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蘭州のイスラム教寺院(モスク) 2009年5月19日(火)〜20日(水) 蘭州のモスク 〜いろいろなモスクと「アホンとの対話」〜蘭州に到着した翌朝、ホテルの部屋からまだ薄暗い外を眺めると、ビルに混じってモスクのミナレットと青みがかった礼拝堂のドームが見えた。[コラム] ミナレットは、尖塔(せんとう)と訳されることもあり、イスラム建築でモスクに付設されるバルコニーのある高塔である。1日5回の礼拝を信者に呼びかけるために使われる。 モスクの格によってその数は異なり、最大規模で六基まで建てられ、モスクの構成に変化を与える。その形態は時代と地域によって多様で、古くは単純な角塔か円塔であったが、時代を経るにつれて円塔に角塔を積み重ね、各層ごとにバルコニーを張り出し、土筆(つくし)状になった。
それまでテレビや新聞などで目にしていたモスクは大きな丸いドームになっていて、入口の両側には高い塔があるというイメージだった。ところが 清真寺の外観は中国古来の建物や楼閣と余り変らなかっった。 そのときには少々期待はずれだった。(下線文字をクリック) モスクの建築様式は、その土地古来の様式とイスラム様式が融合して、その土地に独特の様式が生まれるはずなので、西に行くにしたがってどのように変化してゆくのか楽しみなのである。 さっそく身じたくをしてフロントへ行き、日本語の話せる服務員にモスクのことを訪ねると、「近くに古いモスクが残っているので、そちらを先に回るとよいですよ」と教わって、出かけた。 近ずくに連れて、楼閣のとがった屋根が薄明かりの中から少しずつ浮かび上がってくる。 西安の清真大寺の屋根と同じような形だった。あいにくまだ時間が早すぎて門が閉じられていて、塀の中には入れなかったので、楼閣の屋根だけ撮影した。 その後日中の観光で、黄河遊覧船や白塔山頂上からもモスクやイスラム風の建築が見える。 蘭州は 甘粛省の省都で、古名は金城、隋の時代に 蘭州となった古都である。現在は人口 300万人を超える大都会で、その 10%ほどが回族だという。回族はほぼすべてイスラム教徒である。 市内を貫く黄河が、経済的にも景観的にも大きな役割を果たしてきた。 モスクの数は多く、開放路清真寺と 橋門外清真大寺という 2つの重要なモスクがあったが、いずれも文化大革命で破壊されてしまった。 これほどまでに徹底して古建築を破壊した文化大革命の精神構造というのは、今となっては まったく理解できない。 この 「文化虐殺」運動というのは、ユダヤ人虐殺や アルメニア人虐殺と同類の蛮行と言える。 中国全土で、いかに多くの古建築が消失したことか……。 その後、宗教復活が図られ、新たにモスクが建てられ、現在蘭州には100以上のモスクがあるという。 そのいくつかの写真を紹介しよう。 西関清真大寺
蘭州で最大規模のマスクは、なんといっても西関清真大寺である。
蘭州の。 現代建築としての、RC造のモスク。外周にはコンクリートのペア柱が 16組並び、半円アーチが架けられている。 見るからにモダンだ。 西関清真大寺の再建計画は、宗教復興後の 1983年に始まり、1990年に破壊された開放路清真寺に代わって建てられた。 外資系の企業 「客商」が資金援助したことから、「客寺」 とも呼ばれている。 設計は回族の 王鴻烈に委託された。 中国式ではなく、ドーム屋根の 「阿拉伯 (アラビア) 式」 である。こうしたところも回教徒に対する中国政府の懐柔策の一端がうかがえるような気がする。 地上4階であるが、大階段によって 1階床を高く上げている。この下の半地下部分が信徒室になっていた。
ドーム屋根といっても、現在の中国に多い中東やインドのドームのイミテーションではなく、RC造の現代建築としての風格を保っている。ドームというより、むしろ UFOのような印象を与える。 高さは 37mである。
アホンと語る熱心に写真を撮っていると、ひとりの老齢のアホン(イスラム教の導師)が「日本の方ですか?」と、流暢な日本語で話しかけてきた。 ほっそりとした白髪の顔には柔和な笑みが浮かんでいる。この方は、戦前日本の大学で学び、日中戦争時代に中国に住む日本人に布教活動をしていたとのことだ。こういう経歴なので日本語が上手なのである。 私の旅の目的などを話すと、モスクの中を案内してくれた。そして、当時ほとんどイスラム教の知識がなかった私にいろいろ説明してくれた。 内部には礼拝殿のほかに 図書室や教室、そして女礼拝室も備えている。 礼拝室は外周が 16角形、その内側に 8本の円柱が並び、2層吹き抜けの折り上げ天井が載る。 蘭州の西関清真大寺。 現代建築としての 礼拝室の内部。2階に吹き抜けた シンプルな礼拝室。 伝統的な後窰殿スタイルはとらず、一室構成とする。右側にミンバル、その奥にミフラーブがある。
寺には学僧の寄宿生が50人いた。甘粛、青海、新疆の各地から集まっている。6人部屋に寝泊まりして午前4時半起床、お祈り、勉強、炊事や掃除に励む。
回族の宗教的生活を管理指導する宗務者をアホン(教長)といい、勉強もみる。教室で二列に向かい合った若者たちを、海学真アホン(74)が壁に切った窓から身を乗り出すようにして教えている姿がほほえましい。 コーランの読み上げ、うたい上げの練習風景にもぶつかった。私がコーランの朗唱を聴くのはもちろん初めてだった。 言葉を明確に理解させるため発音法が厳しく規定されている一方で、砂嵐を突き抜けるような旋律が空気を震わし、イスラム音楽の一端に触れる思いがした。 仏教の声楽、声明(しょうみょう)がかつてライブコンサートの役割を果たし、信徒を極楽浄土の世界に誘っていたことと考え合わせると面白い。 その調べは流れるようでゆったりとしたリズムだった。実に豊かな音楽性を持っている。その時ふと思った――どこの国でも同じ言葉で、同じ調べなのだろうか、それとも仏教のお経や聖書のようにその国の言葉に翻訳されているのだろうかと…。 正解はすぐにわかった。朗唱している言葉は明らかに中国語ではない。読み上げているコーランの文字ををチラッと覗かせてもらうと、中国語ではなく、アラビア文字らしい。 後からわかったことであるが、コーランは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。 コーランが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。 そうである以上勝手に母国語に訳して朗唱することは出来ないのである。理念を重んずる仏教やキリスト教徒は基本的に異なるのである。
学僧たちがうたいあげるコーランの調べが、礼拝堂いっぱいに流れる。彼らはは礼儀正しく、その表情は明るかった。
‐アホンとの会話―― 一問一答といったほうがよいかもしれない――の一部を再現してみよう。 「このモスクには信者はどれくらいいるのですか」 「1万人以上の信者がいます。多いときにはこの礼拝堂に入りきれなくて中庭にあふれます」 「1万人?本当に1万人もいるのですか」 *蘭州には30万人ほどの信者がいるのだから、最大のお寺であるここに1万人いても不思議ではない。 「そうです。信じられませんか。ハハハハ。ところでモスクでの写真の写し方ですが、信者の顔を写してはいけません。コーランで禁じられているからです。ただし、今はコーランの勉強の時間と解釈して、顔を中心に撮らなければ、撮影してもいいですよ」 「アホンさん、この清真寺ではあなたが一番位が高いのですか」 「アラーの神の前には人はすべて平等です」 「アホンの地位は世襲ですか」 「信者たちが、推薦して決めます」 「あなたの収入、生活費はどのようにしてまかなわれるのですか」 「国家から支給されます。清真寺という寺を管理する労働と、信者とともに毎日5回礼拝をする労働に 対するものです」 「この寺の運営や維持費についてはどうですか?」 「寺の修理、維持費などは文物管理局から出ます」 話しているうちに、信者が集まってきて礼拝が始まった。 メッカに向かい床に頭をつける様は、信者たちの顔が中国的であることを除けば、アラブ諸国で見られるイスラム世界の風景そのままであった。 アホンに心から感謝の気持を伝えて礼拝堂を出た。 |
2漢唐陵墓〜咸陽〜蘭州・炳霊寺
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天馬きたりぬ 「馬踏飛燕」 (甘粛省博物館)2009年5月17日(日) [コメント] このブログは旅の流れ沿って連続しておりますので、初めて訪問される方は前の記事もあわせてご覧いただければ、より楽ん出いただけると思います。 また、「シルクロードへを詩う」をご覧いただくと、これからの旅の中国篇の雰囲気をご覧いただけると思います。 私にとって、この博物館の目玉は何と言っても、武威の雷台から発掘された2000年前の「馬踏飛燕(飛燕をしのぐ馬)」の銅奔馬の本物である。何はさておきまっしぐらに向かった。 あった、あった! 目玉商品はやはり目立つところで異彩を放っている。 こうべをやや左無向きに挙げていななき、おをなびかせながら疾走する二本の前足と一本の後足は、空を翔け、残りの後足が飛燕の瀬をかすめるかのように見える。その燕は羽を広げ、首を回し、驚いて馬を見つめている。西域を奔放に駆け巡り、今にも空に飛び出しそうな駿馬が、2千年もの昔、無名の作家によって造られたことは、当時の芸術水準の高さを示すものであり、驚嘆のほかはない。見れば見るほど引き込まれる。 1本の足で体全部を支える均衡のとれた姿…… その造詣力に、不思議ささえも感じてしまう。 口をあけた顔は吼えるがごとく、 そして後ろ足の一本は羽を広げた燕を踏みつけている。 残りの三本足は空を駆り、首をもたげていなないている。 空を飛ぶ燕よりも早く駆ける馬――。 「飛燕をしのぐ馬」は、時の権力者がいかに優秀な軍馬を欲していたかを語りかけてくる。 漢の武帝が求め、やっとの想いで西域から手に入れた天馬はこんな姿だったのだろう。 高さ35センチ、長さ40cセンチという小さなブロンズだが、全身から、人を圧倒する勢い、しなやかさ、力強さ、スピード感がひしひしと伝わって来る。 それでいてどこか愛くるししい。 造り精緻で、 構造が実に巧妙である。、工芸品の域を超越したすばらしさを感じさせてくれる。 生き生きとして気品ある奔馬は、アメリカ、日本、イギリス、フランスなどで展示された時、「芸術作品の最高峰」と絶賛された――当時の新聞はそう伝えていた。 その記事を読んで、見損ねた私は悔しい思いをしていたが、今、中国のこの場で対面している方がずっと感慨深い。一気に溜飲が下りた。 ちなみに「馬踏飛燕」(馬、飛燕を踏む)と名づけたのは、日本に留学し、全人代副委員長もつとめた政治家でもあり文学者でもあった郭沫若氏である。 「汗血馬」は古代、世界にその名をとどろかせていた名馬である。同馬が駆けると、首の辺りからまるで血のような赤い「汗」が出たため、この名がついた。 肉付きがよく優美で、頭が細く首は長く、体の線が美しい馬である。 *上の2枚の「馬踏飛燕」は、それぞれ別なカメラで撮影し、3枚目の右の写真は造った当初を想定して、青銅色に色調を変えてみました。感じが結構変ってしまうのには、自分でも驚きでした。ちなみに、他の博物館や発掘された武威の雷台にあるレプリカは緑を帯びた青銅色でした。 漢王朝成立した紀元前200年頃、万里の長城の北方では、匈奴が壮大な遊牧帝国を作り上げていた。漢帝国を築いた高祖は余勢を駆って匈奴を撃つべく遠征を行った。 ところが、騎馬戦に長けた匈奴に完敗してしまった。 それからおよそ60年後に即位した武帝は、先帝の屈辱を晴らし、漢帝国を確固たるものにしようと決意し、匈奴に屈辱的敗北を喫した月氏と東西から挟み撃ちにしようと考えた。月氏への使いに名乗りを上げたのが、張騫であった。ところが、使者として出向いた張騫はすぐに匈奴に捕まり、10年も幽閉される。ようやく脱出した張騫は月氏に向かうが、既に月氏には匈奴を撃つ気概はなく、武帝の策は失敗に終わった。しかし、張騫は命がけで探索した西域の事情を詳細に報告した。 その報告の中で、「大苑に天馬、汗血馬といわれる良馬がいる」と報告した。 その後、この名馬を手に入れるために、武帝は大宛国(現在の中央アジア)に何度も攻め入ったほどだった。 漢の軍隊はついに大宛を滅ぼし、念願の「天馬」を得たのであった。 天馬来たりぬ 西の極(はて)より 流砂を渉り(わたり)て 四夷服しぬ (『史記』楽書) 「天馬を得て、四方の夷狄を征服することが出来た」喜びを、武帝は歌にたくしたのである。 この夷狄の中には、宿敵匈奴も含まれていたにちがいないだろう。 黄河の西、つまり河西回廊から匈奴勢力を一層すると、武帝はそこに、武威、張掖、酒泉、敦煌という河西四郡を設置し、西方への通路を確保したのであった。 当時歌われた詩には、「天馬」という美称が使われ、以来、中国での奔馬の名声は不動のものとなった。 「馬踏飛燕」の背後には、精美な青銅で鋳造された39頭の馬と14両の軺車(しょうしゃ、物見車)、戟(げき)や矛など古代平気を手にする17騎の騎士俑などが居並んでいる。それは栄華を誇った2千年前の漢王朝の凛々しい儀仗隊そのものであり、封建貴族が出行する際の威容と豪華さを偲ばせるものであった。 銅車馬出行儀仗隊の像
馬は、首を傾けているものもあれば、耳をそばだて、口から息を吐いているものなどもあり、それら一つ一つの表情が、すべて異なり、じつに写実的であった。
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2009年5月16日(土) [コメント] このブログは旅の流れの行程に沿って連続しておりますので、初めて訪問される方は前の記事もあわせてご覧いただければ、より楽ん出いただけると思います。 また、「シルクロードへを詩う」をご覧いただくと、これからの旅の一端をご覧いただけると思います。 写真追加しました 黄河クルージング・白塔山公園・五泉山公園黄河クルージングすると、なつかしや乗船客は日本のツアー客だった。この船は団体専用らしい。 添乗員に「同乗させてほしい」と頼んだら。即座にOK。 おまけに「貸切なのでそのままどうぞ」――となった。ラッキー! 河沿いにたくさんのモスクが見える。市内には全部で100以上のモスクがあるという――こちらにも一箇所くらいは行って見たい。蘭州市内には回教徒が30万人ほどいて人口の10%以上を占めている。現在建設中の橋の手前で折り返して船着場に戻った。復路は川の流れと同じ方向なので、往路は25分かかったのに対して、8分で着いてしまった。 白塔山公園次は、先ほど遊覧船からながめた白塔山公園へ向かった。近づいてみると予想した以上に険しそうだ。対岸から頂上までゴンドラが設置してあるのもうなずける。起伏の激しい山の傾斜に沿って、曲がりくねった階段や歩道があり、山肌には羅漢殿(らかんでん)、三宮殿、雲月寺、そして白塔寺など多くの楼閣(ろうかく)や回廊、寺院、茶室が点在している。 この白塔はチンギスハンに謁見するため蒙古に赴く途中、蘭州で病没したチベットのサガ派のラマ僧を供養するために建てられた。名前は「白塔』だが、長年風雨に晒されたためか茶色になっている。 [歴史コラム 蘭州 ] 漢代には金城(きんじょう)郡に属し、河西回廊(かせいかいろう)地帯への門戸として交通や交易、軍事上の要衝(ようしょう)で、黄河上流の渡河(とか)地点でもあった。遊牧騎馬民族の匈奴(きょうど)が侵入して略奪を繰り返したが、前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)(在位、前141〜前87年)時代、将軍の霍去病(かくきょへい)らが討伐した。霍去病が都の長安に凱旋する途中、蘭州に立ち寄り、その折、部下の李息に命じて、黄河の岸に城を築かせ「金城」と名づけた。その後隋の時代、州が置かれ皋蘭山の蘭を取って「蘭州」と改称された。吐蕃(とばん)や西夏(せいか)にも一時期支配されたこともある。 像を見ながら、2200年前を想像しながら伝説を思い起こした。 ――漢代の常勝将軍霍去病が匈奴遠征の途上、飲み水に大変困った。屈強な軍もさすがに疲弊し、一歩も先に勧めない。そこで彼は馬で山上へ駆け上がり、鞭を山腹に5回打ち振るった(剣を突き刺した言う話もある)。するとたちまち水がコンコンと湧き出し、5つの泉が生じた。 現在も、その名のとおり甘露泉、掬月泉、模子泉、恵泉、蒙泉という5つの泉がある。 この話は司馬遷の『史記』や『漢書などには記されてなく、あくまでも伝説に過ぎない。しかし、明代になると、民族信仰と結びついて、ここに寺が建てられた。霍将軍の「去病」という名は、病を取り去る意味があり、これが信仰の対象になったようだ。 現在は公園として広く開放され、日曜の今日はカメラを手にした家族連れや、若いカップルなどで埋め尽くされている。中国では、どこの観光地でも訪れるたびに観光客の数が急増している。経済発展を見れば、当然のこととうなずける。 大雄宝殿の横には中山記念堂があった。中山とは孫文のことで、中国では孫文と言わず中山と呼んでいる。毛沢東は尊敬する人もいれば嫌う人もいるが、孫文は誰からも愛されていて、各地の都市の大通りの名前にもしばしば付けられている。 中山記念堂と中山像 いくつかのお堂の前を通り境内の最上部に行くと甘露泉、掬月泉、摸子泉などの泉があった。甘露泉は最上部にあり甘い水が出ることから名付けられたが、今は水が枯れている。 掬月泉は十五夜のとき水面に月が写ることから名付けられた。 |




