でした。
 彫が深いところは、わたしのお気に入りです。
 則天武后が自分の化身として作らせたといわれています。
 衣のヒダまではっきりと見えます。

 則天武后は全国あちこちに寺を建て、仏像の顔は自分に見立てさせたといいます。
 あまり評判のよくない彼女は、仏像の姿を借りて自分の徳が高いことを人民に示そうとしたのでしょう。
 
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                     奉先寺石窟                
 
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       則天武后が自分の化身として作らせたといわれる盧舎那仏。
 
 
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[洛陽城]
 
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       ここ洛陽は、後漢、三国魏、晋、北魏王朝の都として400年間東アジアの中心でした。
 私にとって、三国志の英雄、曹操、袁紹、孫堅(孫権の父)、董卓、呂布、関羽などが活躍した都はまさしくここなのです。
       倭の女王卑弥呼ともこの都市は結びついています。
       ここへ足を踏み入れた途端、2000年ほど前の空間に足を踏み入れたような気分になりました。

[洛陽  白馬寺]
 
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       この白馬寺は中国で最初に建立された仏教寺院であると言われています。
       
  
 この旅は、とにもかくにも飛んでもハップンの旅で、トラブルとハプニングだらけ。
 後にも先にもこんな旅をしたことがない。

 そこらのところは次回以後をお楽しみに!

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                 膨大な経典や美術品や資料が封じられていた敦煌莫高窟第17窟

隠された経典はどうなったのか?

 小説『敦煌』で、主人公趙行徳が莫高窟に隠した経典は、その後どうなったのだろうか?
 高校生の私には、そのことがすごく興味があった。
 大学生になったら絶対に調べてやろうと思った。

 小説で趙行徳が隠したと設定されているが、実際には、
 いつ、誰が、どのような事情で、17靴に蔵経して封じたのだろうか? 
 
 大雑把に言うと、二つの説がある。
 その1 西夏が敦煌に攻めて来るというので、それに備え、仏典を護るために封じたということで、
    1304,5年。
    小説「敦煌」はこの説に基づいて書かれている。

 その2 中国の西端のカシュガルで興ったカラハン王朝が東を攻め、当時敦煌を支配していた西夏を攻     め落とそうとしていた。
     仏教を尊信していた西夏は、それに備えて敦煌の仏教徒に蔵経堂を封じさせた。

 実際はどうだったのだろうか?
 この謎はいまだに解明されていない。

 敦煌の莫高窟には、4世紀から元代の14世紀までの千年の間窟が掘られ、
 塑像が造られ壁画が描かれたが、唐の時代にその盛りを迎えた。
 多くの王朝の消長に伴い、敦煌の地も漢民族の支配をうけたり、周辺の民族の支配下にあったりと、
 めまぐるしく変転した。
 それを反映して莫高窟には、唐のほか、
 十六国、北魏、西魏、北周、隋、吐蕃、西夏、元の各時代の特色を持った窟が存在する。
 それらの石窟は、南北1600メートルにわたって連なっている。
 私は3度訪れ、述べ15日見学したが、それでも半分も見ることができなかった。
 
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小説『敦煌』で、敦煌を征服した 西夏も、熱心な仏教徒であるためいくつかの窟を造営した。←詳しくはクリック
 
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                         西夏時代の壁画。
 
 隠されてから元代までは石窟には多くの人間が出入りしたはずだが、
 見つからなかったのは不思議なくらいである。

 明の時代になると中国王朝の支配範囲が狭まり、仏教に熱心でない民族に支配されたため、
 保護されることなく敦煌は孤立した。
 そして放置され、砂に埋もれてしまったのである。
 それがむしろ敦煌にとって幸いしたとも言えるだろう。
 現在でも、手を施さないとたちまち砂にうずもれてしまうそうで、苦労して管理している。
 
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                       砂に埋もれかけている石窟

莫高窟の発見は偶然だった。

 敦煌の膨大な美術が注目されるのは、二十世紀の初めの偶然の発見だった。
 廃虚のようになった莫高窟に住み着いていた王円籙という坊さんが十七窟に膨大な経巻、刺繍、絵画、仏典がぎっしり詰まっているのを発見した。
 
 隠されたのが11世紀だと仮定すると、20世紀に発見されるまで、1000年近くも気付かれることなく洞窟の中で眠り続けたことになる。
 

外国へ持ち出された文物は?

 敦煌から膨大な文物が見つかったというニュースはたちまち外国に流れ、イギリスのオーレル・スタイン、続いてフランスのペリオ、さらに日本の大谷探検隊などが次々敦煌を訪れた。

 持ち出された文物はいま、大英博物館、同図書館、パリ国立図書館、ギメ美術館など世界各国にあり、その数は何万点にものぼる。
 この海外流出については、先進国による“略奪”という評価がある一方で、それらの流出があったからこそ、保存の手が打たれたという評価もある。
 

敦煌研究院

 莫高窟の入口のすぐそばには敦煌研究院がある。
 そこで、学芸員にいろいろ説明してもらった。
 前身の「敦煌芸術研究所」が1944年2月に設立された。
 私は1989年と2005年と2008年と3度訪れた。
 最初の訪問の際に西安のPさんに紹介してもらって以来、
 写真撮影に協力してもらったり、資料を提供していただいたりなど、手厚く配慮していただいている。
 感謝! 感謝!
 
 創立者の常書鴻氏は、私が最初に訪れた時、こんな話をしてくれた。
 絵画の勉強に留学したパリで、ペリオの著した『敦煌千仏洞』に出会い、
 故国の美術品の保護を決意した。
 1942年、パリ時代の油絵を売って旅費を作り、
 列車やラクダを乗り継いでやっと着いた莫高窟は荒れ果てていた。
 日中戦争が終わり、「敦煌文物研究所」になったころから研究は進み始めたが、
 文化大革命により敦煌市内の文化遺産は破壊された。
 しかし、当時の周恩来総理の「文物保護」の命令もあって、莫高窟は被害を免れた。

 
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                    敦煌研究院1階の展示場
 
?H3>敦煌莫高窟の過去記事  ぜひご覧ください。
 画面左の書庫「7 敦煌莫高窟」をクリックしてください。
 かなり以前から、石窟内の撮影は禁止ですので、貴重な写真をご覧いただけます。
 

 

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       経典が壁で塗り込められて隠されていた敦煌莫高窟第17窟        
              発見した時に開けた穴が今は出入口です。
 

小説『敦煌』は―― 、敦煌が西夏との戦いに敗れて滅びる時に、洞窟に万巻の経典を洞窟の壁に塗りこんで隠す。これが、二十世紀になってはじめて陽の目をみたという史実をもとに描かれた壮大な歴史ロマンなのだ。
 この小説を初めて読み終えたときに、この隠された経典はその後どうなったのだろう? ということが気になってしかたなかった。
 だが、当時は受験勉強と部活の陸上競技に専念していたので、残念ながら調べられなかった。
 大学生になってから、改めて『敦煌』を読み直してみると、歴史的知識が増ていたので、一層興味深かった。

 まず、小説『敦煌』の歴史背景とあらすじを、映画「敦煌」の画像を交えて紹介します。
小説『敦煌」 時代背景と舞台
 時は北宗の時代の十一世紀。 舞台となるのは宋の都開封と西夏。
 
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 「西夏」は当時、ゴビ砂漠の入口に興慶(現在の銀川市)という中心地をもち、
 李元昊に率いられて河西回廊の漢民族の支配地を次々と襲っていた。
 
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                          西夏の初代皇帝李元昊
 
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小説『敦煌』のあらすじ

 映画「敦煌」の映像を交えながら、あらすじを紹介します。

 西暦1026年、宋の仁宗の時代。
 趙行徳は、進士の試験を受けるために、都・開封へ上るが、些細な不注意から、試験に落ちてしまう。
 
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                   趙行徳(佐藤浩一)

 途方に暮れ、街を当て所もなくぶらついていた彼は、たまたま市で実を売られていた西夏の女の逞(たくま)しさに惹かれ、西夏という未知の国への関心をそそられる。
 
 
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                     三田佳子演じる西夏の女
 
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                     西夏文字が書かれた布片

 別れ際彼女から西夏文字の書いた布片を託されるが、これを読めるものは誰もいなかった。
 西夏文字の謎を追い求めて西域に入った趙行徳は、西夏軍に捕らえられ、漢民族だけで編成された外人部隊に編入される。
 
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   戦場となったヤルダン地帯と西夏軍漢人部隊の隊長朱王礼(西田敏行)
 
 彼はここで、朱王礼という武骨な隊長に目をかけられ、重用されていくが、
 ある年、西夏文字による辞書を編纂するという任務を与えられ、首都・興慶へ赴く。
 数奇な運命から、彼は、ウイグル族の居城・甘州で交わりを結んだ王族の娘(映画ではツルビア)をかくまう羽目になる。
 
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                 中川安奈演じるウイグルの王女、映画ではツルピア王女。
 
 ツルピアは西夏の皇帝李元昊によって見出され、力ずくで妻になった。
 行徳が西夏に戻った日、李元晃の妻となった彼女は城壁から投身自殺した。
 このことを契機として、同じく彼女を愛していた朱王礼とともに、西夏に背くことになる。
 彼らは李元昊の大軍に攻められて敗戦を重ね、遂に敦煌に追い詰められた。
 彼らは、この地で最後の抵抗を試みるが、朱王礼は戦死してしまう。
 壊滅を待つばかりの城内は、大混乱の様相を呈する。
 
 行徳は、ついには、西夏が敦煌を焼き尽くす瞬間に居合わすことになる。
 敦煌が陥落するに当たって、ラクダの隊商を率いている于闐(うてん)の王族を名乗る青年が、
 欲に駆られて敦煌の支配者・曹氏一族の宝物を隠匿しようとする。
 それに便乗して、行徳は大切な経典を莫高窟の穴に塗り込めたのだった。

 
 小説はここで終わるが、
 これが後に発見される莫高窟第17窟の経典である。
 
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    経典が塗り込められていた第17窟(詳細な記事はクリックしてご覧ください)
 
この経典が発見されたいきさつは、次回で紹介します。

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         『敦煌』の著者井上靖さんの「敦煌の恋人」と言われる菩薩像 45窟 西壁龕内北側 菩薩.


はてしなくひろがるロマン 〜熱烈な恋人・小説『敦煌』

 『楼蘭』にはまり込んだ中学時代の私は、井上靖のシルクロード関係の本を、次から次へとむさぼるようにして読んだ。
心ふるえた小説『楼蘭』 〜初めて読んだシルクロード小説

 皮切りは『敦煌』だった。
 数多く読んだ井上文学の中で最もロマンを与えてくれたのは、『敦煌』であることはまちがいない。
 あの夢のような世界が小説に書かれているなんて…と思うとたまらなく読みたくなった。
 恋愛に例えるなら、『楼蘭』が幼い頃のせつない初恋だとすれば、
 『敦煌』はいくらか恋の味を知った少年の燃えるような恋と言ってよい。
 「西域」へロマンをはせるきっかけを与えてくれたのが、中学時代に読んだ『楼蘭』ならば、
 ロマンをはてしなく広げてくれたのが『敦煌』だった。

 私が『敦煌』を読んだのは、高校1年生の時、講談社発行のものだった。

 
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                        『敦煌』昭和34年11月  講談社      
 
 私は中学生の時から自由日記を書いていたが、
 『敦煌』を読み終えた日の日記には、こんな感想が書いてある。

 ――『敦煌』を読み終えた。
 『楼蘭』に続く井上靖のシルクロード小説2冊目だ。
 『楼蘭』の時代背景が紀元前の前漢なのだが、
 『敦煌』はかなり後の11世紀・宋の時代だ。
 ページをめくったら、最初に開いたページに地図が載っていた。
 
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 地図には「西夏国」という国名が真ん中に大きく書いてある。
 名前だけは知っているが、余りなじみがない。
 ちょっとがっかりした。
 たしか敦煌は楼蘭と同じ時代にすでに存在していたのに、なぜ宋の時代の「西夏」なのだ?と不思議に思った。
 まるで時間が飛び跳ねてしまったようだし、なじみのない土地に放り出された感じだった。
 未知の世界へ急に入り込むのもいいのかなかなと思うが、やっぱり唐代やその前のほうがいいと思った。
 世界史地図を見ると、やっぱり敦煌は楼蘭と同じ時代には既に存在していた。
 
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 地図を開いて、そのあとの敦煌を調べてみたら、いろいろな国に支配されてきたことが分かった。
 どんどん興味がわいてきた。
 敦煌は小説の時代背景になっている宋や西夏までの間にどういう運命を辿ったのだろう…、
 西域は、そしてシルクロード様子はどう変ったのだろう…、
 きっといろいろな歴史が展開されたんだろうな……。
 僕のロマンは時を超え、果てしない空間を越えてぐんぐんと広がった。
 却って、興味がわいた。

 歴史好きの僕はついつい、知らないことを調べてしまう。
 まず、舞台の敦煌だ。小百科辞典(1954平凡社)で「敦煌」と「敦煌莫千仏洞」を引いてみた。

 「敦煌」 別名、沙州。古来中国西北角の交通要衝。西の玉門関・陽関もと東西交通の2大門関。東南の鳴沙山千仏洞(莫高窟)は仏教史上の世界的遺跡。美術・古文書の宝庫。
人民政府敦煌芸術研究所あり。

「敦煌莫高窟」 敦煌南方の石窟寺院。石窟群約300。353来開鑿(*かいさく:土地を切り開いて道路や運河などを通すこと)13世紀まで継続。六朝〜隋・唐代が盛。本生譚や浄土変相の壁画・塑像を雄姿、貴重な仏教芸術の遺跡。初期のものはガンダーラ末期の様式を示す
 
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                         敦煌莫高窟の夕暮れ(2008年)

 …(中略)
 この本を読んで、人間の運命というものの不思議さをものすごく感じた。
 井上靖の想像力、表現力の豊かさに脱帽した。
 もっと井上靖のいろいろな本が読みたくなった。

……………………………………………………………………………………………………………………………
 
 この日記を読んで、高校時代にしてはよく調べているし、けっこう書けているなあと、我ながらちょっと感心した。

 '''敦煌や西夏についてはすでにアップしてありますので、
 書庫の5「西夏とカラホト」、7「敦煌莫高窟」、8「敦煌と周辺遺跡」をクリックしてみてください。'''


 『道をゆく〜シルクロードと遍路道』では、
 これから引き続いて、西域南道からトルコまでを書き進めるわけだが、、
 ぜひ、燃えるような想いをもう一度蘇らせてみたくなったので、
 「シルクロードへの熱き想い」を書きはじめた。
 その燃える想いで、西安から西へ、西へ…、時の空間を現代といにしえを自由に行き来しながら書き進めてみたい――と、強く思っからである。
 だからもう一度、恋人小説」『敦煌』に逢ってみたくなり、
 高校時代に読んだ本があるのに、ごていねいにもわざわざアマゾンから取り寄せた。

 これまでにも、読むチャンスはけっこうあったが、
 大切な恋の思い出を大事にしておきたかったので、あえて封印しておいたのである。
 今までたくさんの井上文学に接してきた。
 その中には『敦煌』よりもすばらしい作品も思えるようなものはあった。
 だが、「出会いの妙」という奴だろうか……、
 多感な高校1年生の時、絶妙のタイミングで出会った『敦煌』が、やはり、わたしにとって永遠の恋人なのである。

イメージ 3 届いた本の表紙カバーのデザインは、私が持っているちょうど50年前のものとはやはり変っていた。
 
 新しい恋人に出会うつもりで、ページをめくり始めた。
 だが、内容書きは、胸ときめかせて読んだ高校時代の本とまったく同じだった。
 勿論ですよね。(笑)
 懐かしくてところどころ口ずさみながら読み上げた。

 この小説は、西夏との戦いによって敦煌が滅びるが、滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、
 二十世紀になってはじめて陽の目をみたという史実をもとに描く壮大な歴史ロマンなのだ。

 プロローグ ちょっと紹介。
 ――官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。
 そのとき彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる……。
 
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                         西夏文字 映画敦煌パンfyレットより
  
続きは次回で


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  砂漠はほとんど修羅の道を歩ませる。 しかし、時には素晴らしい優しさを見せてくれる。 ヘディンたち探検家も八分の苦しみと二分の楽しさを味わいながら、見果てぬ夢を探して、命を懸けて砂漠の中を進んだに違いない。そんな彼らの熱気が、若いわたしをシルクロードに駆り立てたのだ。(2008年撮影)

ヘディンによって千年の眠りから目覚めた幻の楼蘭、

ドイツ語で読んだ『彷徨える湖』

 大学生になると受験勉強から解放されて、西域の探検に関する本をずいぶん読んだ。
 最も興味深く読んだのは、スベン・ヘディン著 『DEN VANDRANDE SJÖN』(さまよえる湖)だ。
 ドイツ語の勉強も兼ねてドイツ語の原書にチャレンジした。

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        スベン・ヘディン                  『DEN VANDRANDE SJÖN』(彷徨える湖)

 ドイツ語の辞書を片手に、日本語訳と対比しながら読んだ。
 日本語版よりも写真が多いのも魅力だった。
                  
 ヘディンはスエーデン人であるが、ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導を受けた。
 また、ヒトラーの援助も受けた関係上、ドイツ語で執筆したものと思われる。

?H3>偶然だったヘディンの楼蘭の発見  楼蘭が長い眠りから覚まさて
 『DEN VANDRANDE SJÖN』に掲載されている写真を中心に、発見当時(100年ほど前)の楼蘭故城の様子を紹介しましょう。
 
イメージ 6 楼蘭は、ロプ・ノール探しの、いわば副産物として発見された。
 スヴェン・ヘディン探検隊の従者が鋤(すき)を忘れて引き返したところ、
 偶然にも大きな廃墟を発見した。
 しかし、水不足のため引き返すのを断念し、翌年発掘したところ、
 その近くにあったより大きな遺跡である楼蘭故城を発見した。
 出土した古文書から、楼蘭の遺跡であることを明らかにし、
 4世紀に滅んだと考えた。
 写真は、発見者のヘディンの従者、ウイグル人のエルデク


 
 DEN VANDRANDE SJÖN』(さまよえる湖)に掲載されている写真で、調査や発見の様子を紹介します。

 
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                   ヘディンがスケッチした探検隊の様子  楼蘭遺跡付近
 
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                    上の2枚は私が訪れた時の楼蘭遺跡付近(2008年撮影)

 
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                    楼蘭故城の仏塔
 
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                    仏塔(2008年撮影)

 
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                    住居跡 建材は胡楊
 
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         住居跡(2008年撮影)
 
 
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                   ヘディンがスケッチしたタマリスク
 
 
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                    さまよえる湖ロブノール(ヘディンのスケッチ)
 
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                    さまよえる湖ロブノール 

       イメージ 17  イメージ 20    
        ロブノールをカヌーで下るヘディン          ロブノールの大魚                     
 
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                   湖上のヘディン


感動にうちふるえたヘディン
 ヘディンは楼蘭王国との対面を、まるで初恋の乙女乙女の胸のたかまりのように、心をうちふるわせてその興奮を述べている。
 ―― 遠い昔に人類が生活していた明らかな痕跡や遺跡を探りあてたとき、探検家がどんなに心をはずませるものか、その喜びを、筆や口で表現することはとてもできない。わたしもそのような喜びにひたったことがある。
 それは1900年の3月28日に、古い中国の軍事植民地である楼蘭の遺跡を発見するという幸運をつかんだときであった。(中略)……
 目をつむると、はるか昔に消え去ったこの町の住民たちが、あたかも冥府の幽鬼たちのように、私のまわりをさまよい過ぎてゆく」(アルバート・ヘルマン著、松田寿男訳『楼蘭』に寄せたスェン・ヘディンの序文より)

===== スタインの再発見 ===== 
 ヘディンと双璧をなす中央アジアの探検家であり、考古学者でもあったオーレル・スタインは、楼蘭発見の様子を次のように書きとめている。
 ―― ラクダのひどく歩きにくい道で悪戦苦闘したすえ、私たちは、遂に楼蘭に到着した。古代の埋葬地を発掘してみると、一連の墓穴が現れ、そのなかから豊富な考古学上の収穫物が、まったくぼうぜんとなるほどごちゃ混ぜの状態で出てきたのであった。人骨や棺の破片に混じって、あらゆる種類の埋葬品があった。
 とりわけ「極彩色の大量の絹」は、大発見であった。それは、楼蘭がまちがいなく絹貿易の通商都市であることを証明するからであった。同様に見のがしえない重要事は、ギリシャ美術様式の歴然とした精巧な細工の羊毛のつづれ織りが見出されたことであった。(沢崎順之助訳『中央アジア踏査記』)

 
ヘディンやスタインが楼蘭に対面し、多くの考古学的な物品を発見した時の感動と喜びはいかばかりであったろうか!
 ―― 想像しただけでわくわくした。
 この感動があるから、彼らは砂漠に命をかっけるのだ。
 あの時代に生まれていたら絶対探検隊に志願していたに違いない、と確信した。
 シルクロードの歴史を読み、こうした探検記を読めば読むほど私の「シルクロード熱」は高まっていった。

 
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   楼蘭の女性たちはこのような極彩色の絹織物を身に着けていたに違いない。

 私が2008年糸図13ラワクた時の様子や、書庫の『11楼蘭横への砂漠の旅 』をクリックすればご覧いただけます。
 
 次回の「シルクロードへの熱い想い」の記事では、「楼蘭の美女の発見」を紹介します。
 

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