杜泉新生シルクロード2万キロをゆく9
2009年4月15日(水)
咸陽〜漢・唐陵墓〜平涼(中国2)
五陵平原(漢墓)
[茂陵博物館と霍去病の墓]
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漢の武帝の墓・茂陵 武帝は霍去病に命じて匈奴を鎮圧し、シルクロードを支配下に収めた。
馬踏匈奴(国宝) 宿敵匈奴を馬が蹂躙している。漢の意気軒昂振りが表されている。
茂陵博物館 入口
茂陵博物館 漢代鍍金馬 待ち望んだ名馬来たるの喜びが金の馬となって、形に表れているようだ。
猛将・霍去病の墓 武帝の信頼が厚かったが、24歳の若さで逝去
乾陵 高宗・則天武后の巨大な合葬墓
乾陵 唐第3代皇帝高宗とその皇后である則天武后が葬られている。
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高宗の「大葬」に参列した、西域をはじめとする61カ国の使節の姿をあらわした「王賓群像」
永泰公主墓
永泰公主墓 則天武后に殺された孫・永泰公主の墓 墓の参道や四方の壁にはすばらしい壁画が描かれている。
壁に描かれた「女侍図」
黄土高原とヤオトン(窯洞)
次第にに緑が少なくなって来た。
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これぞ黄土高原といった景色。
黄土高原の人びとは、以前は、ほとんどの人が、窰洞(ヤオトン)と呼ばれる横穴にすんでいた。今でも少なくない。
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訪れたのは夏だったが中はひんやりとして気分がよい。電化製品も入っている。
大仏寺石窟
大仏は高さ20mあり、太宗を似せて作ったといわれている。
[平涼]
平涼市内(左) ホテルより(右)
五陵平原(漢墓)
武帝の墓・茂陵と霍去病の墓
咸陽を過ぎて、北西に1時間近く走ると、一面の平原のところどころに小山が見えてくる。この一帯の平原は五陵平原といわれ、前漢11代の皇帝の中9人の皇帝の陵墓が東西に一直線に並んでいる。その様子が良く見える。ちなみに、お金持ちで働かない少年を「五陵少年」というのだそうだ。おそらく一人っ子で政策で甘やかされた子どもが「皇帝」と呼ばれているのと同じように、皮肉と困惑をこめた呼び方なのだろう。
前漢代の陵墓群で最も規模が大きいのが、武帝の陵墓である茂陵である。
茂陵に近づくと観光客を当て込んでか、ぶどうの露店が見受けられる。農家の直売だろう。
茂陵に到着するとすぐに、茂陵博物館の事務所に出向き、咸陽のホテルの服務員からの紹介メモを見せた。すると若い館員が案内してくれることになった。係員は日本語が話せる人だ。当時は日本人観光客が主だったので、若い館員は日本語の習得に熱心だと言うことだった。
まず、茂陵に上って、漢墓全体を眺めることにした。茂陵は高さ46.5mもある。上るのにけっこう骨が折れた。息を切らせながら頂上にたどり着くと、武帝の上に立ったようでいい気分だった。西北には寵姫李夫人、東南には衛青、霍去病と武帝お気に入りの将軍たちの墓が並んでいる。
頂上からの眺望をカメラに収め、駆け下りると、小さな薄紫の花が茂陵を囲んで一面に咲き乱れていた。
「これが、苜蓿(うまこやし・クローバー)。天馬の衛門三郎として、西域からもたらされたものです。
武帝は西域に天馬を求め、この苜蓿で育て上げ間櫻井ィ田。そして匈奴を駆逐したのです。どうです、この景色は、漢武帝とシルクロードを物語る上に、絶好のところでしょう」と、特別に案内してくれた茂陵
の係官の説明を受けた。多少たどたどしいが充分にわかる日本語だった。わざわざひとりのために説明してくれたことに感謝した。
係官のあんないで、茂陵博物館を見学する。この博物館は霍去病の墓を背景にして、その前にある。巨大な石の彫刻群が展示されていた。奇怪な人面、魚やトラ、象、牛などの石刻(自然の石を彫って作った彫刻)が、骨太I中国の古代文化を示している。
そんな彫刻の中で私がもっとも興味を引かれたのは、「匈奴を組み伏せる天馬」の関国である。ひときわ目に付くのが、「馬踏匈奴」の石造である。ひげを生やした匈奴の兵が仰向けに倒れて、その上に天馬がまたがって、傲然といなないている。「馬踏匈奴」といわれるこの石刻は、おそらく、武帝が牙としてあこがれてやまなかった“大宛の馬の姿と同じであったろう。”
武帝は、中央集権化を進め、儒教を国教に定め、前漢最盛期を創出した。それとともに、われわれシルクロード旅行者にとって関心が深いのは、匈奴討伐、張騫の派遣など積極的に西域開発を推し進めたことだ。
茂陵の側には、武帝に愛された将軍霍去病の墓がある。霍去病は、叔父の衛青とともに匈奴討伐に従軍して功を上げたが、若くして病死してしまい、彼の早すぎる死を悼んだ武帝が自分の側に墓を造らせた。現在、霍去病の墓は、茂陵博物館になっている。
漢王朝はシルクロードを手中に収めるため、再三匈奴に戦を挑むが、漢の馬は匈奴の馬よりも劣るため苦杯をなめていた。そこで武帝は、かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏と同盟して匈奴の挟撃を狙って張騫を派遣したが、同盟は失敗に終わった。
しかし張騫の報告によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになり、さらには大宛(現在の中央アジア・キルギス付近)に優秀な馬がいるとの情報ももたらされた。武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。
李広利を大苑に遠征させて、良馬数十頭、中馬3000頭余を獲得するという戦果を得た。この優秀馬は、「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれ、中国の歴史上で名馬といわれた。武帝はこの汗血馬の群を「天馬」と称し絶賛した。仰向けになった匈奴を踏みつけて立つ天馬の姿からは、意気天を衝(つ)く漢王朝の気分が十二分に伝ってくる。中国語と英語の説明が書いてあり、それを見ると高さ168cm、体長190cmあり、国宝に指定されている。
唐墓
漢墓をから唐墓に向かう道の両側は、果物畑になっている。西安の西はりんご、南はキウイ、東はザクロ、北はなつめの産地であり果物畑が多い。 ふとバスの前方を見ると、道端に薄い板に墨で「桃子」と書いた看板が立っていた。桃の露店だ。この辺はいかにも中国的だ。一斤(500g)1元である。
この近辺には太宗(李世民)の陵がある。太宗は、唐朝の二代目皇帝であり、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君と称えられている。
= 乾陵と悲劇の皇女永泰公主の墓 =
乾陵は唐の第3代皇帝高宗と則天武后の合葬墓である。永泰公主の墓はその陪葬墓のひとつである。
永泰公主は、唐の4代皇帝中宗の娘で、祖母である則天武后の怒りに触れて17歳の若さで死を賜った。
墓室の両側の壁には壁画が壁を一面に多い尽くすほど描かれている。参道の壁画が有名だ。「侍女図」と呼ばれ、日本の高松塚古墳の壁画と酷似しており、唐代の代表的なふっくらとした女性が描かれている。但しここの壁画はレプリカで、本物は陝西歴史博物館の地下に収蔵されている。
?H1> 黄土高原とヤオトン
黄土高原は、ただの黄色い黄砂の台地ではなく、台地の頂上まで、麦や果物を植えた段々畑が続いている。中国中央部に広がる黄土高原は、西方のゴビ砂漠から風に乗って運ばれてきた黄土が堆積してできた1000mを越す高地である。アスファルト道路の両脇は一面、粘土質の硬い土であり、周辺の小高い山は、やまはだが赤土になっている。山にはまだ木や草がまばらに生えている。
大荷物を積んだ大型トラックや三輪トラックが煙を吐きながらあえぐようにして走っている。中には時速10キロ程度のものもある。道の両側にはところどころに、白地に赤文字で「井水」や「加水」と書かれた看板が見られる。これは、自動車の冷却水を供給するところである。 国道だというのに、道の両端には脱穀した穀物が広げて干してある。まことにおおらかな風景だ。
黄土高原地帯は、年間降水量が約400mmと少なく、内陸に位置するため夏は35度を超す酷暑、冬は零下20度を越す酷寒という厳しい自然条件である。雨量が少ないため、建築材料となる樹木が育たないので、以前はほとんどの人びとが黄土堆積地層の崖に横穴を掘った「ヤオトン(窯洞)」を造って住んでいた。
井戸水の温度が一年を通じてあまり変わらないように、地下の家は夏涼しく、冬は暖かく、黄土高原の厳しい自然から人々を守ってくれる。省資源・省エネ住宅と言えよう。今は、若い年代層を中心に多くの人は、日干し煉瓦の家を建てて移り住んでいるが、年寄りの人は住み慣れたチャオトンを離れたがらず、いまだに住んでいる人も少なくない。我々が訪問したヤオトンには、日当たりの良い入り口脇に一段高くなったカンと呼ばれる寝台兼食事スペースがあった。カンに隣接してかまどが設けられており、カンの下は調理の排熱と煙が流れる空洞となっている。カンは蓄熱性に優れた日干しレンガで造られているため、排熱を蓄え、温かさが持続するとのことだ。
電灯もテレビも点いており、壁には中国スターのポスターも貼ってあった。真夏の時期にもかかわらずなかなか涼しくて快適さを肌で実感できた。これなら年寄りたちが離れたがらないのもわかる気がした。厳しい自然条件に適したヤオトンは今なお4000万もの人が住んでいると言われている。
現在、住まわれなくなったヤオトンは、普段は貯蔵庫として使われ、また冬季の砂嵐などを防ぐのに利用されている。
子どもが数人いたが、どの子も純真で人懐っこくてとてもかわいい。「可愛」(かわいい)と言うとニコニコして嬉しがる。食べるものをあげたかったが、ガイドから「虫歯になるから、飴やお菓子をあげないでください」とあらかじめ注意されていたので、何もあげるものがなかった。ふだん飴などを口にできないので、味を覚えさせると却ってかわいそうな思いさせてしまう……そんな気もした。写真を撮ってあげると満面の笑みで喜んでいたが、あいにくポラロイドでないので、これもプレゼントできなかった。
彬県大仏寺(大仏寺と千仏洞
唐の太宗李世民の命により、隋末の戦乱で亡くなった将兵を弔うため、山の断面に造営された石窟寺院である。130に及ぶ石窟 446の龕(ずし)に1988体の代償の仏像が彫られている。大仏寺には、北に向って座った姿の唐代一の大仏があり、大仏寺の名はそれに由来している。大仏は釈迦牟尼で、高さは24メートルにも及ぶ。その造形はふくよかで丸みを帯び自然の趣があり、顔は荘重である。一説には、太宗の顔を映しているともいわれている。大仏寺の石窟は、中国唐代の始め頃の精巧で美しい石刻の芸術と造形の風格を示している。
千仏洞には、首のない石仏がたくさん見られた。中国の石仏や文化遺産で破壊の被害を受けているのは、たいていイスラム教によるものか文化大革命のいずれかであるが、ここではそのいずれでもなく、唐代に会昌の難(廃仏政策)に遭遇したためである。当時この政策で、全国のおおきな寺が取り壊された。
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