東日本大震災 未来への祈りと伝承〜「みちのく巡礼」

みちのく巡礼は、東日本大震災の祈りの場創設と記憶・教訓の伝承、防災精神の啓発、復興に寄与する活動を行っています。

2漢唐陵墓〜咸陽〜蘭州・炳霊寺

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杜泉新生シルクロード2万キロをゆく10

2009年4月17日(土)
「杜泉新生シルクロード2万キロをゆく」8〜10について、写真の後に紀行文を加えましたので、戻ってお読みいただければ幸いです。

 蘭州から劉家峡ダムへ(中国4)

蘭州〜劉家峡ダム

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蘭州近郊の町 求人を待って道端や歩道に座り込む人びと。上海や広州などの民間による工業発展のため、蘭州では国営企業が倒産して失業者が増大した。そのため、日雇い仕事の求人をを待って、多くの人が道端や歩道に座り込んでいた。中には「休職意中」と書いたボール紙を掲げている人もいる。

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道路わきの山際の法面工事:どこの工事現場でも工事機械はほとんど使わず、手作業で行われていた。働き口を与える国家政策? 

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道路工事のため迂回した道は、なんと昔のシルクロードだった。何が幸いするのかわからない。だが、道が悪く、道路わきは断崖絶壁なのでいささか恐怖感も感じた。

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工事が完了したよい道路に戻る。

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車を止めて休んでいると、向こうからおじさんに導かれて2頭のロバがのんびりと歩いてくる。草を食べさせるのだそうだ。

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山奥の日干し煉瓦の農家にパラボラアンテナが! 失礼ながら…、この辺にはテレビはないと思っていた。無知を恥じる。

劉家峡ダム

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チベット高原に源を発し,松藩の大湿地帯を抜け,青海省から急流となって駆け下ってきた黄河は、流れがゆるやかになったこの地点で劉家狭でダムに出会う。劉家狭の標高は約2000m,発電と農業用水供給のための多目的ダムである。
劉家峡ダムは、胡錦涛国家主席が大学卒業後に最初に赴任した場所である。

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狭い岸壁がそのまま流量調節の水路の役割を果たしている。

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高速艇で炳霊寺へ向かう。所要時間訳50分。

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黄河は青かった。 黄河の上流はきれい透き通った水色なのです。ところが、これより下流の黄土地帯で、茶色に濁った支流が流れ込むので、黄河らしい色になるとのことでした。これは初耳だった。

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祁連山脈の山並の濃いベージュが薄いブルーの水面に映り、まるで溶け込んでいるようでだ。何ともいえない雰囲気を醸し出している。

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優雅な中国風の遊覧船がゆったりと進んでゆく。

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上流に遡ってゆくと、両岸は切り立った岩が姿を現す。

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イメージ 14炳霊寺の周りは気奇峰や奇岩で独特の雰囲気を持つ。

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絶景を楽しみながら、炳霊寺に到着。


 8時35分 ホテルを出発し、チャーターしたジープで今日の見学地の炳霊寺へ向かう。
東西に幅広い大通りが走り、街路樹も法国梧桐(フアクオウートン/プラタナス、白楊・青楊(ポプラ)や柳と緑も多い。並木が美しかった。海抜1500mと高地なので9月初旬というのに、さほど暑くない。日中の強い日差しを避ければ汗もかかない。

 蘭州を紹介します。
――蘭州の人口は300万人で、町の中央を黄河が流れ、北に白塔山、南に五泉山がそびえている。1976年から1979年かけて(陝西・甘粛・寧夏)陝甘寧盆地において長慶油田の開発が本格化し、年産100万トン規模の石油基地が形成された。そして、ソ連の技術や主要設備を導入して蘭州錬油廠や蘭州石油加工機械廠、蘭州化学工業公司などが建設された。     
 国営企業の比率が高く、対外開放は遅れたが、92年に蘭洲が内陸開放都市に指定された。こうして蘭州は玉門油田の石油の利用した石油工業基地となった。
 だが、近年公害が問題となり、また国営企業倒産による失業者増大で治安が悪化し、強盗殺人や麻薬事件が頻繁に起きている。蘭州周辺は農業、牧畜が盛んである。白蘭瓜の産地として有名で、“瓜果城”として知られる。その他、漢方薬材、毛皮などを産する。非鉄金属を中心に鉱物資源が豊富である。年間降水量は約300mmで、緑化政策で降雨量がわずかながら増えてきている。
 昔は金城といわれていたが、明代になり蘭州と呼ばれるようになった。蘭州からウルムチまでは列車で24時間かかるとのことだ

 ガイドに周辺状況の教育や生活について質問すると、次のように答えてくれた。
 ――小学校、中学校は義務教育だが、学費が小学校で30元、中学校では100元かかるので、農村には大きな負担であり、学校へ行けない子どもが多い。学校では、授業中は50%ほどしか教えずに、放課後お金を取って教えるなど、先生のモラルも低下している。
 定年は、男60歳、女55歳だが、国営企業の経営状態が悪くなると、男50歳、女45歳でリストラされる。したがって、一般的な親の生活は厳しい。生活苦のため親は子どもの面倒をみれないため、子どもは祖父母に甘やかされて育つ。現在、一人っ子政策が開始されてからの子どもたちが20歳を越える。また、子どもたちは暇つぶしにインターネットカフェでインターネットに興じたり、万引きをするなど、子どもの非行化が社会問題になっている。また、親もそれぞれバラバラの生活を送っており、麻雀、トランプ、酒場などで遊興にふけって離婚を招く例も少なくない。
 蘭州市内をバスで走っている時に、歩道にしゃがんで何かを待っているような様子をしている人がいる。ガイドに訊くと、仕事の声がかかるのを待っているのだそうだ。おそらくリストラされた人たちなのだろう。劉家峡ダムへ向かう道すがらで、道路の法面の工事をしていたが、どの現場でも工事機械は一切使わず、すべてスコップなどでの手作業だった。おそらく働き口をあたえるための国家政策なのだろう。

 道路沿いには、時々日干し煉瓦の家が建っている。周囲は同じ日干し煉瓦で作った塀で囲まれている。おそらく黄砂交じりの強風を防ぐためのものだろう。また、家の近くには砂嵐を避けるための横穴も見かける。こうした家には、直径1mほどのパラボラアンテナが立っている。
 道路まで迫っている両側の山は、緑化政策が功を奏してか、緑が増えてきている。この周辺は、放牧禁止になっている。その代わり政府が土地を与えて、段々畑にして、そこへ草や木を植えさせている。水は黄河から山上へ汲み上げ、そこから給水している。植樹した苗木の周囲には水が流れ落ちないように10センチくらいの高さの土手が設けられている。涙ぐましい努力がにじみでている。
 現地ガイドの話――政府が山奥の人びとのために平地に住宅を建設したので、そこへ住むようになった。しかし、この地域には仕事がないので、若い人たちは蘭州へ出稼ぎに行っている。そこにも仕事がないときには、遠く上海や北京まで働きに出る。5月1日と10月1日からは、それぞれ1週間の休日があるので、この期間は帰省客で混雑するとのことである。教育費は月額、小学生が月に30元、中学生が着きに100元かかる。これが、親にとっては子どもの大きな負担になっている。そのため、女の子の教育はおろそかにされてしまいがちである。

 我々が車を停めて休憩しているところへ、二頭のロバを連れた老人がゆっくりと歩いてきて、狭い平地部分で草を食べさせている。
 ジープは、蘭州から約100kmの劉家峡ダムへ10時05分に到着した。

劉家峡ダム
 ダムの堰堤の高さ142mで、堰堤の下に発電所がある。1972年から稼動している。胡錦涛国家主席が大学卒業後に初任勤務した場所である。面積は約130㎢であり、琵琶湖の約5分の1くらいである。炳霊寺まで高速艇で54kmの船旅だ。
劉家峡ダムは、黄河をせき止めたので水はにごっているのかと思ったが、青く透き通っている。不思議に思ってさっそく質問をすると、「黄河本流の上流はもともと青い色をしているのです。ダム湖には、洮河、黄河、大夏河の3つの川が注ぎ込みます。出発してすぐに黄色い水の洮河と、青い黄河が合流しますから見ていてください。」と言う。「しかし、なぜここは青いのですか?」と訊くと、「ダム付近の黄河は、泥が沈殿するため青い色をしているのです」という。これで納得した。
 
 ダムは一九六八年に黄河を堰き止めて造られた。しかし、近年黄河への土砂の流入が激しく、すでに三分の一は土砂で埋まってしまっているという。流域の砂漠化が原因である。いま懸命にダムの周辺の山々へ植樹が進められているとのことだ。砂漠化の波が激しく中国を襲っている。そして、それに応戦するように全国で緑化運動が展開されている。 最近の標語は「畑を林に戻せ」である。
 私が1992年黄土高原を列車で通ったとき「人口が多い。されど国土は狭い。耕作に励むべし」というスローガンが書かれた大きな横看板を目にしたことがあった。今回の旅でも、陝西省や甘粛省の黄土高原で「耕して天に至る」という風景によく出会った。親から子へ子から孫へ、何百年もかけて耕してきた。そして、山頂近くまで見事な段々畑を築きあげてきた。ところが、「それが砂漠化の原因なのだ」と言われ始めた。「耕地を林に戻さなければならない」と…。勿論たやすいことではない。畑に耕せば穀物が穫れる。林に戻したら…? 難問を抱えながらも事態は後に引けないところまできている。

 以前、私も内蒙古での植樹活動への参加を考えたことがあったので、日本からのボランティアのグループがここでも植樹活動をしていると聞いたことがあった。だが、なにせ見渡す限りの禿げ山である。〈緑になるのには何十年かかるのか、何百年かかるのか。気の遠くなるような挑戦になるだろう……〉そんな思いで周辺の山々を眺めた。出発してまもなく合流点の水は黄色になった。だがそれより上流は黄河の濁流はなくなり、水は青緑に澄んでいる。水質は汚染されておらず、四季を通じて1年中凍ることがないとのこと。
高速艇が走り出して10分足らずで、洮河(とうが)とのごうりゅうてんにさしかかった。洮河から像流入する水は、黄濁が黄河よりさらに強い。千トン中に3トンの割合で土砂が含まれており、発電所ではダムの寿命を保つため、とりわけ土砂の多い洮河の水をわきにながしているそうだ。
くらいすると、カヌーやボートの練習光景が目に飛び込んできた。北京オリンピックの強化練習とのこと。相当数の人数だ。この中から北京オリンピックの選手が出るのだろう。(過去の話ですみません)
 上流に上るに従い、景色はいろいろに変化する。両岸に広がる特色ある黄土丘陵風景や独特な造形の石林景色が目を楽しませてくれた。峡谷に入ると両岸には断崖絶壁がそびえ、まさにグランドキャ二オンといった感がする。所々にある緑の平地には、ダム湖の周辺に生息する野生のヤギが草を食んでいるのが見える。
 

杜泉新生シルクロード2万キロをゆく10

?H1>ホテル服務員と二人旅で平涼から蘭州へ(中国3)

平涼〜蘭州

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「しばえびす」は、漢方では麻酔剤に利用されている。
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黄土高原にはところどころに段々畑や棚田が見られる。涙ぐましい土地利用だ。16年前黄土高原を列車で通った時、「国土は狭し、されど人口は多し。耕作に励め」という意味のスローガンが書かれた、大きな横看板を目にしたのを思い出した。

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写真ではよくわからないが…、谷底までは200メートルほどはあるだろう。私が撮影している、橋の長さがが200メートル以上あるのだから、下を流れる川にしても、幅が数十メートルはあるだろう。とてつもないスケールだ。

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色とりどりのものは何でしょう? 
……………道端でかぼちゃが売られていました。声をかけられてもこれからトルコまで持っていけませんよね〜 
 

蘭州

 今まで青々としていた空が蘭州が近づくにつれて、どんよりと曇ってきた。「おや、天気が悪くなってきたのかな?」と思ったが、そうではない。 蘭州は、石油精製工場や化学工場が多く、中国で最も大気汚染がひどいところといわれている。写真も鮮明でない。
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いよいよ黄河が見えてきた。「やっぱり黄河の色」だった。中流の洛陽や河口に近い斉南より濁りがすごい。
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黄河は黄色というより赤褐色をしている。ミルクチョコレート色とでも言ったらよいのだろうか…
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蘭州は黄河に沿った細長いの街並み。橋を渡って市内へ入る。
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蘭州には、「ひょうたん専門店」があり、装飾品などのひょうたん製品がたくさん並んでいた。ひょうたんは蘭州方面の特産だ。
店には、次のような写真入のパンフレットがあった。帰国後日本訳して見ると――
「甘粛省蘭州市の査さんは、6年間の実験と研究で、サッカーボールやバスケットボール、バレーボール、中国将棋、弥勒仏にそっくりなヒョウタンの栽培に成功した。これで6つの特許を手にした査さんは、サッカーボールなどの形をしたヒョウタンを、北京五輪へのお祝いとして北京五輪組織委員会に贈るつもりだと話している。」
 *「いろいろな形は、どうして作るのですか?」と質問したら、「バイオテクノロジーを利用してひょうたんの形をコントロールして作りますが、6年間もかけて研究したのだから…、それは秘密です」と言って、ウインクして笑っていました。とてもユーモアのある人でした。

イメージ 14黄河沿いの公園では、たくさんの人びとがいろいろなスポーツやまあじゃんなどのゲームに興じている。中国の公園では、どこでもよく見かける光景だ。
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イメージ 17イメージ 18   蘭州ラーメン(牛肉麺・ニュウロウメン)は美味       旅の疲れを足底マッサージで… 40元 
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蘭州は大工業都市と言われるだけあって、大通りには数多くの科学・工業系の研究所がの機を連ねている。


平涼から蘭州への二人旅
 この旅はいろいろなことを体験するため、現地の観光バスやガイド付きのタクシーなどは、出来るだけ利用しないことに決めていた。
 そのために、以前からシルクロードやその他の国をひとり旅した人たちの体験記を本で読んで研究していた。
 ヒッチハイクは誰しもやることだが、ホテルの服務員に相談することもひとつの方法だ。
 フロントのチーフに相談すると、幸運にもホテルの服務員の楊さんが用事があって蘭州までゆくという。これぞ渡りに船。頼んで便乗させてもらうことになった。
 蘭州まで、途中案内してもらいながら、向かうことになった。ガイド付きとまったく同じだ。

道々、黄さんから聞いた興味深い話を少し紹介しよう。
 ――「団結」「文明」「文化」「憲法」「政治」「科学」などの熟語が、日本からの逆輸入だ、だということ、西安の方言で自動車を日本と同じ「くるま」と発音すること。中国では8億の農民といわれるが、実際には4〜5億人であること、などだ。
 出発して40分、距離にして58km走行して寧夏回族自治区へ入った。自治区が半島のように甘粛省に食い込んでおり、自治区内を約60km走行するのである。自治区に入って2分ぐらいで三関口瑞道を通過する。トンネルから出ると道は次第に狭くなって山間に入っていく。今日はヤオトンがほとんど見られない。
 出発するとほどなく、黄さんが「前方に六盤山が見えてきました」と指差した。前方には大きな山並が広がっている。
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「どれが六盤山ですか?」と質問すると、「全部が六盤山です」と答える。
「日本では、ああいうのは山脈というのですが……。中国では山脈という言葉はないのですか?」と質問したところ、
 中国でいう「山」は日本の山脈規模のものを言い、中国で用いられる「山脈」(「山脉」)は、日本の山脈が何重にも集まった大きな塊のようなものだとのことだ。さしずめエベレスト山系などをイメージしてもらえばよいだろう。
 
 ここからは、やや急な坂になり、5分ほどで六盤山トンネルへ入った。1997年に完成した2385mのトンネルである。このトンネルの上にそびえる六盤山の最高峰半崗嶺は2942mで、チンギスハーン終焉の地と言われ、頂上付近には「長征の碑」が立っているとのことである。

イメージ 25 周囲のポプラは少し黄ばみかけている。下り道には、スピードが出すぎないように進行方向に垂直に高さ10センチほどの突起が施されている。日本でもたまに見かけるのと同じようなものだ。
イメージ 26 道端のところどころに、すいかが売られている。日本のものと違い楕円形をしている。よく日光の当たる乾燥地帯で育っているためか、すばらしい味だ。私はこのよう甘くてみずみずしいすいかを食べるのは、初めてだった。
 周辺の畑には、黄色い花がいっぱい咲いている。柴胡といい、解熱剤に用いられている。
 出発してから100キロほど走行して再び甘粛省に入った。日差しはあまり強くなく、風がさわやかで、透き通った青空がいい。
 宏達飯荘で昼食を取る。ジャージャー麺と焼き鳥である。焼き鳥と言っても日本の串にさしたものでなく、鶏を丸ごと蒸したものを火に通したものである。身をほぐしてビールを飲みながら食べる味は格別だった。
 道端には、ところどころに露店が並び橙色のかぼちゃやキャベツ、とうもろこし、トマトなどを売っている。
 そこから少し行った所の小高い山の上になにやら城跡のようなものが見える。ガイドに訊いてみると、山賊の城跡だとのこと。昔、山の上から様子を見ていて、今我々が車で走っているこのシルクロードを通る商人や旅人を襲って金品を奪っていたのであろう。
 時々川のそばを通るが、水がまったくなく、川底は粘土を硬く固めたような状態になっている。
 バスは、岩のように硬くなった茶色の山肌がそそり立つ山肌の間を走り続ける。車は、深い谷底が見える渓谷の橋付近でストップした。
 この谷は、深さ100m以上もある浸食谷である。黄土高原の固い粘土質の土は保水力が無いため、降った雨は大地を削りながら低いところに集まり、長い年月の間に深い谷を形成したものだ。そこは、グランドキャニオンを砂漠化したような感じで、「黄土高原グランドキャニオン」と呼ばれることもあるそうだ。
 この周辺は、10年ほど前までは羊の姿が見られたそうだが、現在は放牧を禁止して緑化を計っている。粘土質の山肌を水平に削って植林をし、植えた木の周辺を土手状に囲って水が流れないように工夫している。涙ぐましい努力を感じる。
 ところどころにミツバチの巣箱やひまわり畑が見える。また、この辺の家の周囲はレンガの壁で囲まれている。
 道は少しずつ上りになり、山のほうへ向かう。峠に差し掛かったところで周囲をみると、変化に富んだ光景が広がっている。遠くにみえる山には樹木は生えていない。山腹も丘陵も、耕せるところはどこも段々畑になっている。土地の有効利用に心がけている国家政策と農民の努力とが垣間見られた。
 段々畑は作物の緑と山肌の茶色がみごとな縞模様を織り成し、その等高線が渦巻きのようにみえてすばらしいながめだ。この辺の標高は2100mほどだ。ここでバスを止めて、しばしこの景観に浸った。だが一方では、〈農民の苦労も知らず景色としてみるのは不謹慎ではないか〉という後ろめたさも感じていた。
蘭州へ近づくと、化学プラントが何箇所かに見えてきた。ここ一帯は石油や化学の大コンビナート地帯で、中国有数の「空気の悪いところ」であり、近年公害問題が深刻化してきている。空はどんより曇っていて、周辺も霞がかかっているようで薄暗い。年中ほとんど晴れ間が見られないとのことだ。のどの弱い同行者がバスの中で盛んに咳き込んでいる。市街地に入る前、黄河に差し掛かった。水はチョコレート色である。
 ホテル到着後、スーパーに買い物に行く。2階建てのかなり大きなスーパーである。スーパーは、値札がついていて値段の交渉をする必要がないので、安心して買い物が出来る。日本の価格と比べると、とにかく安い。りんごや桃は、小ぶりだが1個5円〜10円だ。

杜泉新生シルクロード2万キロをゆく9

2009年4月15日(水)

咸陽〜漢・唐陵墓〜平涼(中国2)

五陵平原(漢墓)

[茂陵博物館と霍去病の墓]

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漢の武帝の墓・茂陵 武帝は霍去病に命じて匈奴を鎮圧し、シルクロードを支配下に収めた。

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馬踏匈奴(国宝) 宿敵匈奴を馬が蹂躙している。漢の意気軒昂振りが表されている。

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茂陵博物館 入口

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茂陵博物館 漢代鍍金馬  待ち望んだ名馬来たるの喜びが金の馬となって、形に表れているようだ。

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猛将・霍去病の墓 武帝の信頼が厚かったが、24歳の若さで逝去

乾陵 高宗・則天武后の巨大な合葬墓

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乾陵  唐第3代皇帝高宗とその皇后である則天武后が葬られている。

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高宗の「大葬」に参列した、西域をはじめとする61カ国の使節の姿をあらわした「王賓群像」

永泰公主墓

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永泰公主墓 則天武后に殺された孫・永泰公主の墓 墓の参道や四方の壁にはすばらしい壁画が描かれている。
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壁に描かれた「女侍図」

黄土高原とヤオトン(窯洞)

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次第にに緑が少なくなって来た。
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これぞ黄土高原といった景色。

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黄土高原の人びとは、以前は、ほとんどの人が、窰洞(ヤオトン)と呼ばれる横穴にすんでいた。今でも少なくない。
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訪れたのは夏だったが中はひんやりとして気分がよい。電化製品も入っている。

大仏寺石窟

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大仏は高さ20mあり、太宗を似せて作ったといわれている。
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[平涼]

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平涼市内(左) ホテルより(右) 

五陵平原(漢墓) 

武帝の墓・茂陵と霍去病の墓

 咸陽を過ぎて、北西に1時間近く走ると、一面の平原のところどころに小山が見えてくる。この一帯の平原は五陵平原といわれ、前漢11代の皇帝の中9人の皇帝の陵墓が東西に一直線に並んでいる。その様子が良く見える。ちなみに、お金持ちで働かない少年を「五陵少年」というのだそうだ。おそらく一人っ子で政策で甘やかされた子どもが「皇帝」と呼ばれているのと同じように、皮肉と困惑をこめた呼び方なのだろう。
前漢代の陵墓群で最も規模が大きいのが、武帝の陵墓である茂陵である。
 茂陵に近づくと観光客を当て込んでか、ぶどうの露店が見受けられる。農家の直売だろう。
茂陵に到着するとすぐに、茂陵博物館の事務所に出向き、咸陽のホテルの服務員からの紹介メモを見せた。すると若い館員が案内してくれることになった。係員は日本語が話せる人だ。当時は日本人観光客が主だったので、若い館員は日本語の習得に熱心だと言うことだった。
 まず、茂陵に上って、漢墓全体を眺めることにした。茂陵は高さ46.5mもある。上るのにけっこう骨が折れた。息を切らせながら頂上にたどり着くと、武帝の上に立ったようでいい気分だった。西北には寵姫李夫人、東南には衛青、霍去病と武帝お気に入りの将軍たちの墓が並んでいる。
 頂上からの眺望をカメラに収め、駆け下りると、小さな薄紫の花が茂陵を囲んで一面に咲き乱れていた。
「これが、苜蓿(うまこやし・クローバー)。天馬の衛門三郎として、西域からもたらされたものです。
武帝は西域に天馬を求め、この苜蓿で育て上げ間櫻井ィ田。そして匈奴を駆逐したのです。どうです、この景色は、漢武帝とシルクロードを物語る上に、絶好のところでしょう」と、特別に案内してくれた茂陵
の係官の説明を受けた。多少たどたどしいが充分にわかる日本語だった。わざわざひとりのために説明してくれたことに感謝した。
 係官のあんないで、茂陵博物館を見学する。この博物館は霍去病の墓を背景にして、その前にある。巨大な石の彫刻群が展示されていた。奇怪な人面、魚やトラ、象、牛などの石刻(自然の石を彫って作った彫刻)が、骨太I中国の古代文化を示している。
 そんな彫刻の中で私がもっとも興味を引かれたのは、「匈奴を組み伏せる天馬」の関国である。ひときわ目に付くのが、「馬踏匈奴」の石造である。ひげを生やした匈奴の兵が仰向けに倒れて、その上に天馬がまたがって、傲然といなないている。「馬踏匈奴」といわれるこの石刻は、おそらく、武帝が牙としてあこがれてやまなかった“大宛の馬の姿と同じであったろう。”

 武帝は、中央集権化を進め、儒教を国教に定め、前漢最盛期を創出した。それとともに、われわれシルクロード旅行者にとって関心が深いのは、匈奴討伐、張騫の派遣など積極的に西域開発を推し進めたことだ。
 茂陵の側には、武帝に愛された将軍霍去病の墓がある。霍去病は、叔父の衛青とともに匈奴討伐に従軍して功を上げたが、若くして病死してしまい、彼の早すぎる死を悼んだ武帝が自分の側に墓を造らせた。現在、霍去病の墓は、茂陵博物館になっている。

  漢王朝はシルクロードを手中に収めるため、再三匈奴に戦を挑むが、漢の馬は匈奴の馬よりも劣るため苦杯をなめていた。そこで武帝は、かつて匈奴に敗れて西へ落ちていった大月氏と同盟して匈奴の挟撃を狙って張騫を派遣したが、同盟は失敗に終わった。
 しかし張騫の報告によりそれまで漠然としていた北西部の情勢がはっきりとわかるようになり、さらには大宛(現在の中央アジア・キルギス付近)に優秀な馬がいるとの情報ももたらされた。武帝は衛青とその甥の霍去病の両将軍を登用して匈奴に当たらせ、幾度と無く匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。
 李広利を大苑に遠征させて、良馬数十頭、中馬3000頭余を獲得するという戦果を得た。この優秀馬は、「血のような汗を流して走る馬」という意味で「汗血馬(かんけつば)」と呼ばれ、中国の歴史上で名馬といわれた。武帝はこの汗血馬の群を「天馬」と称し絶賛した。仰向けになった匈奴を踏みつけて立つ天馬の姿からは、意気天を衝(つ)く漢王朝の気分が十二分に伝ってくる。中国語と英語の説明が書いてあり、それを見ると高さ168cm、体長190cmあり、国宝に指定されている。

唐墓

 漢墓をから唐墓に向かう道の両側は、果物畑になっている。西安の西はりんご、南はキウイ、東はザクロ、北はなつめの産地であり果物畑が多い。 ふとバスの前方を見ると、道端に薄い板に墨で「桃子」と書いた看板が立っていた。桃の露店だ。この辺はいかにも中国的だ。一斤(500g)1元である。 
 この近辺には太宗(李世民)の陵がある。太宗は、唐朝の二代目皇帝であり、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君と称えられている。
 = 乾陵と悲劇の皇女永泰公主の墓 = 
 乾陵は唐の第3代皇帝高宗と則天武后の合葬墓である。永泰公主の墓はその陪葬墓のひとつである。
 永泰公主は、唐の4代皇帝中宗の娘で、祖母である則天武后の怒りに触れて17歳の若さで死を賜った。
墓室の両側の壁には壁画が壁を一面に多い尽くすほど描かれている。参道の壁画が有名だ。「侍女図」と呼ばれ、日本の高松塚古墳の壁画と酷似しており、唐代の代表的なふっくらとした女性が描かれている。但しここの壁画はレプリカで、本物は陝西歴史博物館の地下に収蔵されている。
?H1>黄土高原とヤオトン
黄土高原は、ただの黄色い黄砂の台地ではなく、台地の頂上まで、麦や果物を植えた段々畑が続いている。中国中央部に広がる黄土高原は、西方のゴビ砂漠から風に乗って運ばれてきた黄土が堆積してできた1000mを越す高地である。アスファルト道路の両脇は一面、粘土質の硬い土であり、周辺の小高い山は、やまはだが赤土になっている。山にはまだ木や草がまばらに生えている。
 大荷物を積んだ大型トラックや三輪トラックが煙を吐きながらあえぐようにして走っている。中には時速10キロ程度のものもある。道の両側にはところどころに、白地に赤文字で「井水」や「加水」と書かれた看板が見られる。これは、自動車の冷却水を供給するところである。 国道だというのに、道の両端には脱穀した穀物が広げて干してある。まことにおおらかな風景だ。
 黄土高原地帯は、年間降水量が約400mmと少なく、内陸に位置するため夏は35度を超す酷暑、冬は零下20度を越す酷寒という厳しい自然条件である。雨量が少ないため、建築材料となる樹木が育たないので、以前はほとんどの人びとが黄土堆積地層の崖に横穴を掘った「ヤオトン(窯洞)」を造って住んでいた。 
 井戸水の温度が一年を通じてあまり変わらないように、地下の家は夏涼しく、冬は暖かく、黄土高原の厳しい自然から人々を守ってくれる。省資源・省エネ住宅と言えよう。今は、若い年代層を中心に多くの人は、日干し煉瓦の家を建てて移り住んでいるが、年寄りの人は住み慣れたチャオトンを離れたがらず、いまだに住んでいる人も少なくない。我々が訪問したヤオトンには、日当たりの良い入り口脇に一段高くなったカンと呼ばれる寝台兼食事スペースがあった。カンに隣接してかまどが設けられており、カンの下は調理の排熱と煙が流れる空洞となっている。カンは蓄熱性に優れた日干しレンガで造られているため、排熱を蓄え、温かさが持続するとのことだ。
 電灯もテレビも点いており、壁には中国スターのポスターも貼ってあった。真夏の時期にもかかわらずなかなか涼しくて快適さを肌で実感できた。これなら年寄りたちが離れたがらないのもわかる気がした。厳しい自然条件に適したヤオトンは今なお4000万もの人が住んでいると言われている。
 現在、住まわれなくなったヤオトンは、普段は貯蔵庫として使われ、また冬季の砂嵐などを防ぐのに利用されている。
 子どもが数人いたが、どの子も純真で人懐っこくてとてもかわいい。「可愛」(かわいい)と言うとニコニコして嬉しがる。食べるものをあげたかったが、ガイドから「虫歯になるから、飴やお菓子をあげないでください」とあらかじめ注意されていたので、何もあげるものがなかった。ふだん飴などを口にできないので、味を覚えさせると却ってかわいそうな思いさせてしまう……そんな気もした。写真を撮ってあげると満面の笑みで喜んでいたが、あいにくポラロイドでないので、これもプレゼントできなかった。
 

彬県大仏寺(大仏寺と千仏洞

唐の太宗李世民の命により、隋末の戦乱で亡くなった将兵を弔うため、山の断面に造営された石窟寺院である。130に及ぶ石窟 446の龕(ずし)に1988体の代償の仏像が彫られている。大仏寺には、北に向って座った姿の唐代一の大仏があり、大仏寺の名はそれに由来している。大仏は釈迦牟尼で、高さは24メートルにも及ぶ。その造形はふくよかで丸みを帯び自然の趣があり、顔は荘重である。一説には、太宗の顔を映しているともいわれている。大仏寺の石窟は、中国唐代の始め頃の精巧で美しい石刻の芸術と造形の風格を示している。
 千仏洞には、首のない石仏がたくさん見られた。中国の石仏や文化遺産で破壊の被害を受けているのは、たいていイスラム教によるものか文化大革命のいずれかであるが、ここではそのいずれでもなく、唐代に会昌の難(廃仏政策)に遭遇したためである。当時この政策で、全国のおおきな寺が取り壊された。

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