東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

2漢唐陵墓〜咸陽〜蘭州・炳霊寺

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                         蘭州のイスラム教寺院(モスク)

2009年5月19日(火)〜20日(水)

蘭州のモスク 〜いろいろなモスクと「アホンとの対話」〜 

 蘭州に到着した翌朝、ホテルの部屋からまだ薄暗い外を眺めると、ビルに混じってモスクのミナレットと青みがかった礼拝堂のドームが見えた。
 
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[コラム]
 ミナレットは、尖塔(せんとう)と訳されることもあり、イスラム建築でモスクに付設されるバルコニーのある高塔である。1日5回の礼拝を信者に呼びかけるために使われる。
 モスクの格によってその数は異なり、最大規模で六基まで建てられ、モスクの構成に変化を与える。その形態は時代と地域によって多様で、古くは単純な角塔か円塔であったが、時代を経るにつれて円塔に角塔を積み重ね、各層ごとにバルコニーを張り出し、土筆(つくし)状になった。


私がイスラム教の寺院・モスクを実際に目にしたのは1989年、西安の清真大寺だ。

 それまでテレビや新聞などで目にしていたモスクは大きな丸いドームになっていて、入口の両側には高い塔があるというイメージだった。ところが 清真寺の外観は中国古来の建物や楼閣と余り変らなかっった。
 そのときには少々期待はずれだった。(下線文字をクリック)
 
 モスクの建築様式は、その土地古来の様式とイスラム様式が融合して、その土地に独特の様式が生まれるはずなので、西に行くにしたがってどのように変化してゆくのか楽しみなのである。

 さっそく身じたくをしてフロントへ行き、日本語の話せる服務員にモスクのことを訪ねると、「近くに古いモスクが残っているので、そちらを先に回るとよいですよ」と教わって、出かけた。

 近ずくに連れて、楼閣のとがった屋根が薄明かりの中から少しずつ浮かび上がってくる。
 西安の清真大寺の屋根と同じような形だった。あいにくまだ時間が早すぎて門が閉じられていて、塀の中には入れなかったので、楼閣の屋根だけ撮影した。
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 その後日中の観光で、黄河遊覧船や白塔山頂上からもモスクやイスラム風の建築が見える。
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 蘭州は 甘粛省の省都で、古名は金城、隋の時代に 蘭州となった古都である。現在は人口 300万人を超える大都会で、その 10%ほどが回族だという。回族はほぼすべてイスラム教徒である。
 市内を貫く黄河が、経済的にも景観的にも大きな役割を果たしてきた。
 
 モスクの数は多く、開放路清真寺と 橋門外清真大寺という 2つの重要なモスクがあったが、いずれも文化大革命で破壊されてしまった。 これほどまでに徹底して古建築を破壊した文化大革命の精神構造というのは、今となっては まったく理解できない。
 
 この 「文化虐殺」運動というのは、ユダヤ人虐殺や アルメニア人虐殺と同類の蛮行と言える。 中国全土で、いかに多くの古建築が消失したことか……。

 その後、宗教復活が図られ、新たにモスクが建てられ、現在蘭州には100以上のモスクがあるという。
そのいくつかの写真を紹介しよう。

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西関清真大寺

 蘭州で最大規模のマスクは、なんといっても西関清真大寺である。

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蘭州の。 現代建築としての、RC造のモスク。外周にはコンクリートのペア柱が 16組並び、半円アーチが架けられている。
 見るからにモダンだ。

 西関清真大寺の再建計画は、宗教復興後の 1983年に始まり、1990年に破壊された開放路清真寺に代わって建てられた。 外資系の企業 「客商」が資金援助したことから、「客寺」 とも呼ばれている。
 
 設計は回族の 王鴻烈に委託された。
  中国式ではなく、ドーム屋根の 「阿拉伯 (アラビア) 式」 である。こうしたところも回教徒に対する中国政府の懐柔策の一端がうかがえるような気がする。
 
 地上4階であるが、大階段によって 1階床を高く上げている。この下の半地下部分が信徒室になっていた。
ドーム屋根といっても、現在の中国に多い中東やインドのドームのイミテーションではなく、RC造の現代建築としての風格を保っている。ドームというより、むしろ UFOのような印象を与える。 高さは 37mである。
 

アホンと語る

 熱心に写真を撮っていると、ひとりの老齢のアホン(イスラム教の導師)が「日本の方ですか?」と、流暢な日本語で話しかけてきた。

 ほっそりとした白髪の顔には柔和な笑みが浮かんでいる。この方は、戦前日本の大学で学び、日中戦争時代に中国に住む日本人に布教活動をしていたとのことだ。こういう経歴なので日本語が上手なのである。
 
 私の旅の目的などを話すと、モスクの中を案内してくれた。そして、当時ほとんどイスラム教の知識がなかった私にいろいろ説明してくれた。

 内部には礼拝殿のほかに 図書室や教室、そして女礼拝室も備えている。 礼拝室は外周が 16角形、その内側に 8本の円柱が並び、2層吹き抜けの折り上げ天井が載る。
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蘭州の西関清真大寺。 現代建築としての 礼拝室の内部。2階に吹き抜けた シンプルな礼拝室。 伝統的な後窰殿スタイルはとらず、一室構成とする。右側にミンバル、その奥にミフラーブがある。

寺には学僧の寄宿生が50人いた。甘粛、青海、新疆の各地から集まっている。6人部屋に寝泊まりして午前4時半起床、お祈り、勉強、炊事や掃除に励む。
 回族の宗教的生活を管理指導する宗務者をアホン(教長)といい、勉強もみる。教室で二列に向かい合った若者たちを、海学真アホン(74)が壁に切った窓から身を乗り出すようにして教えている姿がほほえましい。

  コーランの読み上げ、うたい上げの練習風景にもぶつかった。私がコーランの朗唱を聴くのはもちろん初めてだった。
 言葉を明確に理解させるため発音法が厳しく規定されている一方で、砂嵐を突き抜けるような旋律が空気を震わし、イスラム音楽の一端に触れる思いがした。
 仏教の声楽、声明(しょうみょう)がかつてライブコンサートの役割を果たし、信徒を極楽浄土の世界に誘っていたことと考え合わせると面白い。
 
 その調べは流れるようでゆったりとしたリズムだった。実に豊かな音楽性を持っている。その時ふと思った――どこの国でも同じ言葉で、同じ調べなのだろうか、それとも仏教のお経や聖書のようにその国の言葉に翻訳されているのだろうかと…。

 正解はすぐにわかった。朗唱している言葉は明らかに中国語ではない。読み上げているコーランの文字ををチラッと覗かせてもらうと、中国語ではなく、アラビア文字らしい。

 後からわかったことであるが、コーランは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。
コーランが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。

 そうである以上勝手に母国語に訳して朗唱することは出来ないのである。理念を重んずる仏教やキリスト教徒は基本的に異なるのである。

学僧たちがうたいあげるコーランの調べが、礼拝堂いっぱいに流れる。彼らはは礼儀正しく、その表情は明るかった。

アホンとの会話―― 一問一答といったほうがよいかもしれない――の一部を再現してみよう。
「このモスクには信者はどれくらいいるのですか」
「1万人以上の信者がいます。多いときにはこの礼拝堂に入りきれなくて中庭にあふれます」

「1万人?本当に1万人もいるのですか」
 *蘭州には30万人ほどの信者がいるのだから、最大のお寺であるここに1万人いても不思議ではない。
「そうです。信じられませんか。ハハハハ。ところでモスクでの写真の写し方ですが、信者の顔を写してはいけません。コーランで禁じられているからです。ただし、今はコーランの勉強の時間と解釈して、顔を中心に撮らなければ、撮影してもいいですよ」
 
 
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「アホンさん、この清真寺ではあなたが一番位が高いのですか」
「アラーの神の前には人はすべて平等です」

「アホンの地位は世襲ですか」
「信者たちが、推薦して決めます」

「あなたの収入、生活費はどのようにしてまかなわれるのですか」
「国家から支給されます。清真寺という寺を管理する労働と、信者とともに毎日5回礼拝をする労働に 対するものです」

「この寺の運営や維持費についてはどうですか?」
「寺の修理、維持費などは文物管理局から出ます」

 話しているうちに、信者が集まってきて礼拝が始まった。
 メッカに向かい床に頭をつける様は、信者たちの顔が中国的であることを除けば、アラブ諸国で見られるイスラム世界の風景そのままであった。

 アホンに心から感謝の気持を伝えて礼拝堂を出た。


 
 

天馬きたりぬ 「馬踏飛燕」 (甘粛省博物館)

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 「馬踏飛燕」 飛燕をもしのぐほどのスピードで走る馬。燕が足で踏まれている。漢が匈奴撃退の切り札として待ち望んだ馬である。甘粛省武威で出土し、甘粛省博物館に保管展示されている。

2009年5月17日(日)
[コメント]  このブログは旅の流れ沿って連続しておりますので、初めて訪問される方は前の記事もあわせてご覧いただければ、より楽ん出いただけると思います。
また、「シルクロードへを詩う」をご覧いただくと、これからの旅の中国篇の雰囲気をご覧いただけると思います。 
 私にとって、この博物館の目玉は何と言っても、武威の雷台から発掘された2000年前の「馬踏飛燕(飛燕をしのぐ馬)」の銅奔馬の本物である。何はさておきまっしぐらに向かった。
 あった、あった! 目玉商品はやはり目立つところで異彩を放っている。

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こうべをやや左無向きに挙げていななき、おをなびかせながら疾走する二本の前足と一本の後足は、空を翔け、残りの後足が飛燕の瀬をかすめるかのように見える。その燕は羽を広げ、首を回し、驚いて馬を見つめている。西域を奔放に駆け巡り、今にも空に飛び出しそうな駿馬が、2千年もの昔、無名の作家によって造られたことは、当時の芸術水準の高さを示すものであり、驚嘆のほかはない。見れば見るほど引き込まれる。
 1本の足で体全部を支える均衡のとれた姿…… その造詣力に、不思議ささえも感じてしまう。
 
 口をあけた顔は吼えるがごとく、
 そして後ろ足の一本は羽を広げた燕を踏みつけている。
 残りの三本足は空を駆り、首をもたげていなないている。
 空を飛ぶ燕よりも早く駆ける馬――。
「飛燕をしのぐ馬」は、時の権力者がいかに優秀な軍馬を欲していたかを語りかけてくる。
 漢の武帝が求め、やっとの想いで西域から手に入れた天馬はこんな姿だったのだろう。

 高さ35センチ、長さ40cセンチという小さなブロンズだが、全身から、人を圧倒する勢い、しなやかさ、力強さ、スピード感がひしひしと伝わって来る。
 それでいてどこか愛くるししい。
 造り精緻で、 構造が実に巧妙である。、工芸品の域を超越したすばらしさを感じさせてくれる。
 
 生き生きとして気品ある奔馬は、アメリカ、日本、イギリス、フランスなどで展示された時、「芸術作品の最高峰」と絶賛された――当時の新聞はそう伝えていた。 その記事を読んで、見損ねた私は悔しい思いをしていたが、今、中国のこの場で対面している方がずっと感慨深い。一気に溜飲が下りた。

ちなみに「馬踏飛燕」(馬、飛燕を踏む)と名づけたのは、日本に留学し、全人代副委員長もつとめた政治家でもあり文学者でもあった郭沫若氏である。

イメージ 2 専門家の考証によると、力強さみなぎるこの奔馬は、西域から中国に入ってきた「汗血馬」をモデルに創作されたものだ。
「汗血馬」は古代、世界にその名をとどろかせていた名馬である。同馬が駆けると、首の辺りからまるで血のような赤い「汗」が出たため、この名がついた。
肉付きがよく優美で、頭が細く首は長く、体の線が美しい馬である。
                              *上の2枚の「馬踏飛燕」は、それぞれ別なカメラで撮影し、3枚目の右の写真は造った当初を想定して、青銅色に色調を変えてみました。感じが結構変ってしまうのには、自分でも驚きでした。ちなみに、他の博物館や発掘された武威の雷台にあるレプリカは緑を帯びた青銅色でした。

 漢王朝成立した紀元前200年頃、万里の長城の北方では、匈奴が壮大な遊牧帝国を作り上げていた。漢帝国を築いた高祖は余勢を駆って匈奴を撃つべく遠征を行った。
ところが、騎馬戦に長けた匈奴に完敗してしまった。
 それからおよそ60年後に即位した武帝は、先帝の屈辱を晴らし、漢帝国を確固たるものにしようと決意し、匈奴に屈辱的敗北を喫した月氏と東西から挟み撃ちにしようと考えた。月氏への使いに名乗りを上げたのが、張騫であった。ところが、使者として出向いた張騫はすぐに匈奴に捕まり、10年も幽閉される。ようやく脱出した張騫は月氏に向かうが、既に月氏には匈奴を撃つ気概はなく、武帝の策は失敗に終わった。しかし、張騫は命がけで探索した西域の事情を詳細に報告した。
その報告の中で、「大苑に天馬、汗血馬といわれる良馬がいる」と報告した。
 その後、この名馬を手に入れるために、武帝は大宛国(現在の中央アジア)に何度も攻め入ったほどだった。 漢の軍隊はついに大宛を滅ぼし、念願の「天馬」を得たのであった。

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 西域へ派遣され「天馬」を発見して戻ってきた張騫


天馬来たりぬ
西の極(はて)より
流砂を渉り(わたり)て
四夷服しぬ         (『史記』楽書)

「天馬を得て、四方の夷狄を征服することが出来た」喜びを、武帝は歌にたくしたのである。
この夷狄の中には、宿敵匈奴も含まれていたにちがいないだろう。
黄河の西、つまり河西回廊から匈奴勢力を一層すると、武帝はそこに、武威、張掖、酒泉、敦煌という河西四郡を設置し、西方への通路を確保したのであった。
 当時歌われた詩には、「天馬」という美称が使われ、以来、中国での奔馬の名声は不動のものとなった。

「馬踏飛燕」の背後には、精美な青銅で鋳造された39頭の馬と14両の軺車(しょうしゃ、物見車)、戟(げき)や矛など古代平気を手にする17騎の騎士俑などが居並んでいる。それは栄華を誇った2千年前の漢王朝の凛々しい儀仗隊そのものであり、封建貴族が出行する際の威容と豪華さを偲ばせるものであった。

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                         銅車馬出行儀仗隊の像 

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馬は、首を傾けているものもあれば、耳をそばだて、口から息を吐いているものなどもあり、それら一つ一つの表情が、すべて異なり、じつに写実的であった。
 

 甘粛省博物館は、2万平方メートルの敷地を持つ5階建ての博物館で、膨大な出土品を収蔵し、嘉峪関の魏晋壁画墓から持って来たレンガ(このレンガに貴族達の生活等が写実的に描かれている)から、唐三彩、仏像(甘粛省の天梯山石窟のもの等)、西夏文字の写経、マンモスの標本まで陳列されている。これらはシルクロードには直接関係しないので、写真は省略します。

 
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シルクロード開拓のために外征で活躍した若き武将霍去病の雄姿 まるで迫り来るような迫力だ  五泉山公園 


2009年5月16日(土)
[コメント]  このブログは旅の流れの行程に沿って連続しておりますので、初めて訪問される方は前の記事もあわせてご覧いただければ、より楽ん出いただけると思います。
また、「シルクロードへを詩う」をご覧いただくと、これからの旅の一端をご覧いただけると思います。 写真追加しました

黄河クルージング・白塔山公園・五泉山公園

黄河クルージング

イメージ 9 羊皮筏子で黄河横断決行中、ふと見ると遊覧船が走っている。観光客が盛んに手を振る。それを見たら、とたんに乗ってみたくなった。同じ黄河を乗り物を変えてすぐに乗るなんて…自分でもあきれるほど、私のDNAはよほど好奇心が強いらしい。乗り場はすぐ近くだ。
すると、なつかしや乗船客は日本のツアー客だった。この船は団体専用らしい。
 添乗員に「同乗させてほしい」と頼んだら。即座にOK。
おまけに「貸切なのでそのままどうぞ」――となった。ラッキー!

イメージ 10 船はゆっくりと進みやがて先ほど渡った黄河第一橋(中山橋)をくぐる。この橋は1907年にかけられ、黄河に懸かる鉄橋の中で一番古い橋である。増水しているせいか、デッキに立っていると橋桁まで頭の上から20cmもない。背の高い人だとぶつかってしまう。左手には白頭山公園の建物が見え、丘の上には500年前の明の時代に建てられた塔が見える。次はあそこへ上っていくのかと思うと、なんとなく身近に感じる。

イメージ 11 さらに進むと大きな建物が見えてきた。明の時代の関所の跡とのことだ。時間があったら、自転車で回ってみよう。目下復元工事をしている。中国は文化大革命で歴史的な建物を壊してしまったが、今は観光開発のため復元に熱心だ。 

 河沿いにたくさんのモスクが見える。市内には全部で100以上のモスクがあるという――こちらにも一箇所くらいは行って見たい。蘭州市内には回教徒が30万人ほどいて人口の10%以上を占めている。現在建設中の橋の手前で折り返して船着場に戻った。復路は川の流れと同じ方向なので、往路は25分かかったのに対して、8分で着いてしまった。

白塔山公園

 次は、先ほど遊覧船からながめた白塔山公園へ向かった。近づいてみると予想した以上に険しそうだ。対岸から頂上までゴンドラが設置してあるのもうなずける。

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 起伏の激しい山の傾斜に沿って、曲がりくねった階段や歩道があり、山肌には羅漢殿(らかんでん)、三宮殿、雲月寺、そして白塔寺など多くの楼閣(ろうかく)や回廊、寺院、茶室が点在している。

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 この白塔はチンギスハンに謁見するため蒙古に赴く途中、蘭州で病没したチベットのサガ派のラマ僧を供養するために建てられた。名前は「白塔』だが、長年風雨に晒されたためか茶色になっている。

イメージ 5 イメージ 4 山頂には、東風亭や喜雨亭、牡丹亭という東屋(あづまや)がある。

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 東屋からは、蘭州市街や黄河が一望できる。なかなかの絶景だ。

[歴史コラム 蘭州 ]
 漢代には金城(きんじょう)郡に属し、河西回廊(かせいかいろう)地帯への門戸として交通や交易、軍事上の要衝(ようしょう)で、黄河上流の渡河(とか)地点でもあった。遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)が侵入して略奪を繰り返したが、前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)(在位、前141〜前87年)時代、将軍の霍去病(かくきょへい)らが討伐した。霍去病が都の長安に凱旋する途中、蘭州に立ち寄り、その折、部下の李息に命じて、黄河の岸に城を築かせ「金城」と名づけた。その後隋の時代、州が置かれ皋蘭山の蘭を取って「蘭州」と改称された。吐蕃(とばん)や西夏(せいか)にも一時期支配されたこともある。


霍去病縁の五泉山公園

 白塔山公園の次は霍去病ゆかりの五泉山公園へ向かった。 
 公園の中には、ゆかりの5つの泉があり、明と清の時代に建てられた寺がたくさん建っていた。

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 五泉山公園入口

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 イメージ 13 五泉山公園の急峻な山肌にはところどころに寺院や楼が建っている。

イメージ 15 坂道を上って公園に入ると、霍去病の雄姿が迎える。近づくとまるでこちらにまっすぐ攻めかかって来るようだ。その迫力に、思わずたじろぎを感じてしまう。
 像を見ながら、2200年前を想像しながら伝説を思い起こした。
 ――漢代の常勝将軍霍去病が匈奴遠征の途上、飲み水に大変困った。屈強な軍もさすがに疲弊し、一歩も先に勧めない。そこで彼は馬で山上へ駆け上がり、鞭を山腹に5回打ち振るった(剣を突き刺した言う話もある)。するとたちまち水がコンコンと湧き出し、5つの泉が生じた。
 現在も、その名のとおり甘露泉、掬月泉、模子泉、恵泉、蒙泉という5つの泉がある。
 この話は司馬遷の『史記』や『漢書などには記されてなく、あくまでも伝説に過ぎない。しかし、明代になると、民族信仰と結びついて、ここに寺が建てられた。霍将軍の「去病」という名は、病を取り去る意味があり、これが信仰の対象になったようだ。
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 霍去病は勇猛果敢に戦い宿敵匈奴を打ち破る。(博物館の絵を撮影)

 現在は公園として広く開放され、日曜の今日はカメラを手にした家族連れや、若いカップルなどで埋め尽くされている。中国では、どこの観光地でも訪れるたびに観光客の数が急増している。経済発展を見れば、当然のこととうなずける。

イメージ 16 多くの社殿や楼閣があるが、すべては回りきれないので、二箇所に絞って、まず天王殿を訪れる。このお堂は1392年に建てられたお堂である。天王殿には一般的に弥勒菩薩が祀られるが、玄奘三蔵がこの地で黄河を渡れずにいるとき阿弥陀如来に祈ったら渡れたということから蘭州では阿弥陀如来が祀られている。阿弥陀仏は高さ3.85m、重さ5トンの銅像で左右を四天王が守っている。

イメージ 14 次に大雄宝殿を訪れる。大雄とは釈迦のことで過去、現在、未来の三世仏が祀られていた。

 大雄宝殿の横には中山記念堂があった。中山とは孫文のことで、中国では孫文と言わず中山と呼んでいる。毛沢東は尊敬する人もいれば嫌う人もいるが、孫文は誰からも愛されていて、各地の都市の大通りの名前にもしばしば付けられている。
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 中山記念堂と中山像          

 いくつかのお堂の前を通り境内の最上部に行くと甘露泉、掬月泉、摸子泉などの泉があった。甘露泉は最上部にあり甘い水が出ることから名付けられたが、今は水が枯れている。
掬月泉は十五夜のとき水面に月が写ることから名付けられた。
イメージ 19イメージ 20掬月泉

イメージ 21 摸子泉はお堂の中にあり、この泉の中から、石を拾うと男の子、瓦を拾うと女の子が授かると言う言い伝えがある。

 
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巧みな櫂捌きで羊皮筏子を操りながら黄河の激流を渡る蘭州の青年。 いにしえのシルクロード時代を彷彿とさせる。思わず胸が高鳴る。

2009年5月14日(木)

羊皮筏子(ヤンピーファーズ)で黄河を渡る

 蘭州でぜひ経験したいことがあった。それは、羊皮筏子(ヤンピーファーズ)で黄河を渡ることであった。シルクロードを旅する商人たちは、羊の皮袋を浮き袋にした羊皮筏子で渡ったといわれている。
 私はNHK「シルクロード」や特集「大黄河 〜激流を渡る〜」で、急流を巧みに漕ぎ渡るシーンを見て、胸をときめかしていた。
 平涼から蘭州まで来る車の中で、平涼のホテルの服務員の楊さんにそのことを話した。すると彼は「蘭州で観光客向けの羊皮筏子がありますよ」と教えてくれた。その時には予想外の情報に、子どもみたいに「やった! やった!」と思わず叫びたい気持だった。さっそく、蘭州のホテルの服務員に詳しいことを教えてもらった。

イメージ 19そして炳霊寺に行った翌日、蘭州滞在3日目に決行した。私にとっては、やはり、実行ではなく決行だった。黄河の岸近くの公園や橋の上から観ると、かなりの急流だ。ある程度の覚悟が必要だった。
 朝食を済ませてまもなく、羊皮筏子の乗り場がある「中山橋」まで、ワクワクした気分で自転車で向かったこの橋は「黄河第一橋」とも呼ばれている。橋の渡り口には「天下黄河第一橋」という表示があった。
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 この橋は1907年から1909年まで、当時の清朝政府が白銀3万両を投入し、ドイツから技術だけでなく材料の一切を輸入して造ったものだ。黄河に初めてかけられた鉄橋である。明代からこの時まで、この場所には24艘の船を鉄の鎖でつないだ浮橋しかなかったそうである。その後、1942年に孫中山にちなんで「中山橋」と改名されて今日に至っている。現在は耐久性の問題もあり、この橋を長く保存するため歩行者専用となっている。

イメージ 3 橋のたもとから黄河の河畔に降りると、何艘かの羊皮筏子が見える。ついつい足取りが早まる。
 細い丸材で枠が組まれ、そこに頭と4本の足先を切り落とし、毛を剥いて中身をくり抜き、皮だけを乾燥させた羊の袋が縛り付けられている。これらの袋は、首と足のところをそれぞれ紐で結び,尻から空気を吹き込むと浮き袋のようになる。乗り手は筏のようなこのボートにまたがり、櫂を操りながら川を渡る。羊や牛の皮も使われるが、ヤギのものが一番丈夫だそうだ。縛り付ける皮袋数は一人乗りのものは、4つから5つだが、観光用の5,6人乗りのものは10数個取り付けられている。

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 どうやら私が一番乗りらしく、羊皮筏子ガイド――つまり漕ぎ手が数人がいっせいに集まってきた。私を奪い合おうというわけだ。最初に声をかけたガイドに「多少銭?(いくら?)」と訪ねると、「50元」と言う。すかさず隣から「45元」と言う声がかかる。するともうひとりが「40元だ!」と声を張り上げる。まるで魚河岸で上質のまぐろを競り落とす雰囲気だ。
 私が「ホテルの服務員が30元だと言っていたよ」と言うと、「そんなに安くちゃ商売にならないよ。だがしょうがないや。30元!」と、3番目の男が言った。すると最初に声をかけた男が「この日本人に最初に声をかけたのはオレだ。25元でどうかね?」と言うので、「そうだ。あんたの言うのがもっともだ。あんたのに乗ろう」と言うと、勝ち誇ったように、これ見よがしに私の手を自分の両手で固く握り締めた。
 毎日のように櫂を漕いでいるだけあってさすがに力強い。
「ところでお願いなんだけれど、写真を撮るので、膨らますところを見せてくれないか」と頼むと、お安い御用とばかりに、ひとつの皮袋の紐を緩めて一旦空気を抜いてから、息を吹き込んで膨らませてくれた。
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ガイドは羊皮筏子を軽々と持ち上げて河に浮かべる。私も救命胴着を身に着けて乗り込んだ。思ったよりは安定性がいい。イメージ 7 イメージ 8イメージ 6

 いよいよ出発だ。黄河に繰り出す。流れはかなりきつい。波しぶきがばんばんかかる。この辺の川幅は数百メートルだ。流されながらも斜め下流の対岸に漕ぎ着いた。通常は帰りはモーターボートが迎えに来てくれる。だが、帰りは少し漕いでみたかったので、「帰りもこれにしたいんだけれど、いいですか」と頼み口調で言うと、ちょっと考える様子だったが、「いいですよ」と言って無線でモーターボートを断ってくれた。

イメージ 9 途中流れが若干ゆるやかなところで、少し漕がせてもらった。流れと同じ方向に櫂を漕げば、自然と筏が向こう岸の方向に進み、対岸にたどり着くのである。ところが相当力を入れて漕がないと、筏の方向が下流を向き、ずんずん流されてしまう。短時間で交替してもらった。帰りは、別の羊皮筏子に乗った人たちとの出合いがあるので、格好のシャッターチャンスだ。数組の写真を撮るこが出来た。とにかくスリリングで面白い体験だった。
 
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イメージ 14 客1人にガイドが1人、極めて贅沢なケースである。観光案内だけでなく、おのずと世間話が多くなる。彼は、この蘭州から西北に300kmほど離れた張掖市に妻子を残しての、単身赴任であるという。
 私が秋にはチベットへ行く予定だと言ったら、チベットの内情を話してくれた。彼はチベットでも観光案内をしていたそうである。表には出ていないが、チベット人は不満をくすぶらせていると言っていた。案の定私がチベットを訪れた数ヶ月後、不安が的中してオリンピックを前にして騒乱が起きたのだった。
最後に私も記念写真を撮ってもらった。


 夕方、再び黄河を訪れて日没を待った。
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 夕日がまもなく黄河に没しようとしている。大河に没する太陽はナイル川以来2年ぶりだった。

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 夕闇迫る中、まだ羊皮筏子を漕ぐ人の姿があった。まるでシルエットのようで印象的だった。

 
2009年4月28日(火)
[コメント] このブログは連載なので、初めて訪問される方は前の記事もあわせてご覧いただければ幸いです。

―杜泉新生シルクロード2万キロをゆく17

遠い異国への想いが胸を打つ 〜炳霊寺に描かれた椰子の木」〜

 ふと、炳霊寺で想い入れがあった壁画の写真を掲載していなかったことをに思いついた。

 183窟には椰子の木が描かれた壁画があった。大して目立つ絵でもなかったのに、ことのほか心に残った。

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 内陸のこの地で、はるか南方の島の植物を描いたのは、どんな人だったのだろう。
 「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ……」
 ふと島崎藤村の詩が唇にのぼる。
 ここにダムが造られる前は、どんな道が通じていたのだろうか。川岸の崖の裾に細い道が通じていたのだろうか。対岸から小船で渡って来たのだろうか。私も含め、ここに立つのは観光客ばかりだが、往時、僧侶や絵師、信心の厚い人びとが通った頃の風景を思い描く。そして彼らが抱いたであろう遠い異国への想いに、心を寄せた。

 改めて自分が撮影してきた炳霊寺の写真を見返してみました。
 するとどうだろう……、中国本来にはない、シルクロードとの交流を彷彿とさせるものがまだたくさんあるではないか…。今回はそれらを選んでみました。

 
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 西秦時代の観音や菩薩像の顔立ちや髪型、衣装がペルシャ女性の面影を宿している。

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西秦時代の立像が身に着けている衣装はローマの皇帝や王女、貴族たちのマントにどこか似ている。

 炳霊寺石窟が造営され始めたのは西秦時代の420年で、その頃西ではローマ帝国、オリエントではササン朝ペルシャが栄えていた。この時代にこれらの影響を受けたことは当然考えられる。
 169窟(西秦)の観音像や菩薩像髪型や衣装は、ペルシャやローマの女性たちが身につけていたのものに似ているし、立佛が身に着けている衣装は、ローマ帝国の皇帝や王族の女性などがが身に着けていたマントに似ている、とは思いませんでしたか?


 
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唐代の仏像は顔立ちはふっくらして唐風だが、服装はペルシャの影響をうけているようだ。

 唐代の仏像は、当時好まれた女性の顔立ち――ふっくらとした面立ちだが、目鼻立ちや身に着けている衣装は、明らかに西方の特徴が色濃く表れていませんか?
 頭部の写真を見ていただけば、よくお分かりいただけるのではないだろうか。


 炳霊寺の仏像や壁画ははたして、西方出身の仏師や絵師の手によるものなの、それとも中国人の仏師がローマやペルシャの影響を受けたのか……このことについては、大変興味深い。
 そもそも仏像は――アレキサンダー大王がインドまで遠征してきた時、多くのギリシャ人がガンダーラに残り、その人たちがギリシャ彫刻の技術を駆使して彫り始めたのが起源なのだから、ギリシャ的であるのは至極当然ではあるが…。

 西安やその近郊のお寺の仏像は中国的であったが、西域に近づくほど西方の影響を受けているように感じた。

以前の炳霊寺の記事は、下記の二件です。クリックしてみてください。


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