東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

0シルクロードへの熱い想い

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?H1>砂に消えた幻の楼蘭王国 ?H3>平山郁夫画伯と楼蘭  私にとって平山郁夫画伯は、シルクロードを語る上で切っても切れない存在である。
 平山さんはシルクロードを何度も訪れ、数多くの絵を描いている。
 若いころから彼の絵を見るたびに、シルクロードへの熱い想いを湧き上がらせていた。
 平山さんは楼蘭を2度訪れ多くの作品を遺している。
 その中から、有名な「楼蘭遺跡を行く」の3部作を紹介します。
 
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       楼蘭遺跡を行く・月
 
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       楼蘭遺跡を行く・朝
 
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       楼蘭遺跡を行く・日
                                    
 『現代の日本画[12] 平山郁夫』(学研)より    私はこの画集をとても大切にしています。
 山梨県北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館で、「月」と「日」の実物の作品を見た時には感動しました。

?H5>楼蘭の歴史  敦煌の西、最初に現れるオアシス国家が楼蘭(後の鄯善)である。
 西域北道と南道の分岐点であり、シルクロードの要衝だったので、東西交易で繁栄した。
 匈奴と前漢という2つの大国にはさまれ、翻弄され続けた悲劇的な歴史をたどった。
 
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?H3>想像の楼蘭王国  
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 楼蘭王国 想像再現図 (部分) (制作 占部浩氏)  「シルクロード紀行4 楼蘭」 朝日新聞社(2005年)
 左上には金色の屋根の仏塔が見える。


 
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  楼蘭王国の想像図《部分)(制作 占部浩 氏)「シルクロード紀行4 楼蘭」 朝日新聞社
 寺院、宮殿、役所などの公共の建物は塀がめぐらされ、その周辺には役人などが軒を並べて住んでいたよであり、庶民の住宅は川や池のそばにまばらに建っていたようだ。

 現在の楼蘭遺跡(楼蘭故城)には、僅かに仏塔や役所跡が残るのみで、往時をしのばせるものはほとんど残っていない。
 
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                   上の3枚の写真は、私が訪れた時の楼蘭故城


楼蘭人の生活
 私が初めて歴史書の中で楼蘭をで見つけ出したのは、『漢書』の中」だった。
 『漢書』いチャレンジしたのは、高校1年生の担任のT先生がすばらしい漢文の先生だったことと、
 以前の記事『東方見聞録』〜引くに引けない男の意地〜で登場したY先生の勧めによるものである。
 『漢書』と言っても、もちろん原書ではなく、原語に解説を加えたものであった。
 それでも、原語に触れる喜びは大きかった。
 
 楼蘭については、次のように書いてあった。
 ―― 扜泥城(うでいじょう)を都とし、
 戸数1570、人口1万4100、
 兵士1920人という規模を持っていた。

 私が実際に見た、砂漠の中に取り残された現在の廃墟からは想像できないほど、
 アシやタマリスク、胡楊の生い茂る豊かなオアシスだったようだ。
 半農半牧といわれている。
 多くの人々は、毛織物や毛皮をまとい、
 牧畜に従事してロバやラクダを飼育していたが、
 少ない自国の農地や隣国の農地を利用して農業も行われ、
 ロプ・ノールで漁業も行われていたと考えられている。

 一方、王侯貴族や商人たちは、
 交易による利益をもとに豪奢な生活を送り、
 西方からの宝玉や、東方からの絹織物などを身につけていたと推測されている。

 ぶどう酒の飲みすぎもあれば、不倫問題だってあったらしい。

 2003年、新疆文物考古研究所の楼蘭考古隊が、楼蘭の盗掘後の墓室から鮮やかな壁画を発見した。
 楼蘭地区で墓室から壁画が発見されるのはこの時がが初めてとのことであり、
 これを見ると楼蘭人の服装や生活の一端がわかるのではないだろうか。

                 
 
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       楼蘭の盗掘後の墓室で発見された色鮮やかな壁画    「人民網日本語版」2003年3月1日付

現代人にみる楼蘭の美女

ミーランのレストランに「楼蘭の王女」と書かれた、スケッチ風の絵が貼ってあった。
 素人風の絵だが、私が抱いていた『楼蘭の美女』のイメージにぴったりだった。 
  
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 楼蘭の人々は、音楽と踊りの好きな人々という。
 現代のウイグルの民族舞踊を見ながら、当時の楼蘭の美人たちの姿をかさねあわせてしまう。

 
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    1979年、この「楼蘭の美女」がテレビ画面に映し出されたとき、その美しさに思わずため息をもらした。
   

井上靖が描いた楼蘭の美女

 この小説『楼蘭』は、
ロブ湖畔で若い女のミイラを掘り出したスウェーデンの探検家・ヘディンの『彷徨える湖』を題材にしている。

 まずあらすじを述べると、
 楼蘭王国の先の王・安帰は、漢に従わず匈奴に従属していたので、漢の使者に暗殺されてしまう。
 井上氏は「楼蘭の美女」をその后と設定して、その死と埋葬場面を描写している。
 弟の尉屠耆が王位を継ぎ、漢の命により都を楼蘭から鄯善へ移すことになった。
 鄯善に出発する矢先に二つの事件があった。
 一つは王族の老婦人の死であり、もうひとつは、先王の后(「楼蘭の美女」)の自殺であった。
 
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        1910年にタリム盆地でオーレル・スタインが撮影した高齢の女性のミイラ   
        彼は、このミイラを「ロブの女王」と呼んだ。
        井上氏はこのミイラを老婦人に見立てたのではないだろうか。
 
 以下は井上氏の文章を引用します。

  ―― それからもう一つは、その夜、老婦人の死を追いかけるように、安帰の室が自ら生命を断った事件が起きたことである。つまり先王の后の死であった。この方は明らかに自殺であった。美しく化粧し、美しく着飾って、これも寝台の上に息絶えて横たわっているのを、侍女の一人に発見されたのである。顔には何の苦悶の跡もなかったが、口から一枚の毒草の葉が発見された。
 
 この安帰の室の死を最も深く悲しんだのは尉屠耆(うしょき)であった。尉屠耆は、亡き兄王の若く美しい后を、若し彼女が同意するならば、自分の室にしようと秘かに考えていた。これは尉屠耆ひとりの考えではなく、すべての王族の希望でもあった。彼女は国中の人々全部から敬愛されていた。勿論尉屠耆はそのことを誰にも口外していなかった。それよりももっと差し迫った都城を南へ移す問題や、それに付随した雑多な仕事が、新しい若い王の毎日を埋めていた。尉屠耆は鄯善に都を遷してから、このことを周囲に謀り、賛成を得てから発表するつもりであった。
 
 ところがその先王の室は突然われとわが生命を絶ったのであった。彼女の死とその自殺の理由は、楼蘭人全部によって議論された。ある者は故王の悲運に対する悲歎の余りであると言い、ある者は故王の墓所のあるこの楼蘭の地を離れることの悲しさのためだと言った。またある者はここに廃墟として打ち棄てられる楼蘭の城邑へ彼女は準じたのに違いないと言った。正確には彼女の死の意味は誰にもわからなかったが、不思議に彼女の死は国人の誰にも素直に受け取られた。いささかも奇異な感じは受けなかった。当然起きることが起きたのであって、だれもがそのことに今まで気付かなかったことが不思議のような気がした。彼女に死なれて、人々は楼蘭以外のどこにも彼女は生きることができなかったことに気付いた。ロブ湖と切り離して楼蘭を考えることはできなかったように、ロブ湖と切り離して若い后を考えることができなかった。

 尉屠耆は、老婦人のために一日伸ばした鄯善への進発を、兄王の后の死のために、さらに二日延ばさなければならなかった。彼女の葬儀は翌々日盛大に行なわれた。彼女の亡骸は、二人の侍女の手によって、何枚かの布片で巻かれ、頭にはターバン風の帽子を冠せられ、そして尉屠耆の手で柩に移され、その上に彼が漢から持ち帰った美しい模様の布をかけられた。

 この方の柩は老婦人の葬られた丘より少し隔たった丘の中腹に埋葬された。棺を埋める穴は大きく掘られ、柩と一緒に、彼女の日用品や手廻りの品々が何個かの箱に収められて埋められ、一匹の羊も、彼女の従者として一緒に葬られた。楼蘭だけで見られる濃い朱と紫と青と、色とりどりに輝く美しい日没が彼女の新しい墓地を飾った。
 
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 彼女を葬った墓土の上には、ロブ湖畔から切り取られてきた一本の太い檉柳(タマリスク)が墓標として立てられた。そしてその前には、花を飾るための大きい石の花いけが据えられた。尉屠耆も、参会者も、それほど遠くない将来、再び自分たちがこの后の墓に詣でる日があることを信じて疑わなかった。
  
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 中学生のころ、ラジオからこの行(くだり)が読み上げれた時、次第に涙が流れてきた。
 この女性の悲運と、尉屠耆の彼女に寄せる深い想いが多感だった少年の心に強く伝わってきた。 
 今なおその時の感動を覚えている。

「楼蘭の美女」の実像に迫りたい
 イメージ 7 中学生ながら、私は「楼蘭」そのものだけでなく、この若い女性の実像にも迫ってみたくなった。
 それで、少し難しいとは思ったけれど、『彷徨える湖』を読んでみた。
 だが、そのことについての詳しい推測はなされてはいなかった。
 それから20年ほど過年月が経って、美女の実像探しも少しあきらめかけていた頃、
 思わぬ朗報が飛び込んできた。
 1934年にヘディンによってなされた調査以来、楼蘭に大規模な調査隊が訪れたのは1979年のことである。
 日本のNHKと中国の中央電視台による共同制作番組『シルクロード』の取材によるもので、
 この時中央電視台の要請によって中国人学者による調査隊が組まれたのである。
 この時新たに女性のミイラが発見された。このニュースはテレビや新聞紙上をにぎわせた。

 これについては、次の機会にアップします。
 

小説『楼蘭』について思う

 この短篇は五部からなる。
 一部では漢と匈奴に挟まれて両国からの圧力を受ける楼蘭の状況を、
 二部では匈奴の攻撃を避けるために楼蘭を後にする楼蘭人の姿を、
 三部では主人を失った楼蘭の荒れ果てた姿を、
 四部では四世紀後半に楼蘭を奪回しようとする若き楼蘭人の指導者の姿と楼蘭の消滅を、
 五部では20世紀初めのスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによる楼蘭発見を描いている。

 『楼蘭』は不思議な小説である。
 西域に実在した楼蘭を描いた歴史小説なのだが、主人公が登場しないし、台詞もほとんどない。
 敢えて主人公を挙げれば、それは人物ではなく、楼蘭であり、楼蘭の象徴とも言うべきロブノールであり、その守り神である河竜なのである。
 だが主人公が登場しないことで、特に違和感を感じさせない。かえって、短篇でありながら大河小説のような雄大さを感じさせる。優れた構成力を感じさせる。

 楼蘭とロプノールに関する文献は少なくない。最古のものは、漢代の『史記』(匈奴列伝など)であり、その後の『漢書』にも記載されている。三十代に、これらは日本語版で読んだ。
 これらに興味深かったが、やはり私にとっては、19世紀末から20世紀初頭にかけての、外国隊の中央アジア探検記の方が馴染みがあって面白かった。
 中でもヘディンの『彷徨える湖』が、砂漠への憧憬をより強くした。
 
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                       ヘディンによるスケッチ
 
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                       ヘディンが作成したロプ・ノールの地図

 子供のころから未知のものへの憧れと冒険心の強かった私は『彷徨える湖』を夢中で読んだ。
 そして、大学でドイツ語を学んだ私は、ドイツ語の勉強を兼ねて『彷徨える湖』の原書にチャレンジした。
 
 
http://vlog.xuite.net/_a/Mjk5Mjg4Mg==&as=1

心ふるえた小説『楼蘭』 〜シルクロード小説との初めての出会い〜

 私が、シルクロード小説に始めて出会ったのは、かれこれ50年ほど前、中学生の頃だった。
 それは、井上靖作『楼蘭』である。
 実は読んだのではなく、耳で聴いたのだ。
 その頃私は、NHKラジオ「朗読の時間」を楽しみにして聴いていた。

 この作品が朗読された初日――
 『楼蘭』という耳慣れない題目を聞いた時、一瞬、<なんだこれは…>と感じて興味がそがれた。
 そして「井上靖」という著者の名前を聞いて、興味はさらに遠のいて行った。
 題目も著者も初耳だった。
 何せ中学時代のこと、夏目漱石や芥川龍之介といった文豪の名作を期待していたのだ。
 
 ところが、出だしの「往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さな国があった」という文が読み上げられたとたん――、失望は一気に期待に変った。
 「西域」という言葉は、私のあこがれの言葉だからだ。胸がジンジン高鳴った。
 「楼蘭」ってどんな所だろう――想いは遥か…まだ見ぬいにしえの国に飛んでいた。

 朗読は続いた。
 ―― この楼蘭国が東洋史上にその名を現わして来るのは紀元前百二、三十年頃で、その名を史上から消してしまうのは同じ紀元前七十七年であるから、わずか五十年程の短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在していたことになる。いまから二千年程昔のことである。   (井上靖著 『楼蘭』より引用)
 
 ここまで来ると完全に引き込まれてしまった。
 一心不乱に耳を傾けた。
 第1回目の朗読が終わると、次回が待ち遠しくなった。
 
 
 漢と匈奴という強国に挟まれた弱小国「楼蘭」は、匈奴の掠略から逃れるために住み慣れたロブノール(ロブ湖)湖畔の土地を捨てて鄯善に移り住む。その人々にとってロブノール湖畔の故地「楼蘭」は、いつかは帰るべき場所だった。しかし、その数百年後、楼蘭を取り戻そうとした鄯善の若い武将が湖畔に立つが、楼蘭も湖も…、そこはすでに砂の中に埋もれてしまっていた。

 私が青春の心を震わせて聴き入ったのは、朗読の最後の行――
 「鄯善のこの若い指揮者はもう一度、部下とともに楼蘭を訪れた。併し、この時は楼蘭の城邑は全く砂に埋まり、僅かに櫓の一部を砂から覗かせているのを見ただけであった。そして細長い湖を見るために密林地帯にはいって行ったが、白く乾いた砂の道が帯のように広がっているだけで、どこにも湖を見ることができなかった。ロブ湖は姿を消し、楼蘭は全く砂漠のただ中に埋まってしまったのであった」 である。
 

 だが私の想像の目には、青々としたロブノールと、オアシスの中に光り輝やいて建つ楼蘭の都がはっきりと見えた。
 
 少年時代のわたしはこのような光景を思い浮かべていたと思う。
 今もその想いは変わらない。
 
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    ロブノール楼蘭王国の前に広々と広がり、人々に命の恵みを与えていた。   (写真は玉竜沙湖)       
 
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    いかにも小国らしいのどかな営みが伝わってくる。  (写真はチャカ湖)
 

 ラジオから流れてくる哀愁に満ちた語り口調と音楽が、痛いほど心に染みた。
 センチメンタルな気分は、床に入っても続き、容易に眠れなかった。
 
 
 翌日の放課後、さっそく電車に飛び乗って書店へ出かけ、『楼蘭』を買い求めた。
 当時の本は講談社発行のものだった。
 中学生のくせに、世界史地図帳と年表まで買って来て、小説に出てくる西域の小国の位置を確認しながら夢中で読んだ。

 
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  世界史年表・地図(吉川弘文館)
 
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 西域が中国にとっても北方民族にとっても重要な地域であったこと、
 西域諸国はこれら二大勢力に挟まれて常に翻弄され続けて哀しい運命を辿ったこと、
 それでも尚且つ西域諸国の人々は自国に誇りを持ち続けたことが、生き生きと伝わってきた。
 自分も完全にその中に入り込んでいた。

 小国の悲哀とそれにも関わらず抱き続ける自尊心には深い感銘を受けた。
 この小説は60ページの小品ではあるが、中学生のわたしでも、何か非常に深い人生や歴史が刻み込まれているような気がした。
 これから歳を重ね、人生経験を積んで読むとまた新たな発見があるのではないか……
 そんな期待を抱かせてくれた。
 成人になってから2冊目(新潮文庫)を買って、その後さらに二度読んだ。 
 
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 次回は、この小説に登場する悲運の美女について紹介します。
 この美女は、スタインが発見した「楼蘭の美女」と称されるミイラをモデルにしたものです。
 
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       シルクロードと言えばキャラバン。キャラバンと言えばやはり砂漠が絵になる。

引くに引けない『東方見聞録』

イメージ 3 高校の世界史の教諭Y先生はなかなかの実力者で、歴史好きの私には聞き応えのある授業だった。待ちに待った『東方見聞録』が出てきた。Y先生にいろいろと質問すると、「君はよく『東方見聞録』の中身を知っているなあ。読んだことがあるようだね」と言うので、ついそれに引きずられて「はい」と応えてしまった。そのあとで、お調子づいてつい口が滑ってしまい、「『東方見聞録』についてはオレのほうが先生よりも知っているかもしれません」と続けてしまった。一瞬,Y先生の顔がこわばった。<しまった>と思ったが,後の祭り。
 だがさすがY先生。
 「それじゃ次の時間には、君に『東方見聞録』の話をしてもらおう。みんなも質問したいことを準備してこいよ」と何食わぬ顔で言った。
 ずしりとした重いパンチだった。それを聞いて教室中に茶化すような笑いが広がった。これには思わず頭にきた。こうなったら後へは引けない。これでかえって腹が据わった。
 
 実は、私がそれまでに読んだこのがあるのは、子供向けの『マルコ・ポーロの冒険』と、東方見聞録の解説書だけだった。
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 さっそく図書館で『東方見聞録』を借りて、受験勉強をそっちのけにして必死に読んだ。皮肉なものだ。そのことが「シルクロード」への関心によけいに火をつけた。それ以後は、シルクロードに関する情報にはアンテナを張り巡らせていた。
 
?H5>シルクロードって いつだれが言ったの?  私が興味を持ったのは――「シルクロード」という言葉は、いったいいつごろから誰が言い出した言葉なのだろう、ということだった。
 今でこそシルクロードといえば、たいていの大人は、少なくても言葉は知っている。
 だが、当時はシルクロードという言葉はあまり使われていなかった。聞いても「それってなに?」って感じだった。
 
 世界史や地理の教科書には、「『絹の道』は西域を横断する古代の東西交通路」と説明されていた。  ちょっと専門的になってしまうが…、「西域」という言葉は、 紀元前1世紀頃から中国で一般的に使われるようになったもので、狭い意味では現在の「新疆ウイグル自治区」を指し、もう少し拡げれば「西トルキスタン」――わかりやすく言うと「中央アジア」までも含むが、広い意味では、「中国から陸続きの西方の諸地域」ということで、ヨーロッパまでも含まれる。「シルクロード」は広い意味での西域を横断する古代の東西交易路である。

イメージ 4 ドイツの地理学者リヒトホーフェンが「ザイデンシュトラーセンSeidenstrassen(絹街道)」という語を使ったのが始まりだ。
 この道を通って、古代中国特産の絹が西へ運ばれたために名づけられた。
 リヒトホーフェンは、中央アジアのオアシス群を結ぶ道(オアシスルート)をシルクロードと考えていた。
 だが、その後、東西交易についての研究が進むと、シルクロードの概念は西へ西へと拡大して、中国の西安(= 長安 =)から西アジアを経て、イスタンブールやローマに達する交易ルート全体をさすようになった。そこには、ユーラシア北方の草原地帯を通る「ステップルート」や、中国の広州あたりから東南アジア、インド洋を経て紅海にいたる「海のシルクロード」(南海ルート)も含まれる。
 だが、わたしにとっては、子供の頃にあこがれた、マルコ・ポーロが辿った砂漠の道が「シルクロード」なのだ。
 
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      夜の鳴沙山  まるで夜の砂漠をラクダで旅するシルクロードのキャラバン隊のように想えた。

マルコ・ポーロとの出会い

イメージ 1 シルクロードに興味をいだく人間で「マルコ・ポーロ」の名を知らない人はいないだろう。『東方見聞録』の中で、日本を「黄金の国・ジパング」と紹介した人物である。わたしが彼と初めて出会ったのは、小学5年生だった。担任のF先生は、わかりやすい面白い授業をする先生で、人間的にも立派で、学校中の生徒から人気があった。特に歴史が好きで、手振り身振り、ユーモアたっぷりで、社会の授業を盛り上げていた。ふだんは隣とおしゃべりをしたり、おとなしいと思えば寝ていたりする悪ガキどもも、社会の授業だけは楽しみにしていた。いつもとは打って変わって先生のほうへ顔を向け、たまには「はあ〜、それからどうした…」などと、合いの手を打つほどの変身ぶりだ。

 先生は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』(実は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である)の話になると、いつもにも増して熱が入った。旅の話はことさら面白くて、多少の作り話も混じっているとは思っても、ついつい引き込まれて、目を輝かせて聞いていた。マルコ・ポーロが東洋に夢を膨らませたように、私もシルクロードの世界に夢とロマンを広げていった。『アラビアンナイト』や『シンドバッド』、はたまた「月の砂漠をはるばると、旅のラクダがゆきました…」を思い浮かべながら、夢と想像を広げていった。

 『東方見聞録』には、日本は「ジパング(日本)は、カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金が採れて、宮殿や民家は黄金で出来ているなど、財宝に溢れている。人々は信心深く、仏様の崇拝者で、外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある」と書かれているという。 旅の話ならば少しくらいのウソが入っていたほうが却って面白がって聞いていたが、さすがに自分の国のこととなるとそうは行かない。少し抗議口調で「鎌倉時代には、ほとんどの民家が貧しかったので金なんかでできているわけはないし、宮殿だって平泉の金色堂くらいしかないんじゃないですか。それに、日本人が人食い人種だなんて、まったく面白くありません。先生はどう思うのですか?」と尋ねた。
 
 すると先生は、
 ―― 「私もそう思っている。宮殿や民家は黄金でできている、というのは、中尊寺金色堂についての話を聞いたものだといわれているんだ。実際、マルコ・ポーロは日本には来たことがないので、中国で聞いた噂話として書かれているんだ。
 
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      2011年世界遺産に選ばれた平泉の中尊寺金色堂

 ころで、『ジパング』は日本の英語名「ジャパン」(Japan)の語源になっているんだよ。当時のヨーロッパの人々も、マルコ・ポーロの言っていた日本についての内容はあまり信じなくて、彼は嘘つき呼ばわりされたそうだよ。だが『東方見聞録』は、その後多くの言語に翻訳されて、手写本としていろいろな国に広まっていったんだ。これがアジアに関する貴重な資料として重宝されて、後の大航海時代に大きな影響を与えるようになったのです。ジパングを目指して出航し、アメリカ大陸を発見したコロンブスも、この書を手元から離さなかったそうだ。なんと366箇所も書き込があったそうだよ。
と答えてくれた。
 
イメージ 2 こんなわけで、私はマルコ・ポーロに強い興味を持った。さっそく、1時間以上電車に乗って仙台の書店まで出かけた。なかなかいいものが見つからなかったので,書店のおねえさんに「マルコ・ポーロの本を探してるんだけど」と声をかけると、
 「あなた小学生でしょう! これがいいんじゃない」と言って、『マルコ・ポーロの冒険』という少年少女向けの本を出してきてくれた。本での最初の出会いだった」
 
 1271年、イタリアのヴェネチアに暮らしていた17歳の少年マルコ・ポーロは父ニコロと叔父マテオに随行して東方へ旅立つことになる。道中でマルコは様々な体験や色々な人々との出会いと別れ、冒険を繰り返しながら成長していく。未来に向かって、理想に向かって突き進んで行くマルコ・ポーロ。未知の世界を切り開く意思の強さ、何処までも希望を捨てない精神の強さ……。感動で時には涙をためながら、一気に読みきってしまった。'''「大人になったら絶対にシルクロードに行ってやる!」"""――そう決意した。
 
 これが、248日にも及ぶシルクロードの一人旅の原点になったのである。

  
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       タクラマカン砂漠  砂丘を超えて歩むわたしたちのラクダの隊列

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