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[本日のシルクロード美人] ウイグル帽がかわいい敦煌の女の子 私は、高校生の頃に初めて『敦煌』を読んだ後、敦煌はその後どういう運命をたどったのだろうか? と、興味がありました。 今日は、小説『敦煌』のあらすじと小説後の敦煌について書きたいと思います。お付き合いください。 = [本日のシルクロード] =
時は北宗の時代の十一世紀、場所は都の開封。
「世界史年表・地図」(吉川弘文間)より 官吏登用試験に失敗した趙行徳は、開封の街で裸にされて売られている西夏の女に出会う。 その女の死をも恐れぬ態度に行徳は、官吏万能の社会にはまりこんでいた
行徳は西夏という国が見たくなる。西夏は当時、ゴビ砂漠の入口に興慶(現在の銀川市)という中心地をもち、河西回廊の漢民族の支配地を次々と襲っていた。
行徳はふとした事情から、西夏の漢族部隊に入り砂やヤルダン(強風でつくられた粘土が波立っているような土地)や塩土のなかで激しい戦いを経験する。まるで小山のようなヤルダン
行徳は、ついには、西夏が敦煌を焼き尽くす瞬間に居合わすことになる。
敦煌が陥落するに当たってラクダの隊商を率いている、干テン(うてん)(テンの漢字は、門構えの中に眞が入る)の王族を名乗る青年が、欲に駆られて敦煌の支配者・曹氏一族の宝物を隠匿しようとする。それに便乗して、行徳は大切な経典を莫高窟の穴に塗り込めた。これが後に発見される第17屈の経典である。
敦煌の莫高窟には四世紀から十四世紀までの千年間、ここで興亡を繰り返した人たちの息吹が遺されているが、明の時代、中国王朝の版図が狭まり、敦煌は孤立したらしい。
砂漠の真ん中である。窟がつくられている鳴沙山そのものが、まるで小麦粉のような細かい砂で全山覆われている。打ち捨てられた莫高窟は砂に埋もれるに任せられたようだ。現在ある敦煌市は、十八世紀の初めに造られた街で、漢時代の敦煌の街は三キロ西南の地下に眠っている。
敦煌の膨大な美術が注目されるのは、二十世紀の初めの偶然の発見だった。廃虚のようになった莫高窟に住み着いていた王円録★(実際の字は、録上に竹冠がつく)が十七窟に膨大な経巻、刺繍、絵画、仏典がぎっしり詰まっているのを発見した。敦煌から膨大な文物が見つかったというニュースはたちまち外国に流れ、イギリスのオーレル・スタイン、続いてフランスのペリオ、さらに日本の大谷探検隊などが次々敦煌を訪れた。 持ち出された文物はいま、大英博物館、同図書館、パリ国立図書館、ギメ美術館など世界各国にあり、その数は何万点にものぼる。この海外流出については、先進国による“略奪”という評価がある一方で、それらの流出があったからこそ、保存の手が打たれたという評価もある。 莫高窟の入口のすぐそばには敦煌研究院がある。そこで、学芸員にいろいろ説明してもらった。前身の「敦煌芸術研究所」が1944年2月に設立されたので、私が2度目に訪れた2005年は61年目に当たる。 創立者の常書鴻氏は絵画の勉強に留学したパリで、ペリオの著した『敦煌千仏洞』に出会い、故国の美術品の保護を決意する。一九四二年、パリ時代の油絵を売って旅費を作り、列車やラクダを乗り継いでやっと着いた莫高窟は荒れ果てていたとのことだ。 日中戦争が終わり、「敦煌文物研究所」になったころから研究は進み始めたが、文化大革命により敦煌市内の文化遺産は破壊された。しかし、当時の周恩来総理の「文物保護」の命令もあって、莫高窟は被害を免れた。 敦煌の莫高窟には四世紀から十四世紀までの千年の間、窟が掘られ、塑像が造られ壁画が描かれたが、唐の時代、その盛りを迎えた。中国の王朝の消長に伴い、敦煌の地も漢民族の支配をうけたり、周辺の民族の支配下にあったりとめまぐるしく変転した。それを反映して莫高窟には、唐のほか、十六国、北魏、西魏、北周、隋、吐蕃、西夏、元の各時代の特色をもった窟が存在する。明の時代に中国王朝の範囲が狭まり、敦煌は孤立した。 そして放置され、砂に埋もれてしまったのである。それがむしろ敦煌にとって幸いしたともいえるだろう。 |
0シルクロードへの熱い想い
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イスラエルとガザ地区はいったんイスラエルが攻撃をやめたと思ったら、 すぐに攻撃開始です。中東へ何度か足を運んでいる私としては気がもめますが、難しいでしょうねえ… 悪役朝青龍も全勝で場所を盛り上げています。これで面白くなりました。 どうにか3日坊主を過ぎて4日目になりました。 毎日の更新はなかなか骨が折れますが、頑張って続けていきたいと思います。 今日はまた小説『敦煌』にお付き合いください。 [本日のシルクロード美人] 敦煌の舞姫 = [本日のシルクロード] = ついに幸運到来 〜小説『敦煌』 への大人の恋〜 敦煌については、既に多くの書物を読み、何度もテレビ放送を観ている。そして、小説『敦煌』を題材にした映画 (主人公の趙行徳を佐藤浩市、西夏の漢人部隊の隊長朱王礼を西田敏行が演じた)も見た。 映画「敦煌」の撮影セット 佐藤浩市と西田敏行 格闘演技を観光客に披露 何よりも実際に二度訪れて、十分とはいえないまでも土地勘もある。 2冊目の『敦煌』のページをめくり始めたとき、おそらく別な出会いがあるだろうな…と、なんとなく期待感をもった。別な恋人が見つかるような気がして…、やはりときめきがあった。だが、高校生の頃のような、しゃにむな入れ込みようとは違って、ゆったりとした地に足の着いた心のゆらぎだった。 実際に足を踏み入れたことのある敦煌だけに、小説のなかの情景やイメージがどんどん自分の中で消化されていく。臨場感があり、自分が主人公になりきれるときもあった。 敦煌の遺物が世界に知られるきっかけとなったのは、第十七窟に埋まっていた膨大な文物が発見されたことだった。このことが、小説『敦煌』の発想になっている。 作者の井上氏は、『敦煌』を書いた時点では実際に敦煌に行ったことはなかった。文献だけであれだけの臨場感をだせるのだから、描写力には改めて脱帽する。こうしたイメージ描写について、井上氏は次のように語っている。 ――私は学生時代から西域関係の書物を読むのが好きで、西域の入口である敦煌付近の都邑については、いつからともなく、それぞれのイメージを持つようになっていた。それらのイメージは書物からえたものがもとになって、ごく自然に私の心に生まれてきたものである。そうしたもので、小説『敦煌』は書かれている。 小説「敦煌」を書いてから二十年の間、自分の小説の舞台になっている河西回廊地帯に実際に足を踏み入れてみたいと思ったし、敦煌という町も、敦煌莫高窟も、自分自身の目に収めたいという気持も強かった。しかし、文字通り中国の辺境ではあるし、望んで果たしえないことだと思っていた。(NHKシルクロード 第2巻 敦煌 砂漠の大画廊)より 井上氏は、どれだけシルクロードに行きたかったことだろう。井上氏の自分の思い入れはもちろんだが、小説『敦煌』で書いた自分の持っていたイメージが、はたして正しかったのかを見定めたいという意味もあったであろう。同じ想いを強く持っていた私には、その想いがよく伝わってくるのである。 井上氏がその望んで果たしえないことが思いがけずに実現できたのは、昭和53(1978)年と54年であった。そして永年の夢がはたされたのであった。 若い頃の私は、望んでも、望んでも手の届かない存在にますます憧れを強めていった。そのギャップを埋めようと、シルクロードや西域に関する本を読み漁った。読めば読むほどかえって想いは深くなり、ギャップが広がった。世界情勢を知れば知るほど、夢の実現に対する壁は厚く、高くなっていった。 シルクロード3分の2は中国とソ連(当時)を通っている。ソ連は鉄のカーテン、中国は竹のカーテンが張り巡らされ、一般人は入国すら容易ではなかった。おまけに、1979年ソ連のアフガン侵攻が開始され十年近くも続いた。シルクロードは「夢のまた夢」だった。 わずかに光明が差し始めたのは、日本と中国が国交を結ぶ1972年であり、ソ連崩壊の1991年であった。ところが、その後、イラン・イラク戦争(1980〜88)、湾岸戦争(1991)アフガニスタン戦争(2001)、イラク戦争(2003〜)と、シルクロード周辺は物騒な状態が続き、細いローソクの炎は風前の灯となった。 しかし、なんと幸運なことか…。後から思ったのだが、シルクロード全行程を歩めたのは、私が定年を迎えた2005年だけだったのだ。マルコ・ポーロの道を歩める幸運が、思いもかけず廻ってきたのである。 私が夢を達成した1年後には、旧ソ連領のキルギスとウズベキスタンで相次いで内乱が起きた。そして、いったん落ち着きかけたかに思えたイラクではテロが続発し、いまだ戦争状態が続いている。アフガニスタンではタリバンの動きが再び活発化してきている。
あのチャンスを逃したらシルクロード全行程走破はずっと先延ばしか、永久にめぐり合えなかったかもしれない。 こうした幸運を神に感謝しながら、旅の準備に取りかかったのである。 |
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数多く読んだ井上文学の中で最もロマンを与えてくれたのは、『敦煌』であることはまちがいない。 恋愛に例えるなら、『楼蘭』が幼い頃のせつない初恋だとすれば、『敦煌』はいくらか恋の味を知った少年の燃えるような恋だ。 「西域」へロマンをはせるきっかけを与えてくれたのが、中学時代に読んだ『楼蘭』ならば、ロマンをはてしなく広げてくれたのが『敦煌』だった。 私が『敦煌』を読んだのは、高校1年生の時。 私は中学生の時から自由日記を書いていた。幸いにも全て保存しておいた。『敦煌』を読み終えた日の日記には、こんな感想が書いてある。 ――『敦煌』を読み終えた。『楼蘭』に続く井上靖のシルクロード小説2冊目だ。 時代背景が、『楼蘭』が紀元前の前漢なのに、『敦煌』はかなり後の11世紀・宋の時代だ。 舞台は、僕が名前しか知らず余りなじみがない「西夏」だ。まるで時間が飛び跳ねてしまったようだし、なじみのない土地に放り出された感じだった。未知の世界へ急に入り込むのもいいか…と思うが、歴史好きの僕はついつい、知らないことを調べてしまう。 まず、舞台の敦煌だ。小百科辞典(1954平凡社)で「敦煌」と「敦煌莫千仏洞」を引いてみるとこう書いてあった。 「敦煌」 別名、沙州。古来中国西北角の交通要衝。西の玉門関・陽関もと東西交通の2大門関。東南の鳴沙山千仏洞(莫高窟)は仏教史上の世界的遺跡。美術・古文書の宝庫。 人民政府敦煌芸術研究所あり。 「敦煌莫高窟」 敦煌南方の石窟寺院。石窟群約300。353来開鑿(*かいさく:土地を切り開いて道路や運河などを通すこと)13世紀まで継続。六朝〜隋・唐代が盛。本生譚や浄土変相の壁画・塑像を雄姿、貴重な仏教芸術の遺跡。初期のものはガンダーラ末期の様式を示す。 世界史地図を見ると、敦煌は楼蘭と同じ時代には既に存在していた。 敦煌はその間にどういう運命を辿ったのだろう…、西域は、そしてシルクロード様子はどう変ったのだろう…、きっといろいろな歴史が展開されたんだろうな……。僕のロマンは時を超え、果てしない空間を越えてぐんぐんと広がっていった。 人間の運命というものの不思議さを感じた。井上靖の想像力、表現力の豊かさに脱帽した。もっと井上靖のいろいろな本が読みたくなった。 この日記を読んで、“高校時代にしては、よく調べているし、けっこう書けているなあ”と、我ながらちょっと感心した。 その燃える想いで、西安から西へ、西へ…、時の空間を現代といにしえを自由に行き来しながら書き進めてみたい――強く思った。だからもう一度、恋人『敦煌』に逢ってみたくなった。高校時代に読んだ本があるのに、ごていねいにもわざわざアマゾンから取り寄せた。 これまでにも、読むチャンスはいくらでもあった。しかし、大切な恋の思い出を大切に取っておきたかったので、あえて封印しておいたのだ。思えば、今までたくさんの井上文学に接してきた。その中には『敦煌』よりもすばらしい作品も思えるようなものはあった。だが、「出会いの妙」という奴だろうか……、絶妙のタイミングで出会った『敦煌』が、やはり、わたしにとって永遠の恋人なのである。 届いた本の表紙カバーのデザインは、私が持っているちょうど50年前のものとはやはり変っていた。だが、内容書きは、胸ときめかせて読んだ高校時代の本とまったく同じだった。懐かしく口ずさみながら読み上げた。 ――官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。そのとき彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を帰ることになる……。西夏との戦いによって敦煌が滅びるが、滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目をみたという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。 新しい恋人に出会うつもりで、ページをめくり始めた。 続きは次回で
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心の中では毎日ブログを更新しようと思っていたのですが、他にも急ぎの執筆があり、 9日には「イランの素顔 〜イスラム社会をしなやかに生きる人びと〜」と題して 講演を行うことになっております。その準備をやらなければなりませんので、やむなくブログはちょっと後回しでした。 早くも3日坊主になりました。 私が、シルクロード小説に始めて出会ったのは、かれこれ50年ほど前、中学生の頃だった。それは、井上靖作『楼蘭』である。実は読んだのではなく、耳で聴いたのだ。その頃私は、NHKラジオ「朗読の時間」を楽しみにして聴いていた。 この作品が朗読された初日――『楼蘭』という耳慣れない題目を聞いた一瞬、<なんじゃこりゃ〜>と思った、そして井上靖という著者の名前を聞いて、正直いうと、興味はさらに遠のいて行った。どちらも初耳だった。何せ中学時代のこと、夏目漱石や芥川龍之介といった文豪の名作を期待していたのだ。 ところが、出だしの「往古、西域に楼蘭と呼ぶ小さな国があった」という文が読み上げられたとたん――、失望は期待に変った。「西域」という言葉は私の、あこがれの言葉だからだ。胸がジンジン高鳴った。「楼蘭」ってどんな所だろう――想いは遥か…まだ見ぬ楼蘭に飛んでいた。 「楼蘭が東洋史上にその名を現してくるのは紀元前百二、三十年頃で、その名を史上から消してしまうのは同じく紀元前七十七年であるから、わずか五十年程の短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在していたことになる。いまから二千年前のことである」…朗読は続いた。ここまで来ると完全に興味が引き込まれてしまった。第1回目の朗読が終わると、次回が楽しみになった。 漢と匈奴という強国に挟まれた弱小国「楼蘭」は、匈奴の掠略から逃れるために住み慣れたロブノール(ロブ湖)湖畔の土地を捨てて鄯善に移り住む。その人々にとってロブノール湖畔の故地「楼蘭」は、いつかは帰るべき場所だった。しかし、その数百年後、楼蘭を取り戻そうとした鄯善の若い武将が湖畔に立つが、楼蘭も湖も…、そこはすでに砂の中に埋もれてしまっていた。得も言わず哀愁に満ちた語り口調と音楽が心に染みた。だが私の想像の目には、青々としたロブノールと、オアシスの中に光り輝やいて建つ楼蘭の都がはっきりと見えた。センチメンタルな気分が夜寝るまで続いていた。 翌日の放課後、さっそく電車に飛び乗って書店へ出かけ、『楼蘭』を買い求めた。当時の本は講談社発行のものだった。世界史地図帳と年表まで買って、傍らに置いて小説に出てくる西域の小国の位置を確認しながら夢中で読んだ。 世界史年表・地図(吉川弘文館) この小説『楼蘭』は、ロブ湖畔で若い女のミイラ――後に私はこの美しい女性 この短篇は五部からなる。一部では漢と匈奴に挟まれて両国からの圧力を受ける楼蘭の状況を、二部では匈奴の攻撃を避けるために楼蘭を後にする楼蘭人の姿を、三部では主人を失った楼蘭の荒れ果てた姿を、四部では四世紀後半に楼蘭を奪回しようとする若き楼蘭人の指導者の姿と楼蘭の消滅を、五部では20世紀初めのスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンによる楼蘭発見を描いている。 『楼蘭』は不思議な小説である。西域に実在した楼蘭を描いた歴史小説なのだが、主人公が登場しないし、台詞もほとんどない。敢えて主人公を挙げれば、それは人物ではなく、楼蘭であり、楼蘭の象徴とも言うべきロブノールであり、その守り神である河竜なのである。だが主人公が登場しないことで、特に違和感を感じさせない。かえって、短篇でありながら大河小説のような雄大さを感じさせる。優れた構成力を感じさせる。 楼蘭とロプノールに関する文献は少なくない。最古のものは、漢代の『史記』(匈奴列伝など)であり、その後の『漢書』にも記載されている。三十代に、これらは日本語版で読んだ。これらに興味深かったが、やはり私にとっては、19世紀末から20世紀初頭にかけての、外国隊の中央アジア探検記の方が馴染みがあって面白かった。中でもヘディンの『彷徨える湖』が、砂漠への憧憬をより強くした。 『楼蘭』にはまり込んだ中学時代の私は、井上靖のシルクロード関係の本を、次から次へとむさぼるようにして読んだ。皮切りは『敦煌』だった。
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